第三十二章
「ママ、ママは……」
「あんな奴をママを呼ぶのはよせよ、口が裂けるぞ」
「うぅ……」
幼き少女は、眼に涙を浮かべて。
我慢しているのだろうか、頬を雫が伝うことはなかった。
「そんなに心配か」
庵は肯定の合図を示した。
だったら仕方がないな、と優しい表情を浮かべ庵にささやいた。
「勝手に探してくればいい」
非常に残念であるが、よくあるドラマやアニメなどで囁くと聴くと、なんだか声が低く太く眠たくなるような、めまいのするような感じを思い浮かべる人もいるかもしれない。
ムードが出ていない。彼の声は残念ながらまだ幼い。
庵は家を後にした。
一人で外出なんてさせた事がないね。
なんだかちょっと楽しみだ。別に戻ってこなくてもいいと思っている。
唯でさえ小さな子供に好奇心がないというのに、その子供のせいでパラレルワールドモドキに来てしまったというのだから。
「さ、さ……早く早く」
「う、うん……でも、気が引けるなぁ。こんな薄暗い部屋にこもるなんて」
「嫌なら外でもいいと思うけど」
はいはい、有紗は閉じこもった。
ひたすら、ひたすらその薄暗い部屋に入っていた。
でもとてつもなく暇だった。
学校へ行くよりはマシであろうが。
わああっと下の階では泣き声がこだました。
なんだなんだと不機嫌な顔で近寄る拓斗に抱きついた。
「ママ……いないのぉ」
「そうかそうか」
不覚にも一瞬だけ温かい気持ちになった。
なんだか懐かしいの裏返しだ。
それはきっと、庵が一人で家族ごっこを実施したからであろう。
拓斗も優しく抱きしめてやった。
あぁ、そうだ。俺はこの顔が見たかったのだ。
「パパぁ……パパぁ……」
「なぁ、庵……」
拓斗はゆっくり細く小さな身体から腕をほどき、ゆっくりと見つめた。
涙をぬぐいながら庵も腕を離した。
「ママがいなくて淋しいか」
肯定。
「ママはお疲れだったんだよ。お前が……いや、その……ね」
可愛らしい顔に思わず言葉が詰まる。
「ママはこっちに来てからあれなんだよ。えっと、そう、早く向こうに帰りたいんだ」
……
「だから、イライラしてたんだよ。俺もそれは同じだと思う。もうこんなところいたくないんだよ」
……
「庵、よく考えるんだ。ここで暮らしていくか……ママと一緒に帰る道を探すか」
……
「帰らないか」
肯定。
「待ってろ、俺が今からママ探してくるからさ、もう、泣くなよ」
一方その頃、暇を持て余していた有紗は屋根裏部屋から二人のやり取りをきいていた。
なんという、どこかにありそうな洋画劇場なのだろうか。
大笑いは出来ないが、それをこらえるのは苦しい。
だんだんこっちまで熱く、恥ずかしくなるではないか。
「じゃあな、お前はもう一度外を探してほしい。きっとそろそろ帰ってくるよ」
肯定。
庵は再び外へ出て行った。