名前泥棒
とある村に、奇妙な泥棒が現れた。
夜な夜な人の名前を盗み歩く、名前泥棒だ。
名前を盗まれた村人達は困り果てた。
呼び名が無くては、どうにも不便で仕方がない。
――何とかして盗まれた名前を取り返せないものか。
村人達は寄合を開き、名前泥棒を捕まえるべく知恵を出し合った。
味を占めた名前泥棒は、きっとまた今夜も名前を盗みにやってくるはずだ。
それならば、名を持つ者を囮にして名前泥棒を誘き出してやればいい。
囮の者をひと所に集め、物陰に身を潜めて名前泥棒が現れるのを待つ村人たち。
おんぼろ長屋に出入り口はひとつきり。
村人全員で取り囲んでしまえば、さすがの名前泥棒といえども袋のネズミだ。
そうとは知らず、今夜も意気揚々と村人の名前を盗みにやって来る名前泥棒。
世の中には、大層な名前のわりに中身のない奴が多すぎる。
どいつもこいつも名前負け。
身の丈に合わない名前は、みんなこの儂が盗み取ってくれるわ。
月明かりを頼りに引き戸をすり抜け、夜陰に溶け込むように長屋の中へ。
入り口脇に小さな土間があり、その先に枕屏風に仕切られた埃臭い四畳半。
耳を澄ますと、暗がりの奥から微かに寝息が聞こえている。
――シメシメどうやら家主は既に夢の中らしい。
抜き足差し足で上がり框を踏み、せんべい布団をかぶった村人の名前に手を伸ばした――まさにその時だ。
突然、室内に明かりが灯り、待ち構えていた村人達が一斉に名前泥棒を取り囲んだのである。
「かかったな、名前泥棒。貴様もついに年貢の納め時だ。さぁ、観念して盗んだ名前を返しやがれ」
鬼の形相で名前泥棒に詰め寄る村人達。
しかしながら名前泥棒はまったく動じることなく、飄々とした口取りで、
「何、儂は別に名前を返してやっても構わんよ。けれども持ち主がわからないことには返しようがない」
おかしなことを言う。
名前泥棒の言い分に村人達は眉を顰め、白々しいとばかりに顔を見合わせた。
「自分の名前がわからない者などいるはずがなかろう。訳の分からないことを言っていないで、さっさと盗んだ名前を返すんだ」
ならば、と懐から村人の名前が記された帳面を取り出す名前泥棒。
「この名の持ち主は、一体どんな自分人物だ。説明してみせよ。それとわかれば、今すぐにでも名前を返してくれるわ」
言下、一人の恰幅の良い村人が我こそはと名前泥棒の前に躍り出て言った。
「それは紛れもなく私の名前だ。さぁ、早くその名前を私に返してくれ」
厚い胸板を拳で叩き、その手を泥棒に差し出して名前の返還を迫る村人。
けれども名前泥棒は村人の顔を矯めつ眇めつして、怪訝そうに首を捻り、
「この名が本当にお主の名前である証拠がないではないか。持ち主でない者に、名前を返す訳にはいかぬ。この名の主が、どんな人物か儂にもわかるように説明してみせろ。さすれば、その者を知らぬ儂にも名前の主を見分けることができるというもの」
なるほど、確かに名前泥棒の言うことも一理ある。
それで恰幅の良い村人はあれこれ自らの人と形を語ってみせるのだが、肝心の名前泥棒は釈然としない表情で、
「真面目で正義感が強い? 大柄で力が強く、よく働く? それとよく似た人物を、儂は他に何人も知っているのだが……」
どれもありきたりで、個人を特定するには事足りない。
誰がその特徴を聞いて、この名を思い浮かべるだろうか。
名前泥棒は嘆息を一つ漏らすと、節くれの指で帳面を捲り、新たに盗んだ名前を示して声を張った。
「ならば、次。この名の持ち主は、どんな人物だ」
それで今度は痩せ型の背の高い村人が必死に自分の人柄や外見的特徴を語ってみせるのだが、やはり名前泥棒の首を縦に振らせることはできなかった。
自分の名前を知らぬ者はいない。
けれども、村人達は自分自身を知らなすぎたのだ。
「便宜上の名前なら、誰がこの名を語っても同じこと。自己を確立できぬ者に名前など無用の長物であろう。それでも返して欲しければ、望み通り返してやる」
そう言うと、名前泥棒は惜しげもなく帳面を天上高く放り捨て、闇夜に溶けるように姿を消したのだった。
月明かりの下、短冊よろしく名前の書かれた帳面のページがひらひらと舞い落ちる。
村人たちは一斉に膝を折り、床に手を這わせて懸命に自分を探した。
けれどもいくら探しても探し物は見つからない。
当然か、村人達が暗闇の中で探していたのは、盗まれた名前ではなく、自分の人間性だったのだから。