庵
とても暗い気持ちでいた。
やっぱり佳苗に手を引いて行かれたあの事を怒っているのかもしれない。
それとも、その前の帰れなかった時のことも?
これからどうしよう、不安が背後で渦巻く最中、あの少女がにんまりと笑って近づいてくる。
「あ……こないだの」
有紗は手招きをした。
少女は元気いっぱいにこちらへはねてきた。
街頭の下に立つ。本当に懐かしい香りの少女だ。
「えっと、このあいだの忘れもの……あ、家だからちょっとついてきてくれる?」
おそい時間であったが、早くあれを渡さなくてはという衝動のほうが強かった。
なんとなくだけど、これを手渡せば拓斗がまた帰ってくれると思ったのだ。
ただ、気まぐれで帰ったのかもしれないけれど。
「ここで待ってて、すぐとってくる」
玄関の前に少女を立たせて、有紗は家の中へはいって行った。
あぁ、扉を開けたら少女が消えているかも。
すぐに見えなくなっちゃうほど足の速い娘なのだ。
玄関の棚に置いてあるリカちゃんをゆっくり握った。
少女は大人しく待っていた。
とてもまるく美しい瞳でこちらを見上げている。
小さなブタの人形、リカちゃんを少女に帰してあげた。
でも、少女はそれを拒否した。
「わたしあげるっていったんだけどな」
「え……でも、あなたのものでしょう?いらないの?」
少女はうんうんと頷いた。
ちょっと困ったが、せっかくなのでもらっておく。
一応気になっていた事を聞いてみた。
「えっと、お名前は?」
「いおり、わたし庵」
庵と名乗るその少女は何かを訴えるような眼で有紗を見つめる。
きらきらと瞳の中でゆらめく街灯の光。
有紗は察した。
「あたし、白石有紗。ありさよ、有紗」
少女は口を半分開けてうんうんと頷いた。
名前わかりましたよ、ということだろう。
でも何かいいたげな顔だ。でも何も言おうとしない。
人見知りをする子なのだろうか。
「おうちはどこなの?」
少女は口を開こうとしなかった。
一瞬家がないのかと考えたが、個人情報は漏らさない主義なのかもしれない。
「わかった。じゃあ、えっとー……時間大丈夫なの?」
「帰っていいと?」
急に少女の口調が変わった。
と思ったら、喋ったのは少女じゃなく、人形のほうだった。
庵と同じ声でしゃべる人形……。
「えっ……」
一瞬何なのかわからなかったが、あきらかにリカちゃんだろう。
さっきからむず痒いと思ったら、身ぶり手ぶりで喋っていたのだ。
「やっと気付いたんね、庵の声はこのリカちゃんがアフレコしとったんよ」
え、あの……と少々引き気味に有紗が喋る。
リカちゃんは満面の笑みである。ドッキリ大成功みたいな。
「この子が私をあんたにあげるっていいよるんよ。やけ居候させてもらうけ!大丈夫、一応ぬいぐるみやけ場所とったりもせんし、エサもいらんよ?」
「え……えっと」
気がつくとまた庵の姿はなかった。
またか、と思った。
なんだかこの変なしゃべり方の人形を押しつけられてる気がしてならない。
「早く帰らんと、晩御飯の時間やろ?」
「そうですね」
わけのわからないまま有紗は家へもどっていった。