第二話 『イントロダクト・オービス』Bパート後
突然視界が開けた。
路地裏。ここはあの、三日前の路地裏だ。
僕は心臓にあの鉄の杭が刺さったままだった。すぐ前には、血の海の上にミレッタが倒れている。僕を見ているところからして、ミレッタに意識はあるようだった。そしてあのニルも僕の十メートルほど前に立っていた。
やっぱり死んだんじゃないか、馬鹿馬鹿しい。僕はここで死んでいたんだ。
すると僕はいきなり、左胸に刺さった杭を抜き、地面に放り投げた。
そして何かを早口で呟く。何かがおかしい。自分が何を言っているか分からない。考えもしないことを喋っているのだ。口の動きを止めようとしても無理だった。唯一聞き取れたのが、最後の『コンパイル』という単語だけだった。
ニルはかなり驚いているらしい。
『僕』は立ち上がり、
「四年ぶりか。随分乱暴な目覚ましだな」、そう言った。
絶対におかしい。何故だ? 僕はそんなこと考えてもいない。これは僕の体か? ひょっとして違うんじゃないのか?
……いや、間違いなくこれは『僕』の身体だ。感覚的に分かる。――そして、動かしているのは僕、ではない。
身体がまるで誰かに乗っ取られたようだった。僕の考えと違うことを喋り、僕の意思と違う動きをする。
「リプログラムか。データでは君はできないはずだけどね」とニルは言った。その顔からは笑みが消えている。『僕』を警戒しているんだ。
そういえば、杭が突き刺さった左胸が直っている。傷一つ、無いのだ。まるで最初から貫通などしていなかったかのように。更に、ミレッタが内臓に損傷がどうとか言っていた脇腹の痛みも消えていた。――リプログラム?
一体どうなってる?
突然、『僕』は先程のような早口をまた呟いた。やはり何を言ってるかは分からない。この世界のバランスを大きく破壊するような響き。まるでこの世の言葉ではないようだ。
そして、また最後に『コンパイル』と言った次の瞬間、今度は『僕』の手に何かが握られた。
ナイフだ。
しかし量販店でよく見かけるようなナイフでは無い。漆黒の刃が湾曲し、いびつな形状をしている。これは作業用などではない。ただ人を傷つけるため、殺すために作られた、戦闘を主眼においた、ナイフ。それが妖しげな輝きを放つ。
「俺が直々に『原始の海』へと還してやろう、ニル=アドミラリ」
「原始の海だと? ……何が言いたい!」
そう言うと、ニルはいきなり杭を数本放ってきた。かなり動揺しているらしい。
まずい、かわさなければ――。僕は足を動かそうと試みた。が、『僕』は動こうとすらしない。左手をポケットに突っ込んでのうのうとしている。死ぬ気か。
駄目だ、突き刺さる――、
その瞬間、視界が激変した。飛んでくる杭が、まるで杭では無い。単なる文字だ。僕には単なる二次元の数列の塊が飛んできているように見えた。
『僕』は呟いた。「イントロダクト・オービス、起動完了」
『僕』は凄いスピードで飛んでくる杭を一本止めた。――片手で止めたのだ。
「物質に対する逆コンパイルを実行する」
言うが早いか、『僕』の握った杭が煌めきだした。まるで紅茶に入れた角砂糖のように、微小な結晶となってさらさらとこぼれ落ちていく。それを次々と、全ての杭に実行する。掴んでは消し、掴んでは消し、掴んでは消す。全ての杭が、結晶と化していった。
ニルは愕然としている。
「馬鹿な!」もはや最初の冷静さは完全に消えていた。「物質を消滅させるにはその物質のソースコードを読み取らなければならない筈だ……。いや、まさか……! お前、その目は……!!」
『僕』は言った。「全ての事象を分析した。もうお前は逃げられない」
ニルは舌打ちをすると、路地裏から出ようと後ろを向く。しかし――、
「無駄だ」
ニルの眼前に壁が出現した。もう路地裏に出口はない。完全なる密室となった。
「空間のフェイズシフト……!」ニルは目を見開いて言った。
「言ったはずだ。お前は逃げられない。――ここで消えろ」
『僕』は走り出した。奴に向けて。
こんなに走るのが気持ち良いのは生まれて初めてだった。それ程速い。時速百キロはあるんじゃないか?
その間にもニルはこちらに向けて何本も杭を放つ。が、僕には杭の軌跡が全て分かっていた。手に取るように。右、左と鮮やかにステップを踏みそれら全てをかわす。
僕は、強い。
ナイフを持ち替え、逆手に構えて――、
飛び散る血飛沫。『僕』は何かを掴んだ。
「ぎぃゃぁぁぁあぁっぁああ!!」ニルの悲鳴がこの閉ざされた空間で反響する。
――『僕』が掴んでいたのは、ニルの両腕だった。ちょうど肘のあたりから、腕まるごとだ。ニルは、無くなった自分の腕の断面から異常な程吹き出るものを止めることも出来ず、ただ赤い液体を垂れ流していた。
僕は甲高い声で笑った。
「痛いのは嫌か? 死ぬのは嫌か?」『僕』は、痙攣を起こし悶えているニルに向かって言い放った。しかしニルは悲鳴だけをあげ続け、答えることが出来ない。おそらく『僕』の声も聞こえていないんだろう。――つまらない。
「もう飽きた。無へと還してやるよ」
『僕』はニルへとゆっくり歩いていった。奇妙なリズムで震えるその肩に触れ――、
「decompile」
ニルは一度だけ、大きく震えた。そして、結晶となった。
跡形もない。何もない。
僕は笑った。狂ったように大声をあげて、笑った。
これが、自分。
宗は理解した。狂っているのは世界ではない。自分だった。
ミレッタは全てを見ていたのだ。だから言えなかった。余りに『異常』だったから。
宗はそれでも自分に話しかけてきてくれたミレッタを、凄いと単純に思った。こんなに狂っている自分に。
――これがお前の力だ。お前の脳にあるジャンクション。それがある条件を満たしたとき、切り替わる。すなわち、この俺が目覚める。その条件が、『死との邂逅』だ。
「僕は狂っているのかな」
――さあな。狂っているのは全てかもな。日常、それ自体が狂っているのかもしれない。本当の真実に誰も気付かないまま馬鹿のように暮らす。この惑星でもっとも高等である、人間すら気付けない。それは仕方がないことだ。『世界樹』の絶対的不可侵な領域だからな。もし気付いたなら、その瞬間――、
「世界が消える」
――そうだ。この世界は実に脆い。だが、お前は無価値な人間とは違う。お前は世界の真実を目にすることが出来る。その為の能力を持っている。
「そんなものいらない!」
――目にしなければいけなくなるさ。いや……、俺がそうさせるだろうし、お前はそうなる運命にある。それがお前の持つ能力の意味だ。
「世界なんていいよ! 僕は普通に生きたいだけなんだよ!」
――それは、無理だ。
嫌な夢だった。本当に。