第二話 『イントロダクト・オービス』Bパート前
宗の家は、ごく一般的な住宅地の一端にある、古い二階建てアパートの一階、103号室だった。キッチン付き六畳和間にバス、トイレ完備。この設備で家賃は¥18,600。良心的な値段だ、と宗は一応思っている。
だが、ミレッタは気分をかなり害されたらしい。部屋に入るなりミレッタは顔をしかめた。
「何よこのボロ家……! シャワーあんの?」まだ玄関だというのに、これである。宗はほとほとうんざりしつつ答えた。
「ある。クーラーは無いけど」頼むから、用を済ませたらさっさと帰ってくれ。宗は心からそう願った。
「はぁ?!」ミレッタはヒステリックな声を上げる。「これから暑くなるっていうのに……。トイレは?」
――これから暑くなる?
宗はミレッタの言葉に違和感を覚えた。まるでこの家に住むかのような言い方だ。いや、まさか。神はそこまで自分には酷くないだろう。
「トイレもある。和式だけど……」
ミレッタは首をかしげた。「和式?」
何よそれ、と言うので宗はトイレのドアを開けて見せてやった。日本ならだいたいどこでも見かける普通の和式トイレだ。だがミレッタは不思議そうな顔をしている。
「へえ、変わったオブジェね。で、トイレは?」
宗はそれで今更ながら気づいたが、ミレッタは外国人である。日本文化――和式トイレは日本の文化なのだろう、きっと――を知らないのも無理からぬことだ。なるほど、先程から人の家に土足で入っているのはこの為だったのか、と宗は静かに納得した。ちなみにここでいう『人の家に土足で入る』というフレーズには、慣用的意味合いもありそのままの意味も含まれている。……つまり平然と人の心を踏みにじるわ、なおかつ靴も脱がずに家に入るわという二つの意味だ! ――まさに外道。宗はもはや、ミレッタが未だ靴を履いていることに対して何を言う気も起こらなかった。第一に言うだけ無駄だ。
宗が和式トイレと日本文化の関連性について簡単に説明すると、終わる頃には日本文化――というより和式トイレに対する、深い失望がミレッタの顔に出ていた。
「……日本に来たのがマチガイだったわ……」
続いてミレッタは、六畳和間――、つまり宗にとっての寝室、兼キッチン、兼ダイニングルームへと向かった。
宗は整理整頓が得意ではない。掃除に対して必要性を感じないのだ。ある程度汚くても生活はできるし、困ることはない。なら面倒なことはやるべきでないだろう。それが宗の考えだった。
「何よこれ!」コンビニ弁当の空箱や学校の教科書、プリント類が散乱し、シワだらけの布団が敷かれた部屋を見て、ミレッタは悲鳴を上げる。「汚らわしい! まるでソドムとゴモラの再来よ!!」
人の部屋の様相を、旧約聖書の神によって滅亡させられた街をメタファーとして用いるのはいかがなものだろうか。宗は電気を点けながら思った。
ミレッタはさらに叫ぶ。「耐えれないわ! 掃除よ! さっさと一人でやりなさい!」
「その必要性がないよ」宗は言った。当たり前だろう。「僕の部屋なんだ。……別に汚くてもいいじゃないか」
「違うわ。この部屋はたった今、あたしの管轄下になったの!」
……はい? 意味不明だ。「それってどういう――、」ことなんだ、と言い終える前に、ミレッタは言い出す。「『組織』の命令よ」深いため息をついてから、一言づつはっきりと叫んだ。
「『組織』のセキュリティ回復まで当分、この部屋に泊まり当麻宗――つまりあんたの護衛をしろ、っていうね!」
一瞬、時が止まった。少なくとも宗の中では。
と思うが早いか、家のドアがまさに家ごとぶち壊さんとするかのように叩かれた始めた。それに合わせて激しい罵声も聞こえてくる。宗にはそれに心当たりがあった。しかも最悪の心当たりだ。
「何かしら」ミレッタは、たいして動じることもなくドアの方を見た。「あ、日本のドラマで見たことある! 『シャッキントリ』の『オイタテ』ってやつでしょ?! すごぉい!」
「お隣さんだよ……」何がすごぉい、だ。宗は人生で経験する驚きや絶望を一身に背負ったかのように肩を落とす。「お隣さんはかなり気が荒いんだ……。ずっと君が大声で話してるから、向こうに音がかなり響いてたんだ、きっと。どうしてくれるんだよ……」
宗は今まで二、三回ほどだが怒られたことがあった。アロハシャツを着、髪はリーゼント、さらにサングラスをかけた、まさにチンピラの中のチンピラといった風貌だったのでよく覚えている。一番ひどかったのは五月半ばだったか。入ってくるなり、拾いものではあるがお気に入りだった14型ブラウン管テレビをバールで粉々に破壊されたことだ。あれ以来この家にテレビはない。以来、宗も怖くなりほとんど部屋で音らしい音をたてたことがなかった。
ミレッタはそれを聞くと、しばらく思案してからこう言った。
「利害は一致するわね。いいわよ、あたしが話つけてきてあげる」
「無理だよ」宗は床を見つめる。「向こうは本当にキレてるんだ。こんなに激しくドアを叩くのは初めてだよ。……殺されるかもしれない」
「殺される?」ミレッタは呆れたように言った。「――ならその前に殺せばいい話よ」
――本当に行ってしまった。あたしが帰ってくる前に部屋の中掃除しときなさい、と言い残し、ミレッタは怒りと喧噪のうずまくドアの向こうへと行ってしまったのだ。その後で、宗は気付いた。
実は本当にお隣さんが殺されてしまうんではないか、と。
宗はとりあえず言われたとおり掃除をしながら、外に聞き耳を立ててみた。いや、立てるまでもなかった。
いきなり、車のバックファイアのような爆音が轟く。車でも壊したのか? いや、違う。瞬間的に宗は先程のミレッタの台詞を思い浮かべた。『殺される前に殺す』――そうだ、これは銃声、だ。同時にそれまで続いていた男性の低い怒鳴り声がぴたりと止んだ。まさか。
続いて、何か石を砕くような音に加え、悲鳴――もちろん、低い男の声でだ。それ以外に考えられない――が聞こえてくる。どうやら生きてはいるらしい。宗は胸を撫で下ろした。犯罪になってはたまらない。
それ以降は、しばらく静かになった。ときおりミレッタがドスの利いた声で怒鳴るのが聞こえてきたが。宗はその間に、一通り部屋の掃除を済ませた。汚い、とは言っても足の踏み場はあるし、ゴミも全てゴミ箱に入りきる。そこまで汚くはないだろう。と宗はある意味殺風景になった部屋を見て思った。
しばらくすると、ミレッタが帰ってきた。満足そうな笑みを浮かべている。
「中世の拷問器具を数種類見せて、その実用性と効果について話したら真っ青になって謝ってたわ。あんな好戦的なくせに、尋問に対する訓練も受けてないのね。ま、面白かったからいいけど」
恐ろしい少女だ。宗は思わず冷や汗を流した。「じゃあ最初の爆音は?」
ミレッタはまるで、今日の天気について話すかのように言う。「ガバメント――あ、拳銃ね。それで足下にぶっ放したのよ。あんまりうるさかったから。あれが決め手だったわね。それから一言も喋らなくなったし。……あ、あんたも掃除終わったのね! もう十二時だし、寝る準備するわよ!」
……やれやれ。
「あんたは押し入れで寝なさい。あたしがこの部屋で寝るわ」
「そんな無茶な……」
二人は入浴も済ませ――無論、一人ずつだ。断じて背徳的事項はこの空間において存在し得ない。そんな事すれば自分が死んでしまう……!by宗――夜着に着替え、寝場所の取り合いをしていた。もはや宗の家であることは完全にミレッタの思考外にある。
「だいいち、布団は一つしかないし……」宗は言い訳のつもりで言ったのだが、それが意味することに気付き、思わず赤面した。
「へえ? じゃあ、あんたと二人で寝ろって?」ミレッタは腐った蜜柑を見るような目で宗を見つめる。「冗談じゃないわ。あんたと寝るくらいなら犬の方がましよ」
「犬……」宗は少なからずショックを受けた。
「じゃ、決まりね。あんたは自分の布団を押し入れに移動させなさい」
「君は布団どうするの?」
「こうするのよ」すると、ミレッタはかなりの早口で何かを呟き始めた。まるでゲームかなにかに出てくる呪文の詠唱のようだ。ミレッタは最後にはっきりと言う。「compile」
目が眩むような白い閃光。そして次の瞬間には、ミレッタの手に布団一式が丸めて握られていた。まるで魔法だ。
「凄い……」宗は思わず呟いてしまった。
「あんたもできるでしょ。現に……」そこまで言って、ミレッタは宗を見つめる。そして何か――いや、封じていた記憶を思い出したかのように、言った。「いや、何でもない……。とにかく、もう寝るわよ」
二人の間に、それ以上の会話は無かった。
(本当に色々あったな……)
宗は暗い押し入れの中で、これまでの記憶を反芻していた。
森の中でのミレッタとの会話。奇妙な夢。そして三日前の、ミレッタとの出会い。目の前での交戦。クラッカー。ニルという少年。ミレッタに貫通した鉄の杭。イントロダクト・オービス。飛散する血液。
全てが信じられなかった。ここで眠って、目が覚めたら全部夢だった……そうなってほしい が、無理なのだろう。こんなにリアルで長い夢は今まで見たことがない。
何故自分がこんな目に遭う? 自分はごく普通の高校生、当麻宗だ。運動も駄目だし頭も良くない。何も能力なんて無い、はずだ。
――ならば普通、すなわち現実とは何だ?
「普通は普通だ。こうやって暮らしていたこの日常、それが『普通』。僕がここまで経験したのは全部『異常』だ」
――今まで住んできた世界……、五感で感知できるものが現実だというなら、それは愚かだ。
「何故? 現実は現実だ。それ以上のものはないよ」
――脳による電気信号の解釈によって踊らされているに過ぎないからだ。与えられた情報を疑いもせずそのまま取り込み、それを現実、普通として認識する……。人ってものは実に安っぽくできているな。
「意味が分からない」
――考えろ。お前が知覚するもの全てを疑え。この世に『存在』するものは、実際は何一つとして無い。全てが、無い。存在の定義を高次元から捉えるとな。
「どういうこと?」
――やれやれ……。
「…………」
――見せてやるよ。お前が何なのか。そして、お前に備わっている『力』を。
意識が、飛んだ。