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[第二法章 風踊り]

 穏やかなさざ波の音が心に染み込んでくる。

 闇のマントをはおった夜空では、お星様たちがまたたいてて。

 優しい歌声がみんなを包みこんでる。

 この歌声は、お母さんだ。

 眠い目をなんとか開けば、だいすきなお母さんのひざの上にわたしがいて。

 お母さんの手が、わたしの髪をなでてくれてる。

 うれしい。

 愛されて。

 満たされてく。

(セア――)

 お母さんの声、なんだか遠い……。

 やだよ。

 さみしいよ。

(いい、セア。世界はね、欠片でできているのよ)

 かけら?

 こわれちゃってるの?

(そうじゃないわ。あなたもわたしも、世界の全ての存在が、世界の欠片なの。一つだということよ)

 でも、わたしはお母さんじゃない。

 お母さんとちがうの。

 やだよ。

 ばらばらは、いや。

(セア、世界は確かに、バラバラに砕け散ってしまったように見えるわね。みんな、体っていうものの中に入ったままで、海のように融け合うことができないように、見えるわ)

 やだぁ。

 わたし、お母さんとずっといっしょにいる。

 お母さんになりたい。

(だいじょうぶよ、セア。わたしはずっとあなたのそばにいるわ。例え体が離れていても、心が寄り添ってる。それも無理なら、魂で繋がってる。それが、世界の本当の姿なのよ)

 ほんとう?

 よくわからない。

(世界にある存在が、バラバラなのも本当。けれどそのままじゃ、淋し過ぎるわ。世界は繋がっているの。あなたは、わたしを感じられるでしょう?)

 うん。

 あったかいの。

 だいすき。

 だぁいすき。

(わたしもあなたのことを、愛しているわ、セア。その絆が世界の本当の姿なの。バラバラな存在を絆で繋げて、調和させていく。本当の優しくて、幸せな世界の姿なのよ)

 ちょうわ?

(みんな仲良しさんっていうことよ)

 いじわる、されない?

(うふふ。どうかしらね。セアはかわいいから、かまいたくなっちゃうわ。でも、もうひとりぼっちにはならないわ)

 みんながいてくれるから?

(あなたが、みんなと繋がっているからよ)

 あいしてる?

(あなたはまだ幼いから、その言葉は早いわ。愛しているっていうのは、全てを超える言葉なんだから)

 むずかしい……。

 わたし、お母さんがいてくれたら、それでいいや。

(今はそれでもいいわ。いつか、セアが大人になったら、セアを愛してくれる運命の人と出逢えるから)

 お母さん?

(あなたは、もっとたくさんの人に愛されるわ。これは、絶対なのよ)

 お母さんが、たくさん?

(うふふ。そうかもしれないわ)

 それって、すごく幸せ。

 うれしい。

(それでね、セア。それって、作品も一緒なのよ)

 なにと、いっしょ?

(調和ってしているっていうこと、みんなが繋がっているっていうことよ。魔法も、音楽も、詩も、舞踏も、絵画も、建築も)

 みんな、ちがうよ?

 わたし、魔法は奏でられるけど、小説書けないし。

 言葉がうまく紡げないの。

(見た目はね。でも、作品って、いろいろな要素が調和して始めて、最高傑作になるのよ)

 ようそ?

(魔法なら、周りのみんなの魔力と自分の魔力を調和させて、奏でていくの。音楽はたくさんの音を旋律と律動と和声で一つにしていくの。他の作品も、要素は違うけど、それを繋いで、一つの作品とするの。作品って、新しい世界なのよ)

 世界をつくるの?

(そう。創造っていう行為はね、創世なのよ。世界を生み出すの。そして、世界はさっき言った通り絆でできているの)

 うん。

 世界を創造するって、すごいことだよね?

(そうなのよ。あなたが何気なくしていることは、本当はとてもすごいことなのよ。だからね、セア。あなたは優しい世界を創造しなさい。誰かを思うものを創作しなさい。大好きって気持ちを忘れないで。あなたみたいな、ひとりぼっちがいないように、みんなを愛して)

 お母さん?

 声が遠くなってく。

 やだ、ひとりにしないで。

(だいじょうぶ。わたしはいつもあなたと一緒。わたしは、あなた。あなたは、わたし。本当は、世界の全ては同じなのよ)

 まぶしい。

 お母さんがいなくなっちゃう。

 やだやだ、光いらない。

 朝なんていらない。

 わたし、お母さんといるの。

 優しいお母さんに愛されていたいのっ。

 もう、ひとりぼっちは、いやなの……。

(セア、泣かないで。あなたのそばにいてくれるのは、もうわたしだけじゃないわ。ちゃんと、魂を広げて、心を開いて、体で感じて。あなたへ向けられている愛を。あなたを愛してくれる人の想いを、ちゃんと受け止めて。あなたは、優しいいい子だから、だいじょうぶよね?)

 お母さん、行っちゃ、やだ。

 なんで、ずっとそばにいたのに。

 なんで、手が届かないの?

 なんで、追いつけないの?

 お母さんっ。

 お母さん!

 ひとりにしないで!


 ***


 目を開けたら、そのとたんに溜まってた涙がこぼれていって。

 すごく近くにアズリの顔があった。

「セア、起きたの?」

 わたしは、ぱちぱちと目をまばたきして。

 ぼんやりとした視界の中で、アズリのりんかくがはっきりしてくる。

 アズリのあごって、細くてきれい。

 いつもは、こんなに近くで見れないから、気づかなかった、

「セア? だいじょうぶなの? 起きられる?」

 あ、声を出さなきゃ。

 でも、なんだかのどがかれてて。

 細かい息しか出てこない。

 アズリの細い指が、わたしの目元をなぞって。

 大粒の涙が、さらわれていく。

「悲しい夢を見たの?」

 わたしの首は勝手にうなずいて。

 でも、わたしは夢のことをなんにも覚えてないの。

 ただ、切なさだけで胸の中でもやもやしてる。

 わたしは、アズリに手をのばして。

 ぎゅって、抱きつく。

 アズリの体は、すこしひんやりしてて。

 それに、細い体がいい感じにわたしにフィットする。

 アズリは、わたしの背に手を回して。

 子どもをあやすみたいに、さすってくれる。

 それが気持ちよくて、またまどろみに落ちてしまいそう。

「学校、行ける?」

 今度の質問には、ちゃんと自分の意志でうなずく。

 学校をサボったら、不良になっちゃう。

 そしたら、母様も父様も悲しむと思うから。

 アズリは、わたしの背中に手を回して、上半身を起こしてくれる。

「ごめんね、アズリ……」

 眠い思考で、なんとかそれだけ声にできて。

 アズリは、優しい笑顔を向けてくれた後に。

 わたしのほっぺを引っぱった。

「そこはありがとうでしょう?」

「にゃんで、ほっぺ、ふぃっぱりゅにょぉ?」

 さすがにその刺激で目が覚めてくる。

 アズリの笑顔はいつの間にか、いじわるな感じに変わっていて。

「寝起きで舌足らずなセアが可愛いからよ」

 その理由がどうしようもなく理不尽だということだけは、理解できた。

 なんとか、目線でアズリにうったえてみたら。

 アズリは、肩をすくめて、残念そうに指を放してくれた。

「顔、洗っていらっしゃい」

「ふぁーい」

 わたしはあくびを返事でかみころして。

 ベッドから降りたら、足がもつれて転んじゃった。

「ちょっと、セア、大丈夫!?」

「えへへ、まだ寝ぼけてるみたい」

 アズリには、笑顔を見せて。

 泣いてたせいで、もう心配かけてるから。

 そのまま洗面所に行って、顔を洗って、はみがきと着がえもすませてくる。

 リビングには、もうアズリが朝ごはんを準備してくれてた。

「セア、早く食べて。遅刻するわ」

「あ、うん」

 アズリはもう食べ終わってるみたいで。

 もうお皿を洗ってる。

 わたしはトーストにバターをつけて。

 目玉焼きといっしょに、ほおばってく。

 それを牛乳で飲みこんで。

 アズリが作ってくれた朝ごはんに夢中になってたら。

 ふあり、と髪が持ち上げられた。

「アズリ?」

「髪、梳かしてあげるわ。セアの髪はいじっていて気持ちいいし」

 すっ、すっ、とわたしの髪はくしで寝ぐせを直されていって。

 アズリはわたしの髪を二つに分けていく。

 それはうさぎの耳みたいに、すこし浮かんで前から後ろに流された。

「やっぱり、セアは髪質がいいわ。うらやましい」

「えぇ? アズリだって、つやつやな黒髪じゃない」

 わたしがそう言うと、アズリは優しい笑い声をもらして。

 朝ごはんを食べ終わって、わたしは食器を流しで洗う。

 早くしないと、ほんとうに遅刻しちゃう。

「ねぇ、セア。昨日、何があったの?」

「……え?」

 急にアズリに話をふられて、わたしは手を止めてしまって。

 お皿から、洗剤の泡がステンレスの流し台に落ちてく。

「昨日、帰ってきてから、様子がおかしいんですもの。紡法部に行って、何かあったの?」

 えっと、どうしよう……。

 アズリには、やっぱりちゃんと言ったほうがいいのかな。

 でも、そんなふうに言えばいいんだろう。

 考えれば考えるほど、言葉は浮かんでこなくて。

 考えてることも、まとまらなくなってく。

 すると、アズリの手が蛇口にのびてきて。

 アズリの手でひねられた蛇口が水をはき出していく。

「セア、ゆっくりでいいわ。なんとか、私が理解するから、話して」

 わたしの手から取られたお皿から、泡が水で流されてく。

 お皿の次はコップで。

 その次はフォークがキレイになってく。

「あのね、紡法部にいったらね、アウスオル君、まだいなくて、先輩と話してたの」

「ああ、あのおっとりした先輩?」

 アズリはわたしに相づちを打ちながら、蛇口を止めて。

 わたしは、こくん、とうなずいた。

「それでね、その先輩、ベルカナさんっていうんだけど。ベルカナさんは、ハーフで……あ、その前に、わたしのうわさのこと聞いたの」

「そう、知ってしまったのね」

「うん」

 アズリはわたしのカバンを取ってくれて。

 アズリはカーディガンをはおる。

 二人で玄関から出て、アズリが鍵をかけてくれる。

「それで、えっとね。アウスオル君が来たんだよ」

「ちゃんと、会えたのね」

 エレベータから見える森は、秋の色味を強くしてて。

 ずっと遠くに、実った小麦が金色のさざ波を立ててる。

「アウスオル君、もうデシレ書かないんだって」

「え? どうして?」

 受け付けのお姉さんにあいさつをして、外を出れば。

 空にはうすく雲が流れていって、空気はしめっぽい。

 風は緩やかに肌をなでる。

「えっとね、アウスオル君、やっぱり魔法は奏でられないんだって。紡法部にいるのも、意味とか、考えてないって」

 朝霧を吸い込んだ落ち葉は、ふわふわしてて。

 なんだか、歩いてても、足が浮いてるみたい。

 わたしの言葉みたいに、あいまいな感じ。

 アズリはわたしより、すこし前にいて。

 ポニーテールが、ゆらゆらしてるのを見てると、すごく手をのばしたくなる。

 そう、これはベルカナさんの耳に感じたのと同じ、ときめきだ。ううん、それよりも強いかもしれない。

 そっと、そっと手をのばして、指がふれるだけなら、バレないかもしれない。

 でも、バレたら、ぜったいアズリは怒る。

 ほっぺがひどいことになる。

 でも、ポニーテールは、アズリの歩調に合わせて、ずっとゆらめいてて。

「ねぇ、セア」

「あ、はい、ごめんなさい、さわろうとなんてしてません!」

 急にアズリが振り返るから、わたしは伸ばしかけた手を引っこめて。

 まるで条件反射のように、あやまった。

 それを見て、アズリは首を傾げて。

「何をそんなに慌てているの?」

「あ、ううん、なんでもないの、なんでもないんだから」

 わたしは必死に笑ってごまかして。

 アズリも、大したことはないと思ったのか、話を続ける。

「セア、今日も紡法部に行くの?」

「うん、行こうかな」

 わたしが答えたら、またアズリは前を向いて。

 しばらく、無言で歩き続ける。

 じくじくと、わたしたちに踏まれた落ち葉は、朝霧をはき出していって。

 その水を、土がまた飲みこんでいく。

「ねぇ、それってセアがまた傷つくんじゃないの?」

「え?」

 とうとつに、アズリはそう言って。

 それから、すこし早口で続けていく。

「私の時だって、あなた泣いたじゃない。そんな必要ないでしょ。別に文芸学科の生徒とか、セアには全く関係ないんだから。普通に、授業を受けてるだけなら、どうせもう会わないんでしょ。それなのに、わざわざ踏み込んでいって、それであなたが傷つくなんてバカらしくない? そうよ、昨日だって、紡法部に行かなければ、そんなふうに悩んだりしなくて良かったんだわ。だから、もう放っておきなさいな。書きたくないって作者いうんだから、それでいいじゃない」

 突風のように、アズリの言葉は吹き抜けていって。

 そこに染み込んだ優しさだけが、わたしの心を揺らしてる。

 わたしが泣かないように、止めてくれてる。

 でも、それで泣かなくなっても、わたしは幸せじゃないよ。

「あのね、アズリ。わたし、いくよ」

「セア……」

「アズリが、心配してくれてるの、ちゃんとわかってるよ。うれしい。でもね、わたし、アズリと仲良くなれたみたいに、アウスオル君とも仲良しになりたいの」

「……どうしてって、訊いてもいいかしら?」

 ためらいがちなアズリに、わたしは自信を持って言うんだ。

「だって、みんな仲良しな世界のほうが、そうじゃない世界より、すてきじゃない」

 世界は、いろんな人がいて。

 バラバラに生きてるように見えるけど。

 でも、そのバラバラな存在を絆が結んでいって。

 それでやっと、この大きな一つ世界になるんだ。

 どうせ、つながるんなら、仲良しのほうが、ぜったい、いいよね。

 わたしはそう思うんだ。

 アズリが、ちらりとわたしを振り返って。

 わたしは満面の笑みで応えてあげるの。

 アズリのことが、大好きだから。

「ばーか」

「えぇ!?」

「ばか、ばか、ばか、ばか、ばーか」

 アズリはなんの脈絡もなく、わたしにそう言って。

 さらに追い打ちをかけるように、リズミカルにその言葉を繰り返した。

「ひどいよ、アズリ! なんでそんなこというの!」

「何よ、おバカさんに、バカって言って、何が悪いのよ、このおバカ」

「うわーん! また、バカって言ったぁ!」

「うるさいわよ。ほっぺ引っぱるわよ、このおバカ」

 それは、いやだっ。

 あわててほっぺを手のひらで守るわたしを見て、アズリはいじわるな笑いを浮かべて。

 でも、そんなアズリの顔がすこし紅くなってる。

 なにをそんなに、はずかしがってるんだろう?

 そんなふうに悩んでたら、アズリはまた前を向いて。

 いつもより早いペースで歩きだした。

 スキップを同じリズムで、アズリのポニーテールが跳ねて。

「ああ、待ってよ、アズリぃ」

 わたしは置いていかれないように、その楽しげなポニーテールを追いかける。

 もう、ほんとうにアズリのいじわるは、エアルスそっくりだ。


 ***


 天曜日の一時間目は、魔法の授業で。

 わたしの大好きな科目なんだけど、なんだか気持ちが入らない。

「つまりだ、雷の属性というのは、物質に内在している潜在的マナを顕在化している状態を指している。だから、雷は『覚醒』の属性と呼ばれているんだよ」

 それにしても、ライル先生はいつも以上に熱が入ってるな。

 そういえば、ライル先生の属性って、雷だったような。

 自分の属性だから、テンションが上がってるのかも。

 そう思えるくらい、晴れた空を思わせるライル先生の青い目は透き通ってて。ブロンドの髪も心なしか、きらめいてるように見える。

「物質の内在エネルギーで最も取り出しやすいのは、電気エネルギーなので、雷属性の魔法によって顕在化したマナは、基本的に電気として放出される。逆に言えば、その現象があって、雷属性と呼ばれるんだけどな」

 ライル先生は、説明を終えると黒板から身をよけて。

 みんなが文字を移しやすいように、窓際でノートを開いてる。

 こうして、みんなにちゃんと書く時間をくれて、その間に次の内容を確認してるんだ。

「先生、質問ー」

「お、なんだ、ティン」

 一人の男子が先生に向かって手を上げて。

 ライル先生は、ノートから顔を上げて、ティン君を指名する。

 ライル先生がフレンドリーだから、クラスのみんなはいつも気がねなく質問ができてる。

 まぁ、ティン君はクラスの中でもお調子者だから、だいぶくだけた感じで話してるんだけど。

「マナを顕在化して、電気以外のエネルギーにしたら、それは雷属性なの?」

「ああ、いい質問だな。じゃあ、ちょっとやってみせよう」

 ライル先生は壁にあずけてた体を起こして。

 手のひらをわたしたちに向ける。

「いいか、みんな。よく先生の手に集中して、マナの流れを感じ取るんだぞ」

 ライル先生の手の中で、空気がマナを放出してく。

 けれど、ライル先生がうまく魔力を制御して。

 マナは電気に変わることなく、純粋にライル先生の手のひらに集まっていく。

 そしてライル先生は、そのマナのかたまりをわたしたちのほうへ押し出して。

 そのとたん、マナのかたまりが形を失い、散らばっていく。

 それは足早な風になって。

 一瞬で、わたしたちの間を走り抜けていった。

「今、先生は雷の魔力を使って、風を起こした。さて、今の魔法がなんだか分かる人はいるか?」

 すっ、とアズリの手が上がった。

 ライル先生は、他のみんなが手を上げないか確認してから、アズリの答えを聞く。

「先生は、マナを生み出した後に、それを押し出して風を起こしました。空気のマナを顕在化するまでは、雷属性であり、それを崩壊させて風を起こした時に風属性に変化したと思います」

「その通り、流石はアズリだな。雷は『覚醒』、風は『崩壊』の属性だ。マナの状態が変化した時に、属性も変化する。それが、ティンの質問に対する答えだよ。この技法を属性変換という」

 ライル先生は今話したことを黒板にまとめていって。

 属性変換――自分とは違う属性を奏でること。

 自分を変えていくっていうこと。

 そして、もっと他人に寄りそうっていうこと。

 もし、わたしが風を奏でられたなら。

 デシレの魔法を奏でられたら。

 もっと、分かり合える気がする。

「ん? どうした、セア」

「え?」

「いや、手を上げてるじゃないか。質問か?」

 ライル先生の言葉に気づけば、わたしはたしかに、手をあげていて。

 質問と言ったら、一つしか思い浮かばない。

「あの、たとえば、海属性から風属性まで、属性変換できますか?」

「ああ、できるぞ」

 ライル先生は、みんなが書き終わってるのを確認して、雷属性のことを黒板から消していく。

 それで空いた場所に、九つの属性を書いて円を作って。

 それを三つずつに区切った。

「サークルとレルムの概念は理解しているな?」

 天海地の三つの属性は、それぞれ三つずつの属性に分化していく。

 天属性には、雷と風と炎。

 海属性には、癒と水と氷。

 地属性には、晶と土と金。

 この九つ属性を円で並べると、隣り合う属性は近い性質を持ってることがわかる。

 だから、一番、わたしたちの身近で、理解しやすいこの九つの属性を学術的に九円属性とか、円を作るからサークルとか呼んでて。

 天海地は、その円に領域を作っているようだから、三領属性とか、レルムとか呼ばれてる。

「レルムの属性を持つ魔法使いは、そのレルムに含むサークルを自由に扱える。風は天のレルムだから――」

 ライル先生は、黒板に書いた『海』から『天』まで、サークルにそって矢印を引く。

「この道順で変えればいい。海のレルムで天のレルムに接しているのは、癒属性だな。だから、癒を炎に、炎を風に、と二回変換するんだ。かなり難しいし、技術も必要だが、大事なのは変わっていくというイメージを持つことだ。まぁ、それぞれの魔術系統でどうやるかは、魔法実技で一年の後期にやるから、その時まで待ってるんだな」

 変わるっていうイメージかぁ。

 たしかに、むずかしいよ。

「じゃ、この流れで次は風に入るぞ」

 ライル先生は、そう言って黒板全体をキレイにしていって。

 思い出したように、言葉をこぼした。

「ああ、ちなみにな、属性変換はマナ制御が一番得意なんだ。マナの状態を直接感じ取れるから、理解しやすいんだな。それで、一番苦手なのは、純粋詠唱なんだ。純粋詠唱は、命を感じるから、それが急に変化するっていうのに、戸惑うんだな」

 だから、みんながんばれよ、と話をまとめたライル先生に、クラスの三分の一くらいが抗議の声を上げる。

 みんな、純粋詠唱で魔法を奏でる子たちだ。

 逆に、クラス残り大半のマナ制御の子たちは、うれしそうにしてる。

 それから、そのどちらでもない、クラス唯一の真理改変の魔法を使うアズリは、いつも通り落ち着いた表情でノートをまとめてる。

 アズリは属性変換に興味ないのかな?

「さっき言った通り、風属性はマナが崩壊していく状態のことを言ってだな――」

 そんなことを考えていたら、ライル先生が風属性について話し始めて。

 あわてて、ペンをにぎり直す。

 アズリには、昼休みにでも話してみよう。


 ***


 午前中最後のチャイムが教室に鳴り響いて。

 わたしは、やっと救われた気分になる。

 もちろん、お昼ごはんが待ち遠しかったのもあるけど。

 それ以上に、四時間目に数学という強敵が、わたしの勉強意欲を大きくそぎ落してた。

 数学の先生は、ライル先生と違って、すぐに問題を解答していっちゃうから、ノートに移すだけでも大変だ。

 数学は苦手だから、全然理解が追い付かなくて。

「セア、お弁当食べましょう」

「うん。アズリ、今日、数学教えてー」

 お弁当を持ってきてくれたアズリに、わたしはさっそくおねだりしてみる。

「本当に、セアは数学が苦手ね」

 アズリはまんざらでもないように、笑って。

 アズリはけっこう、人にものを教えるのが好きみたい。

「おうおう、相変わらず仲のいい夫婦ですな、お二人さん。嫁のサポートを夫がするなんて、ほほえましいのぅ」

「なっ、誰が夫婦ですって!? シルベル、あんまり変なこというと怒るわよ!」

 いつの間にか、シルベルがわたしとアズリの間に入ってきて。

 ぴょこぴょこと頭に乗った耳と細長いしっぽを動かして、アズリが振り上げた腕から逃げ回る。

 運動神経のいいアズリでも、ベアスト特有の身軽な動きで跳ねまわるシルベルを捕まえるのは、大変みたい。

「おおっ? アズリンはこんなにかわいい嫁を見捨てるのかい? ツンデレはもう古い属性だと思うよ、あたしは」

 顔を真赤にしてるアズリがかわいい。

 アズリったら、すっかりシルベルにほんろうされちゃって。

 もうこれも、うちのクラスの風物詩だね。

 活発なシルベルは、いつもクラスにぎやかにしてくれて、あの銀色のショートカットが跳ねるたびに、どこかで笑いが起こり、同時に誰かが顔を染めるんだよね。

 だいたい、顔を染めてるのは、わたしかアズリだけど。

「アズリちゃんは、ツンデレじゃなくて、デレツンだと思うよ、わたしは。あ、セアちゃん、みんなでごはん食べよう?」

 デレツン?

 ほんわかしたアリスの言葉に、わたしは首をかしげて。

 アリスは小説も好きな子だから、いろんな不思議な言葉を知ってるんだけど、いつもわたしにはその意味を教えてくれないんだ。

「アリィ、変な言葉をセアに教えますと、貴女までアズに怒られますよ?」

「あ、そうだね~」

 そう、いつもこんなふうにブリジットがアリスをたしなめて、止めてしまうんだ。

 そのせいで、わたしだけみんなの会話に上手く混ざれない。

 振り返れば、キレイに髪を切り揃えてメガネをかけたアリスと、無造作に髪を切ったブリジットが立っていて。

 背の高いブリジットがアリスの隣にいると、その言葉使いからも、まるでお嬢様と付き人っていう感じがする。

 わたしがブリジットを見上げると、彼女はわたしの頭にぽんと手を置いた。

「今日は、二人も学食でご一緒しましょう? 更衣室も近いですから、着替えを持っていけば、一石二鳥です」

「ええ、いいわよね、セア」

「うん、もちろん」

 五人でいると楽しいしね。

 魔法実技とか、体育のグループ分けでも、いつもみんなでいっしょにいるのが当たり前になってる。

 わたしはアズリからお弁当を受け取って。

 みんなで学食に向かう。

「やりっ! アズリンの美味しいお弁当を食べられる!」

「シルベル、セアのとこから取ったら、許さないわよ」

「なぬっ!? セアの方がお弁当デカイじゃん!」

 わたしのが大きいっていうか、アズリが学校が始まって二週間くらいたった頃から、急に自分の分を小さくしただけなんだけど。

 わたしが家から持ってきた二段組みのお弁当箱は、アズリにはすこし大きすぎたみたい。

 だから、シルベルもたくさん取れるわたしのお弁当をいつも狙ってて、今もアズリに向かって自分の正当性を並べてる。

 アズリは、それを全部聞き流してるんだけどね。

「いつも、この話のオチは決まっているのに、ジルバも飽きませんね」

「んー、お約束って大事だよ、ブリジットちゃん」

 二人の言う通り、いつもこの会話はシルベルが負けて。

 アズリのポニーテールが、ぴたりと止まる。

 そして、すっと舞踏を思わせる動きでシルベルに振り返って。

「しつこいわね。白龍呼ぶわよ」

 絶対零度の響きでその言葉を放つ。

 その瞬間、シルベルは廊下にも関わらず、土下座をするんだ。

「ごめんなさい、それだけはご勘弁を、アズリ様!」

 その様子を見て、アズリは鼻を鳴らして。

「どうせ取るなら、私のダイエットに貢献しなさい。いつもセアと私に迷惑かけているんだからね」

 まぁ、けっきょく、こうやってアズリは自分の分をシルベルにあげるんだけどね。ほんとに、アズリってなんだかんだ言って、優しいな。

 わたしは、すこし早足になって、前を歩くアズリを追いかける。

「ねぇ、アズリ、わたしは別にシルベルにあげてもいいよ?」

「いいの。それとも、私の愛が詰まったお弁当は食べたくないのかしら?」

 わたしはあわてて首を振って。

 もしアズリの機嫌をそこねたら、明日からお弁当を作ってもらえなくなっちゃう。

「くぅ、なんてよくできた嫁なんだ……。あたしもセアがほしいっ」

「な、なに言ってるの、シルベルっ!」

 今度はわたしが顔を赤くしなくちゃいけない番で。

 わたしは、そんなお嫁さんだなんてっ。

 あ、でも、アズリと結婚できたら、毎日楽しいだろうな。

 わたしがちらり、とアズリを見ると、アズリは切れ長の目をわたしに流してくれて。

 それから、まだ廊下に突っ伏してるシルベルを見下した。

「シルベル、わたし、セアの旦那には決闘を申し込むわよ?」

「なっ!? アズリに勝てるワケないじゃん!」

「じゃ、諦めなさい」

「く、くそー!」

 シルベルの絶叫が廊下に響き渡って。

 みんなの迷惑じゃないかな、これ。

「アハハ、シルベルちゃんの負けだね~」

「いつも通りと言えば、いつも通りですけどね」

 でも、アズリはおろか、アリスもブリジットもそんなこと気にかけてなくて。

 みんなで楽しそうに笑ってる。

 もう、これはわたしがなんとかしなきゃだね。

 わたしは、シルベルのところまで戻って。

 すこしかがんで、シルベルに手を差しのべる。

「ほら、シルベル。そんなところに倒れてたら、みんなのジャマになるよ?」

「セアー! なんてかわいいの! やっぱり、アズリだけのものにするにはもったいない!」

「わ、きゃ!」

 いつもないがしろにされてるせいか、感極まったシルベルはわたしに飛びついてきて。

 わたしはシルベルの勢いを抱えられずに、押し倒されてしまった。

「あ、ジルバ、それは流石にマズイです」

「え?」

 うん、ブリジットの忠告は完全に遅かったみたいで。

 わたしからは、ちょっと怖い目つきと雰囲気になってるアズリがシルベルの背中を見下ろしてた。

 次の瞬間には、シルベルが背中から、廊下に叩き付けられて。

 わたしはアズリに支えられてたち上がってた。

 いったい、どんな動きをすれば一瞬でこの状況になるんだろう……。

 アズリの動きは早過ぎて、わたしはなんで自分が立ってるのかも、よく分からない。

「大丈夫、セア? ダメよ、軽々しくあんな危ない奴に近づいちゃ」

 アズリは早くわたしをシルベルから離したいのか、もう歩きだしていて。

 シルベルは完全に目を回してる。

 そして、ふと、思い出したようにアズリは立ち止まり、シルベルのほうに振り返る。

「ああ、そうだわ。シルベル、言い忘れてることがあったわ」

「な、なにかな、アズリン?」

「ケダモノ」

「ぐはぁ!」

 アズリの底冷えするほど低く、それでいて単調な響きを持った一言は、完ぺきにシルベルにトドメを刺した。

「さて、あんなケダモノは放っておいて、早く学食にいきましょう。ゆっくりしていたら、授業に遅れるわ」

「確かに、その通りですね」

「今日の日替わりメニューなんだっけ?」

 今度こそ本当に、みんなシルベルを見捨てるつもりで。

 ごめん、シルベル。あなたのためにも、わたしはあなたを助けることができないの。

 ゆるして。

 まぁ、学食でわたしとアズリが先に席を取ってたら、アリスとブリジットといっしょにシルベルも普通にごはんを買ってきたんだけど。

 それで、アズリはちゃんと自分の隣にシルベルを座らせてあげるんだ。

「そう言えば、アズリ、今日の魔法学で、属性変換の話が出てもいつも通りだったよね?」

 わたしが今日一日気になってたことを聞くと、アズリはなんでもないというように、うなずいて。

「ええ、属性変換はもうできるから」

「えぇ!?」

 しれっと、とんでもないことを言うから、わたしたち四人は声をそろえて驚いてしまった。

 けれど、アズリもその声に驚いて、肩をすくませて。

 とくにわたしのほうを、不思議そうな目で見てくる。

「セア、属性変換できないの?」

「できないよ。今日はじめて聞いたもん」

「へぇ、セアができないのをアズリンができるなんて珍しいね。逆も聞いたことないけどさ」

 わたしはシルベルほど、驚いてない。

 だって、アズリがすごい子なのは、知ってたから。

 でも、アズリはわたしのことをじっと見てて。

 わたしは、ちょっと首をかしげてみる。

「ねぇ、セア。あなたが奏でている魔法にも、属性変換の記号が魔法譜に書かれているものがあるじゃない」

 え、そうなの?

 全然わからなかった。

「ほら、セアの好きな大洋交響曲の第一番なんて、属性変換がかなり使われているじゃない。まぁ、海のレルムにある属性が主だから、気にしなかったのかもしれないけど」

 アズリは、指で空中にひとつの記号をなぞって。

 丸を突き抜けるように、横線が引かれる。

 たしかに、わたしはその記号には見覚えがあった。

「あ、見たことある。属性が変更されるって覚えてた、それ」

「まぁ、その通りなんだけど」

「それだと、セアちゃんも実は属性変換ができてたっていうこと?」

 たしかに、意図せずにできてたっていうなら、かっこいいんだけど。

 残念ながら、アリスの考え通りじゃないの。

「ううん、わたしのは、変換じゃないよ。派生って言えばいいのかな」

「派生、ですか?」

 聞き返してくるブリジットに、わたしはこくんとうなずく。

「例えば、雷を発生させるじゃない? ライル先生だったら、マナを空気から引き出して雷を起こすけど、わたしは空気の水分をこすり合わせて、その静電気をためて起こすんだよ。でも、魔法を知らない人が見たら、どっちも同じように雷が発生してるように見えるんだよ」

「さり気に高度なことをして。流石はセア、と言えばいいのかしら」

「なんか、手品っぽい感じだね」

 みんな、わたしの説明でわかってくれたみたい。

 ただ、シルベルだけはピンと来てないのか、腕を組んで悩んでる。

 ああ、シルベルの銀色の耳がひょこひょこ動いてる……。

 さわりたいなぁ。

 くすぐったいから、いやだなんて、ほんとうにいじわるだよね。ベルカナさんは自分から差し出してくれたのに。

「じゃ、アズリンに聞けば、属性改変をマスターできるってことでオーケー?」

「ああ、無理ね」

 シルベルが悩みに悩んで出した答えを、アズリは一言で否定して。

 食べ終わったお弁当をしまい始める。

「なんで!? あたしがバカだから理解できないっていうのかい、アズリン!?」

「違うわよ。私にとって、マナの状態を変えるなんて、真理を改変するより全然楽だけど、あなたたちはそうじゃないでしょう」

 そっか、真理改変で魔法を奏でるアズリは、変化させることに慣れてるんだね。

 みんなも納得したみたいで、うなずいたり、うなだれたりしてる。

 シルベルは、ほんとうにショックなのか、テーブルに身を投げ出してる。

「くそぉ。あたしも早く、アズリンやセアに近づきたいのにぃ」

 そんなことをつぶやくシルベルの肩を、アズリは優しくたたいて。

「焦らないで、ゆっくりやりなさいよ。シルベルだって、クラスではよくできてる方じゃない」

「そうですよ。正直、この二人が規格外過ぎます」

 アズリとブリジットのなぐさめに、力なくたれてたシルベルの耳が起き上がっていく。

「あたしはいい友達を持ったよぉ」

 シルベルの声はふるえていて。

 ほんとうにうれしそうだった。

「じゃ、そろそろ行こっか?」

 アリスの言葉に、みんな動きはじめて。

 わたしも急いでお弁当を片づけて、体操着の入ったバッグを手に取る。

 アズリは先に入口に行こうとしていたけど。

 くるりと、三人のほうに向き直った。

「ああ、そこケダモノはセアの着替えが終わるまで、更衣室の入室禁止ね」

「授業に遅れるわっ!」

 アズリは当たり前のように、シルベルを見降ろしてて。

 シルベルは勢いよく、ツッコミを入れる。

 そんな二人の、元気のいいやり取りに、わたしたちは笑ってしまったんだ。



 ***


 午後の授業は、二時間とも魔法実技で。

 数学で下がったテンションを上げるには、最高だった。

 青い体操着に身を包んだわたしは、みんなよりすこし前で、スキップしてみる。

「あはは、今日のセアちゃんの髪型、ぴょんぴょんしてると、ほんとのうさぎみたいでかわいいね~」

「さっすが、アズリン、わかってるね」

「アリスはともかく、シルベルの物言いにいらっとくるのは、なんでかしら」

 えへへ、ほめられちゃった。

 わたしは、うさぎみたいに見えるように、たれてる髪を立たせてみて。

「ぐはぁ!」

 そのとたんに、シルベルが胸を押さえて、派手にのけぞった。

 いったい、どうしたんだろう?

「か、かわいすぎる……。セアがかわいすぎて、あたしの心臓が、心臓がぁ」

 だ、だいじょうぶかな、シルベル。

 急に心臓が苦しくなったなら、保健室に行ったほうがいいんじゃないかな。

「そんなに気にすることはありませんよ、セア。いつもの冗談です」

 悩むわたしを見て、ブリジットがそう教えてくれて。

「よかった、病気とかじゃなくて」

「セアは少し素直過ぎますね。それでは、ジルバの相手ができませんよ」

「セアはあんなケダモノの相手しなくていいわ」

 アズリはわたしの背中に手をそえて。

 早く校庭に向かうようにうながしてくれる。

「なにを! このあたしの高ぶるセアへの愛は冗談なんかじゃないぞ!」

 やっと立ち直ったとたんに、シルベルはそう叫んで。

 アズリがそれに反応して振り返ると、ポニーテールが優雅にその軌跡を追って。

「私の方が本気だけど、勝負する? シルベル」

 アズリの熱のこもった言葉は、シルベルが頭を下げるにも、ついでにわたしの鼓動をときめかせるのにも、十分だった。

「ごめんなさい、あたしが馬鹿でした」

 もう、ほんとうにシルベルはアズリに謝るのが条件反射になってるね。

 ああ、でも、こんなふうに違うこと考えてないと、顔が熱いのを意識しちゃうわたしも、人のこと言えないか。

「アズリちゃんは根っからの王子様だよね。かっこいい」

「ありがと、アリス」

 アズリは、前に向き直る動作で、わたしの手を取って。

 それこそ、王子様のように落ち着いてて、それでいて気品あふれる雰囲気をまとって、わたしをエスコートしてくれる。

 わたしたちが、ゆっくりごはんを食べてたから、クラスのみんなはもう集まってて。

 わたしたちも、すこし急いでその中にまざったところで、ちょうど校庭にチャイムが鳴り響いた。

「ギリギリだったね」

「うん、よかった」

 小さい声でささやくアリスに、わたしはうなずいて。

 ふぅ、あぶなかった。

 移動がある時は、あんまり話しこんだらダメだね。

 魔法実技担当のライル先生とオルド先生が二人そろって、やってきた。

 いつ見ても、この組み合わせはやっぱり不思議。

 ライル先生はにこやかに、今日の授業内容をみんなに説明してて。

 オルド先生は、それを無表情に見つめてる。

 でも、二人ともわかりやすい授業してくれる、いい先生なんだけどね。雰囲気が違っても、似てるところは案外たくさんあるのかもしれない。

 そういえば、オルド先生も魔法史の授業でよく脱線するしね。

 ただ、その脱線のほうが、教科書よりも断然むずかしいお話なんだけど。

 今日の魔法実技は、自分の属性でマナを共鳴させる訓練だ。

 先生たちは、みんなに適当なグループを作って練習するように指示して。

 もちろんわたしたちは、お昼ごはんをいっしょに食べた五人で集まった。

「あ、またお前ら、アズリとセア、両方を確保しやがって」

「へへん。アズリはセアの王子様だから、ぜったいに離れないんだよーだ」

 やっぱり、技術が高くて、しかも教えるのが上手なアズリはみんなの人気が高くて。

 ぼやく男子に、シルベルが子どもっぽく舌を見せてる。

「シルベル、余計なこと言わなくていいから。手が空いたら、そっちも見に行くわ」

「サンキュ、アズリ。マジ助かる」

 そんなシルベルをたしなめるアズリは、とても大人らしくて。

 そんなアズリをみんな頼りにしてるんだ。

「さ、始めましょ」

 アズリは手をたたいて、みんなに呼びかけて。

 けれどわたしは、肌にふれる柔らかな風に感覚をゆだねて。

 そのまま立ちつくして、あの小説の最後を思い浮かべてた。

 風が、わたしの心をなでつけるから。

『デシレの手の中に、翠の飴玉はもう一つしか残っていない。

 これがなくなれば、デシレはもう魔法使いにはなれない。

 最後くらいは、自分のための魔法を、デシレは奏でたいと思った。

 人の役に立たなくてもいい。

 母のことを思い出さなくてもいい。

 ただ、ずっと自分に力をくれた風とデシレは踊りたかった。

 デシレは大きく息を吸い込む。

 肺の奥まで、風で満たそうとするように、深く、深く、吸い込んでいく。

 そして、肺に溜まった風は、たった一つの吐息となって、また空に投げ出されていった。

 ころり、とデシレは最後の飴玉を口に転がす。

 それは、何故だか今まで以上に甘いように、デシレには感じられた。

 そして、ほのかな幸せが広がっていく。

 その感覚に身を委ねて、デシレは手を投げ出して、足を跳ねさせる。

 風はそんなデシレの体に寄り添い、紳士のように腕を取り、空へと招く。

 くるり、くるり、とデシレは舞踏を刻みながら、風を駆けのぼり、たった一人だけのダンスホールに身を躍らせる。

 伴奏は、夜風。

 シャンデリアは、控え目な星々。

 ドレスは、パッチワークの目立つ着たっきり。

 相手もいないワルツだが、デシレの心は晴れ渡っていた。

 この口に広がる甘さが無くなるまでは、デシレは魔法使い。

 風を操るデシレの魔法使いでいられた。』

 そこで、おしまい。

 あめ玉がなくなって、二度と魔法を使えなくなったデシレが、どうなったのかは書かれていない。

 でも、ずっとだれかのために魔法を奏で続けたデシレは、最後に自分のために魔法を奏でたんだろう。

 どうして、自分からお母さんの形見を使いきろうとしたんだろう。

 どうして、アウスオル君はそんな終わりかたにしたんだろう。

 なにを感じて。

 なにを考えて。

 なにを想ったんだろう。

 それを、わたしは知りたい。

 それを、わたしは分かりたい。

 手のひらを空にのばして。

 想いをはせる。

 手のひらに、温かさが灯って。

 空気にもれだしていく『癒』の魔力が、命の鼓動を『活性』化して。

 その優しさを、わたしは握りしめて。

 強く、変わるイメージ。

 『癒』に隣り合うのは、『炎』。

 それは、空のかけら。

 手のひらのぬくもりを、『増幅』させてく。

「え、あっ!?」

 わたしの中のイメージが、急に発火して。

 それは一気に燃え広がって、わたしの腕にまとわりつき、体操着のそでを、こがしてく。

 あわてて、魔力をせき止めようとするけれど、あふれた魔力は止めきれなくて。

 ほんとうに、手のひらに火が現れる。

「セア!」

 アズリの声で、わたしは思考から呼び戻されて。

 赤く空気を焼こうとした火が、一瞬で凍りついた。

 くだけた氷はキラキラと太陽の光を反射して。

 熱を持ったわたしの手のひらを冷やしてくれる。

 目を見開けば、アズリの顔が目の前にあった。

「ご、ごめん、アズリ……」

 とっさに、謝るけれどわたしは、まだ意識がおぼろげで。

 そんなわたしを、アズリはきれいな眉を寄せて見てる。

 アズリが本気で怒ってる。

 空気がアズリの感情にさらされて、熱を失っていくのがわかる。

 どうしよう、わたし、またやっちゃったんだ。

 ちゃんと注意してなきゃいけなかったのに。

 アズリは、ゆっくりと重く息を、はき出して。

 それといっしょに、空気が緊張をほどいていく。

「セア、焦らなくて、いいのよ。あなたは焦ると、何にも見えなくなって、無茶をして、危ないことに気付かないで、危ないことをするんだから。お願いだから、もう少し落ち着きなさいよ」

 言葉を紡いでいくアズリは、自分の腕をぎゅっと握りしめてて。

 すごい心配してくれてるんだ。

 その様子を見てたら、わたしはほんとうに情けない気持ちになる。

「うん。ほんとに、ごめんなさい」

「もういいわよ。あなたはちょっと休んでなさい。みんなが出来るようになったら、少し教えてあげるわ」

 アズリはわたしの鼻をつつくと、返事を聞く前にみんなのほうに戻っていって。

 みんなも気になっていたのか、アズリに近づいて、話を始める。

 それがひと段落したのか、シルベルがわたしに手を振ってきて。

 わたしは小さく手を振り返す。

「セア、あたしはもうマスターしたよ!」

 そう叫ぶと、シルベルは地面の小石をひとつ手に取って。

 耳をピンと立てて、目を閉じる。

 しばらくすると、シルベルにつままれた小石は、金属の輝きを放ち始める。

「わたしはまだだけど、がんばるよ、セアちゃん」

 アリスのほんわかした言葉にわたしは泣きそうになって。

 でも、涙はガマンできた。もう泣き虫なんて言わせないんだからね、アズリ。

 でも、アズリはわたしを見て、笑ってて。

 ガマンできたのは、涙がこぼれ落ちることだけだったみたい。

 それから、ブリジットは右手の人差指を立てて。

 すぐに風が、その周りにうずを作った。

 まだブリジットのほうが、魔力を扱うのが上手みたい。

 シルベルがそれを見て、やる気を燃えさせてるけど。

 ブリジットは優しくその頭をたたいてあげてる。

 わたしは、地面におしりをついて。

 ひざを抱えて、空をながめてみる。

 お日様は遠いから、風はひんやりとしてて。

 雲はうすく、ちぎれてて、わずかなお日様のぬくもりを、さえぎってる。

 遠くて、遠い空。

 わたしの手も、想いも届かなかった。

 その心にふれられなかった。

――落ち着きなさい――

 さっきのアズリの言葉が耳に残響する。

 昔、だれかに同じことを言われた気がする。

 エアルス――じゃない。エアルスは、どうしようもないっては言うけど、落ち着けとか、言われたことない。

 むしろ、わたしは感情を大切にしろって言ってた。

 それが、わたしのいいところだからって。

 それじゃ、だれなんだろ?

 母様かな。

 言われたことがあるような気もするけど、なんだかピンと来ない。

 わたしは、ひざを抱える手を、足首まですべらせて。

 すると、ちゃり、と指先に金属がふれた。

 それは兄様がくれたアンクレット。透き通った空色の宝石が連なって、アミュレットとしてわたしの魔力をおさえてくれてる。

「そうだ、兄様だ」

 昔、わたしが兄様の魔法を見せてもらった時に、言われたんだ。

――落ち着いて、セア――

 どうしても、兄様みたいに上手に魔法が奏でれなくて。

――耳を澄ませてごらん――

 わたしは自分の魔法で出した水が操れなくてびしょびしょで。

――セアは今、自分の気持ちばかり水に押しつけてるんじゃないかい?――

 わたしは、兄様に泣きついてたんだ。

――それはダメだよ。セアは、声が聞こえるって言っただろう――

 兄様はいつも優しく見守ってくれてて。

――わがまま言われたら、優しい相手だって、ムッとするよ――

 でも、いけないことをしたら、しかってくれて。

――ちゃんと、相手の声を聞いてごらん。どんな気持ちでいるのか、聞いてごらん――

 あの空みたいに、大きくて、気高い心を持ってるの。

 風が吹いて。

 わたしの髪がそよいでく。

 遠い遠い空は、でも、ちゃんとわたしたちを見てくれてる。

 果てしなく、心を空に投げ出して。

 ちりり、と胸がこげるような感覚に、小さくおびえが隠れてて。

 ああ、そっか。

 急に力を与えられて、こわかったんだ。

 それを、わたしが聞かずにいたから。

 自分を守ろうとしてしまったのね。

 空に投げ出した心は、重力に引かれて。

 まっさかさまに、落ちていく。

 海とは違う。

 海は優しく抱きとめてくれて。

 わたしの魂は浮かび上がることもできるけど。

 空は腕をそえてはくれない。

 風はただ肌をかすめていって。

 ひたすら自由に。

 でも、見守ってくれてる。

 きっと、呼んだら応えてくれる。

 心で話しかけたら、風がわたしの周りに来てくれて。

 なにもしなくても、助けてくれるだなんて、勝手だった。

 ちゃんと、自分の想いを伝えなかったら、応えてくれなくて当然なんだ。

 勝手になにかをして、それで自分で考えることをさせてくれなかったら、わたしは自分で成長していけない。

 兄様が、泣きつかれるまで、わたしの魔法に口を出さなかったのも。

 空が、呼びかけるまで、応えてくれなかったのも。

 わたしのことを、それぞれの心でちゃんと想ってくれたからなんだ。

 だから、わたしは、風に向かって、心を飛ばして。

《自由に 自由に 果てしない空を駆け巡る旅人さん》

 わたしは、立ちあがって。

 腕を広げて、軽くステップを踏む。

 兄様からもらったアンクレットに、風は寄りそってくれて。

《どうか あなたたちの舞踏会に わたしも連れていって》

 ふわり、と地面じゃない感覚に足を乗せる。

《すべての鎖を解き放って すべての想いを解き放って 自由な空の舞踏会に 連れていって》

 風が、わたしを抱きしめて、上へ、上へ、かけ上がってく。

 わたしの背には、羽はないけれど。

 鳥にしか楽しめない景色が、わたしの眼下に広がった。

《夜風が奏でるワルツに星達のシャンデリア わたしの手を取ってくれるのは 誰ですか》

 差しのべた右手を、風が取ってくれて。

 いち、に、さん、のリズムで、わたしは風と踊る。

 くるり、くるりと、デシレのように。

 たった一人の舞踏会。

 でも、気分はお姫様。

 だれだって、空をお相手にワルツを踊るなんて、したことないんじゃないかしら?

 そう、わたしだけの舞踏会。

 どんな貴族よりも最高のおもてなし。

 わたしには、なんにもなくなってしまうけど。

 わたしは、なによりすてきなものを手に入れたの。

 それは、わたしの魔法使い。

 わたしを助けてくれる、すてきな魔法使い。

 デシレの魔法使い。

 もうひとりのわたし。

 だけど、もうさようならだから。

 せめて、最後の想い出だけは、あなたのために。

 風が止んで。

 切ない気持ちが、わたしの心を吹き抜ける。

 デシレは、あんな気持ちだったんだ……。

 でも、デシレはもう魔法を奏でることはできなくなって。

 それがたまらなく、切ないの。

 わたしには、どうしようもないことだけど。

 それでも、彼女と彼女の魔法使いの幸せと笑顔を願わずにはいられない。

「アウロラ」

「きゃあああっ!?」

 低く、背中が凍るような声で急に名前を呼ばれて。

 心臓が飛び出るかと思った。

 鼓動がおさまらなくて。

 でも、その声は、よく聞いてるような気もする。

 おそるおそる、後ろを振り返れば。

 いつも通りの無表情でわたしを見下ろしているオルド先生がいた。

 び、びっくりした……。

 オルド先生は、しわだらけの目じりのしわを、さらに多くして。

 じっとわたしを見つめている。

 えっと、もしかして、わたし怒られる?

 空で踊るとか、変なことしちゃったからなぁ。

「好奇心から来る探究心も、それを実現しようと努力することも大変素晴らしい。だが、いささか早すぎる成長のように、私には見える。心の成長が伴わず、技術や感情ばかりが発達すれば、それはいずれ大きな悲劇を生むこともあるだろう」

 オルド先生は、淡々と話し終わって。

 でも、わたしは思考が止まってるせいで、その内容が頭で整理できない。

 そのまま、わたしが黙っていると。

 オルド先生は、一つうなずいて、他の生徒のほうへ行ってしまった。

 心の、成長?

 よくわからないけど、わからないですませていいことには、わたしには思えなかった。

「セア、すごいじゃん!」

「わっ、わっ」

 オルド先生と入れかわりに、シルベルが後ろから抱きついてきて。

 なんでみんな、後ろから来るのっ?

 びっくりしちゃうじゃない。

「属性変換できるようになったんだね、セアちゃん~」

「さっきは失敗しているように見えましたのに、流石ですね」

 次々にほめられても、わたしはかわいた笑いしか返せなくて。

 こんな時に、一番にほめてくれるアズリも、黙ってむずかしい顔してるから、きっとわかってるんだろうけど。

「あれ、たぶん属性変換じゃないよ」

 わたしがそう言うと、三人はそろって首をかしげた。

 まぁ、そうだよね。

「自分の属性と全く違う属性を、扱えたのね、セア」

 アズリは自分が言ってることが、全く信じられないみたいで。

「なにを言っているんですか、アズ。セアは海と闇属性でしょう? レルムを越えて属性を扱うなんてムリです」

 そう、レルムが変われば属性の考え方が全く違くなるから、ブリジットの言う通り、そんなのはムリなはずなんだ。

「少なくとも、私には属性の移ろいは感じられなかったわ」

 アズリの声はかたくて。

 わたしも、他の属性から変化させていった感覚はなかった。

 はっきりと、風を感じたんだ。

 みんな、なにも言わなくて。

 どうしようか、と思っていたら。

 わたしは、急にアズリに抱きしめられたんだ。

「な、なに、アズリ?」

 アズリはすこしずつ腕に力をこめていって。

 ちょっと痛い。

「今日、はじめて出来たのよね」

「うん、そうだよ」

 アズリはわたしを抱きしめたまま、肩に頭をあずけてきて。

 ポニーテールが首に当たって、くすぐったい。

「本当に……勝手に先に行って。それで? デシレの気持ちはわかったの?」

「うん」

 わたしは、アズリの背に手を回して。

 ふるえるその体をさすってあげる。

「デシレは、デシレの魔法使いはね。もうひとりのデシレなの。みんなのためにがんばってる、デシレのために魔法を奏でる心の中の存在だったのよ」

 心の中の自分だなんて、バカらしいって人はいうかもしれないけど。

 でも、英雄のように活躍する自分は、自分じゃなくて。

 デシレの魔法使いは、お母さんとか、魔法使いとか、理想の自分とか、そういうイメージでできた存在だったんだ。

 それは、たしかにデシレの中にいて。

 デシレのことをずっと支えていたんだ。

「きっと、あの作品は、アウスオル君にとっても、魔法使いなんだよ」

 わたしは、そう思う。

 そしてそれは、デシレのように、自分のほこりになったら、とてもすてき。

「だから、やっぱり続き、書いてほしいな」

 きっと、アウスオル君だって、デシレのように、あの作品を愛しているはずだ。

 デシレをわかりたいと思ってるんだ。

 だから、デシレの魔法使いは、ああいう終わり方で。

 だから、思い入れがあるからこそ、あの作品に対してやり切れない気持ちでいて。

 だから、紡法部にいるんだ。

 そう信じたい。

「アウスオル君って、ウォルド・アウスオル君? 文芸学科の?」

 のんびりした声から、思いがけない名前が出てきて。

 わたしは、アズリの腕のすき間から、アリスを視界にとらえる。

「アリス、アウスオル君のこと、知ってるの?」

 わたしがたずねると、これまたアリスはゆったりとした動作でうなずいて。

「うん。わたし、文芸部でしょ? だから、文芸学科の子ともよく話すんだ。ウォルド君って、文芸学科のセアみたいな子で、一人だけ飛び抜けてレベルが高いんだって。でも、ずっと一人でいて、話しかけても無視する嫌な奴って、思われてるみたい」

 なんだろう。

 なんだか、わたしの知ってるアウスオル君と、微妙に違うような。

 アリスの言い方だと、他の人を見下してるみたいな口振りだけど。

 わたしの前だと、アウスオル君はどちらかと言えば自信がないような感じで。

 なんだか、やり切れないことに、あせってる印象がある。

「わたしの知ってるアウスオル君は、そんなに自信があるような子じゃないよ?」

 わたしは、思ったことをアリスに伝えてみると。

 アリスは人差し指をおとがいに当てて、悩む仕草をする。

「でも、黙ってたら、どっちかわからないよねぇ」

 なんでもないことのように、アリスはそうもらして。

 でも、それはわたしに付きまとってたもやもやを、晴らしてくれた。

 わたしはまだ、アウスオル君とちゃんとお話してない。

 それじゃ、彼のことをわかるはずなかったんだ。


 ***


 帰りのホームルームが終わってすぐ、わたしはカバンを背負って。

 決意を胸に秘めて、紡法部へ向かう準備をする。

 すると、アズリがわたしのところにかけよってきて。

「セア、私も行くわ」

「え? アズリ、部活は?」

「今日はどうせ行かない日だもの。実技の後に運動なんてやってられないわ」

 アズリはさらりとサボりを宣言して。

 戸惑うわたしの手を取って、歩き出した。

「ほら、紡法部に行くんでしょう?」

「あ、うん」

 アズリに手を引かれるわたしは、一度転びかけて。

 でも、なんとか体勢を立ち直して、しっかりと自分の足で歩く。

 校庭を抜けて、プールとは逆のほう。

 アズリがいっしょだから、今日は迷わないで紡法部の部室まで行くことができた。

 アズリはためらいもなく、そのドアを開けて。

 部屋の中には、光の少ない空間でアウスオル君が本を読んでた。

 本のタイトルは、古い魔法語で書かれてて。

 それは、最高の魔法使いが遺した詩集だった。

 アウスオル君は、本から視線を上げて。

 黒ぶちメガネの奥にあるとび色の瞳がわたしたちをとらえた。

「アウロラ、また来たんだ」

 アウスオル君の声は意外そうに跳ねあがって。

 それにわたしは、こくん、とうなずいた。

「わたし、アウスオル君とお話がしたいの」

「ボクと?」

 アウスオル君は、しおりをはさんでから、パタンと本を閉じて。

 不思議そうに、わたしを見返してくる。

「そんなに、おもしろい話はできないよ。ボクは、物を書くことしか出来ない人間だ」

 その声は、秋風にさらわれる木の葉のささやきのようで。

 耳をすまさなければ、聞こえないような。

 心をかたむけなければ、聞き逃してしまうような。

 そんな儚い響きしかなくて。

 手を差しのべたくなる。

「随分と卑屈なのね。文芸学科では優秀だって聞いているんだけど」

 けれど、その想いはアズリの声にさえぎられて。

 アウスオル君の視線が、瞳孔の動きだけで、移ろう。

 そして、アウスオル君はなにがおかしいのか、鼻を鳴らして笑った。

「文字なんて、誰にだって使えるものじゃないか。大したことじゃないよ」

 アウスオル君は、なにかをはき出すように、そう言って。

 そんなことないのに。

 わたしは、アウスオル君の小説に、わくわくした。

 それなのに。

 でも、その気持ちをどう言えばいいのか、わからなくて。

 そっと、手をのばして。

 想いを瑠璃色の波にゆだねる。

 波はアウスオル君まで、届いて。

 心を揺らす。

 わたしは、あなたのことを素晴らしいって思う。

 アウスオル君は、その波を受けてくれて。

 その胸に手を当てて、まぶたを閉じた。

「魔法は、すごいよね」

 落ち着いた声だった。

 それでいて、悲しげな声だった。

「ボクも魔法を奏でたかったよ」

 ぽつり、ぽつり、と声が続いていって。

 窓の向こうでは、雲によどんだ空が遠くて。

 アウスオル君の声は雨を降らせてるみたいに聞こえる。

「ボクはね、魔法学科も受験したんだ。小さい頃に見た魔法使いに憧れて。その人は、詩人でもあって。それに、物語も書いていて」

 知ってる。

 それは、アウスオル君が手にしていた本を書いた人で。

 とても優しい人で。

「だからボクは、その人のように、魔法を奏でて、綺麗な世界を感じて、そしてそれを、自分の言葉で綴っていきたかった」

 耳鳴りが響く。

 断続的に、鼓膜がたたかれて。

 ほんとうに、雨が降ってきたみたい。

 それでも、アウスオル君の声は、わたしの心に響いてくる。

「でも、ボクには魔法を奏でられるだけの魔力がなかった。どれだけ魔法の知識があっても、魔法学科には入れなかった。ボクは夢を半分失ったんだ」

 アウスオル君の目は、くもったままで。

 世界に色なんてないんだと、決めつけているようで。

 暗く、雨は世界を滴のカーテンで隠してしまって。

 モノトーンが命の輝きをぬりつぶしていってる。

「アウスオル君が、あこがれてる魔法使いって、だれ?」

 わたしは、見当違いだといいな、って思いながら、そうたずねて。

 けれど、心のどこかでは、もう分かりきっている。

 もう確信があるんだ。

 彼の言う名前に。

「――。もう亡くなっている人だけどね」

 たしかに、聞こえたのに。

 その名前を理解したくなかった。

 知ってたの。

 彼女は三年前に、死んだの。

 わたしは、知ってたの。

 視界が暗くて。

 自分が、すごく遠い。

 世界がガラスの向こうにあるみたいな感覚に、気持ち悪くなる。

 わかりたくない。

 わかりたくないっ。

「セア!」

 アズリの声も遠くて。

 すごく、淋しかった。


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