スーツと流木
九月末の平日は、どこか薄ら寒く、空はまだ白みきっていなかった。
午前五時半。
アラームが鳴る前に目を覚ました私は、音を立てないようにベッドを抜け出し、スーツに着替えた。
寝室では妻と小学生の娘が、規則正しい寝息を立てている。
食卓には何も出ていないが、不満はない。
朝食はいつも通り、駅に向かう途中のコンビニでサンドイッチとコーヒーを買い、始業前のデスクで流し込むつもりだった。
家庭は円満だ。
勤め先の保険会社も、世間で言うブラック企業というわけではない。
残業はそれなりにあるが、理不尽なノルマで詰められるような環境ではなかった。
最寄り駅から、いつもの通勤快速に乗り込んだ。
車内はすでにそこそこ混み合っており、湿ったスーツの匂いと整髪料の香りが混ざり合っている。
吊り革に掴まり、スマートフォンの画面でニュースを眺めているうち、不意に足元から冷たい泥水がせり上がってくるような感覚に襲われた。
体調が悪いわけではない。
吐き気も、頭痛もない。
ただ、直感的に悟ったのだ。
このままいつものオフィスに行き、いつものようにパソコンを立ち上げたら、私の中の何かが致命的に壊れてしまう、と。
気がつくと、私は乗り換え駅である新橋駅のホームに降り立っていた。
まだ七時前だ。
人の波が足早に改札や地下鉄へと向かっていく中、私はホームの柱の陰に立ち尽くし、スマートフォンを握りしめた。
数回の深呼吸の後、短縮ダイヤルをタップする。
時差出勤制度を利用して、毎朝早くから出社している直属の課長へ繋いだ。
『はい、営業二課、及川です』
電話口の奥から、すでにキーボードを叩く乾いた音が聞こえてくる。
「おはようございます。……杉山です」
『おお、杉山。早いな。どうした?』
「大変申し訳ありません。今朝から急に熱が出てしまいまして……体調が優れないので、本日は有給をいただいて休ませていただけないでしょうか」
沈黙が落ちた。
キーボードの音がピタリと止む。
『今日? ……ちょっと待ってな』
マウスをクリックする音が響き、及川課長が小さく舌打ち交じりの息を吐くのが聞こえた。
『今日の午後、十四時から大同産業の更新手続きが入ってるよな。あれ、どうするつもりだ?』
「昨日のうちに、更新用の書類一式は共有フォルダにまとめてあります。先方には私からお詫びのメールを入れておきますので、申し訳ありませんが、どなたか代理で持っていっていただけないでしょうか」
『……まあ、フォルダにあるなら鈴木に行かせるけどさ。月末のこの時期だぞ?こっちもカツカツなんだから、体調管理くらいしっかり頼むよ』
「本当に、申し訳ありません」
『わかった。ゆっくり休んで、明日には万全で出てこいよ』
「ありがとうございます。失礼いたします」
通話が切れた画面を見つめたまま、私はふうっと長く息を吐いた。
胃の奥がチクチクと痛む。
及川課長は嫌味な人間ではないし、至極まっとうな反応だった。
だからこそ、自分のついた嘘と無責任な行動が重くのしかかる。
そのまま新橋駅のホームのベンチに座り込み、十五分ほど呆然としていた。
ただ、どうしても今日は、あのビル群の中に身を置くことができなかった。
どこへ行けばいいのか。
何をすればこの得体の知れない閉塞感から逃れられるのか。
ふと、頭の中にひとつの景色が浮かんだ。
海が見たい。
ただ波の音を聞いて、広い水平線を眺めれば、この胸につかえている鉛のようなモヤモヤを少しは晴らすことができるかもしれない。
私は立ち上がり、地下深くにある横須賀線のホームへと向かった。
久里浜行きの横須賀線は、都心を抜けると少しずつ車窓の景色を変えていった。
横浜、大船と過ぎる頃には、スーツ姿の人間はまばらになっていた。
鎌倉駅で降り、江ノ島電鉄の乗り場へと向かう。
木造のレトロな駅舎を見上げたとき、ふいに中学生の頃の記憶が蘇った。
校外学習で班員たちとこの駅に降り立ち、地図を広げてあちこち歩き回った記憶だ。
そういえば、長谷駅の近くに、海がよく見える小高いお寺があったはずだ。
当初は直接、砂浜へ向かうつもりだったが、私は気が変わって長谷駅で下車した。
歩き慣れない革靴で、海とは反対の山側へと歩を進める。
ポケットの中にはスマートフォンがあるが、画面を見る気にはなれなかった。
拝観時間が分からなかったが、もし閉まっていたら、それはそれで運命だと思えばいい。
だが、なぜだか開いているような気がしていた。
長谷寺の立派な門前に着くと、時刻はちょうど八時を回ろうとしていたところだった。
僧侶が門の周りを掃き清め、拝観受付の窓口が開けられる。
私は券売機でチケットを買い、境内へと足を踏み入れた。
秋の初めの冷たい空気を吸い込みながら、静まり返った石段をゆっくりと上っていく。
観音堂のある上段まで登りきると、視界が一気に開けた。
見晴らし台からは、由比ヶ浜の海と鎌倉の街並みが一望できた。
鉛色の雲の隙間から、朝日が海面をキラキラと照らしている。
たしかに綺麗な景色だった。
深呼吸をしてみる。
しかし、遠くから見下ろす海は一枚の絵画のように静かで、私の心の奥底にこびりついた不満とも不安ともつかない靄を晴らすには、まだ何かが足りなかった。
寺を後にした私は再び長谷駅に戻り、藤沢行きの江ノ島電鉄に乗り込んだ。
ガタガタと家々の軒先を掠めるように走っていた電車は、やがて視界が開け、海沿いへと飛び出した。
昔、テレビのロケか何かで見た記憶を頼りに、七里ヶ浜駅で降りる。
駅を出てすぐ、国道134号線と交差する踏切に立った。
カンカンカンという警報音とともに江ノ電が通り過ぎると、目の前には遮るもののない広大な海が広がっていた。
先ほどの見晴らし台から見た海とは違い、波の音が腹の底に響くほど近い。
階段を下りて砂浜に出た。
朝九時前の海辺には、犬の散歩をする人が遠くに小さく見える程度で、ほとんど誰もいなかった。
革靴が砂に沈むのも構わず波打ち際まで歩き、そこに取り残されていた大きな流木に腰を下ろした。
寄せては返す波の音。
潮の匂い。
海風が、綺麗にセットしたはずの髪を乱していく。
私はただぼーっと、果てしなく続く水平線を見つめていた。
仕事のこと、妻や娘のこと、すべてが遠い別の世界の出来事のように感じられた。
「あの、隣、いいですか」
波の音に紛れるように、ふと、すぐ横から声をかけられた。
声のした方を振り向くと、そこにはブレザーの上に大きめのカーディガンを羽織った、高校生くらいの少女が立っていた。
平日の午前九時前。
彼女もまた、明らかにここにいるべきではない人間だった。
「……ああ。どうぞ」
私が少し身をずらすと、彼女は「失礼しまーす」と気の抜けた声を出し、長い流木の反対側に腰を下ろした。
波の音が、二人の間の無言を埋めるように響き続ける。
私は再び海へ視線を戻したが、心の中のモヤモヤは依然として晴れてはいなかった。
海を見ればすべてが洗い流されるような気がしていたのに、いざ目の前に広がる水平線を前にしても、会社に嘘をついた罪悪感や、自分の人生に対する漠然とした閉塞感は、潮風に吹かれるスーツのように重く体にまとわりついたままだった。
「おじさん、仕事サボり?」
不意に、横から声が飛んできた。
見ると、少女は膝を抱え、波打ち際をぼんやりと見つめながらこちらに顔を向けていた。
「……まあ、そんなところだ」
「奇遇だね。私も」
悪びれる様子もなく、彼女はふふっと笑った。
「体調不良ってことにしてきたんだけどさ、親にも学校にも嘘ついたから、ちょっとだけ罪悪感あるんだよね。おじさんもそうでしょ。こんな砂浜に革靴で、いかにも『逃げてきました』って顔してるし」
図星を突かれ、私は苦笑するしかなかった。大人になると、自分を正当化する理屈ばかりがうまくなる。
だが、この年端もいかない少女には、私の抱える無様な限界がすっかり透けて見えているようだった。
「海を見れば、少しはすっきりするかと思ったんだがな」
思わず、そんな本音が口を突いて出た。
「全然、晴れないんだ。結局、明日からのことや、休んだ分の仕事のことばかり考えてしまって……何をしにここまで来たのか、自分でもよくわからなくなってきた」
私は自嘲気味に息を吐いた。
やはり、ただの現実逃避だったのだ。
少女は何も言わず、しばらく黙って海を見ていた。遠くで、トンビが弧を描いて鳴いている。
やがて、彼女は抱えていた膝から顔を上げ、大きく伸びをした。
「でもさ」
風に煽られた髪をかきあげながら、彼女はまっすぐに水平線を見つめて言った。
「今日、海を見に来たの、正解だったね」
「……正解?」
「うん。だって、もし今日無理して学校や会社に行ってたら、もっと最悪なことになってたかもしれないじゃん。心がペチャンコに潰れちゃう前に、ちゃんと自分でストップボタン押して、ここまで逃げてこれたんだからさ。それって、めっちゃすごいことだよ」
少女は立ち上がり、制服のスカートについた砂をパンパンと払った。
「海見て一瞬ですっきりするなんて、ドラマチックなこと起こらなくてもさ。とりあえず、今日はここに来て正解だったんだよ。……じゃ、私そろそろ行くね。おじさんも、あんまり考え込みすぎないようにね」
ひらひらと手を振り、彼女は江ノ電の駅の方へと歩き出していった。
その小さな背中を見送った後、私は「正解」という言葉を口の中で静かに反芻した。
ずっと、間違えてはいけないと思って生きてきた。
会社でも、家庭でも、正しくあらねばならないと気を張っていた。
今日の自分の行動も、ただの許されない「間違い」だと責め続けていた。
けれど、彼女のあっけない肯定が、凝り固まっていた私の思考をふっと解きほぐしてくれた。
「……そうだな。正解だったのか」
海を見に来たからといって、劇的に人生が変わるわけではない。
明日になれば、また満員電車に揺られ、頭を下げて回る日常が待っている。
それでも、致命的に心が壊れてしまう前に、自分で自分を休ませてやることができた。
その事実だけで、今日の空白には十分な意味があった。
気がつけば、あれほど重かった肩の荷が嘘のように軽くなっていた。
大きく深呼吸をすると、潮の香りが心地よく肺を満たした。
私は流木から立ち上がり、革靴についた砂を払う。
そろそろ帰ろう。
家の近くの駅に着く頃には、妻や娘が好きなケーキ屋が開いているはずだ。
少し早めに帰って、今日は三人でゆっくりお茶でも飲もう。
少しだけ身軽になったスーツ姿のまま、私は波音を背にして、元来た踏切へと歩き出した。




