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市場での騒動が嘘のように、帰り道は奇妙なほどの静寂に包まれていた。先程までルーナを囲んでいた野次馬たちは、ガルヴァンの絶対的な存在感の前にいつの間にか姿を消し、今はただ、四人の護衛騎士が厳格な距離を保ちながら、無言で二人を囲むように歩いているだけだった。
ガルヴァンはルーナの半歩前を、背筋を伸ばして歩いていた。その背中は相変わらず大きく、頼もしい。けれど、時折、彼は歩みを緩めては、ルーナの様子を気にするように、ぎこちなく振り返るのだった。その度に、ルーナは俯き加減の顔を上げ、彼と視線が合う。ガルヴァンの瞳には、まだ微かな怒りの残滓と、それ以上に深い安堵の色、そしてルーナには読み解けない複雑な感情が浮かんでいた。
ルーナは、まだ少しだけ震える足で、必死に彼の後を追った。先程までの恐怖と、込み上げてきた涙で、身体は鉛のように重い。けれど、心の中は不思議と凪いでいた。市場での出来事を何度も反芻する。マルコの卑劣な言葉、周囲の好奇の目、自分の無力さ。そして、全てを打ち消すように現れたガルヴァンの姿。彼の、自分を守るためだけに放たれた、凍てつくような怒り。最後に名を呼ばれた時の、不器用な優しさ。
(ガルヴァン様……)
彼が自分に向けてくれる感情が、単なる同情や気まぐれではないことを、ルーナはもう疑っていなかった。それはもっとずっと強く、激しく、そしておそらくは、彼自身も持て余しているような、深い何かだ。その事実に、ルーナの胸は甘く締め付けられるように痛んだ。
ようやく見慣れた重厚な邸宅の門が見えてきた時、ルーナは心の底から安堵の息を吐いた。もう、好奇の視線に晒されることもない。安全な場所。彼が用意してくれた、陽だまりのような場所。
玄関ホールに入ると、ガルヴァンは護衛の騎士たちに「……下がれ。よくやった」と短く告げ、アルフレッドには「湯の用意を。それと、温かい飲み物を」と命じた。彼の声はいつものように低く落ち着いていたが、その場の誰もが、普段とは違う、張り詰めた空気の後の弛緩を感じていた。
ガルヴァンは他の使用人には目もくれず、ルーナの方に向き直った。
「……行くぞ」
彼はルーナの手を取ることはしなかったが、まるで迷子の子供を導くように、ゆっくりとした歩調で彼女を客間へと促した。そこは、ルーナがこの邸宅に来てからよく過ごすようになった、暖炉のある落ち着いた部屋だった。
ソファにルーナを座らせると、ガルヴァンは侍女が運んできた温かいミルクの入ったカップを、無言で彼女の前に置いた。そして、自分はその向かいの椅子に、大きな体をぎしぎしと軋ませるように腰を下ろした。
部屋には、暖炉で薪がぱちぱちと燃える音だけが響いていた。ルーナは両手で温かいカップを包み込み、ミルクの甘い香りに少しだけ心が解れるのを感じた。ガルヴァンは、ただ黙って、ルーナが落ち着くのを待っているようだった。彼の大きな手が、膝の上で所在なさげに握り締められているのを、ルーナはそっと見つめた。
やがて、ルーナはカップを置き、意を決して顔を上げた。
「あの……ガルヴァン様」
「……なんだ」
「本当に……ありがとうございました。助けていただいて……。それから、ご迷惑を、おかけしました……」
「……迷惑だなどと、思っていない」
ガルヴァンは即座に否定した。その声には、僅かな苛立ちが混じっているように聞こえた。
「お前が無事なら、それでいい」
その言葉は、あまりにも真っ直ぐで、ルーナの心に深く染み入った。彼女は勇気を出して、ずっと胸の中にあった疑問を口にした。
「どうして……あんなところに、来てくださったのですか? 私、護衛の方もいるから大丈夫だと……」
ガルヴァンは一瞬、答えに窮したように視線を彷徨わせた。
「……虫の知らせ、というやつだ」
「え?」
「お前を……一人で、あの雑踏に行かせたのが、間違いだった。……俺が、ついて行くべきだった」
彼は苦々しげに呟いた。その言葉には、深い後悔と、ルーナに対する強い独占欲のようなものが滲んでいた。彼は、ルーナが自分の目の届かない場所にいること自体を、許せなかったのかもしれない。
「なぜ……そこまで、してくださるのですか?」
ルーナは、さらに核心に迫る問いを投げかけた。
「私は、ただのスラムの花売りで……あなた様のような方とは、住む世界が違うのに……」
ガルヴァンは、ルーナの問いにすぐには答えなかった。彼は立ち上がり、暖炉の前に立つと、燃える炎をじっと見つめた。その広い背中が、何か重いものを背負っているように見えた。やがて、彼はゆっくりと振り返り、ルーナの目を見て、低い声で言った。
「……初めてお前を見た時、雨の中で、死んだように倒れていた」
彼の声は静かだったが、そこには確かな感情が込められていた。
「あまりにも……小さく、儚く見えた。まるで、壊れやすい硝子細工のようだと……思った」
彼は言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。
「守らねば、と。ただ、そう思った。理由は……分からん。だが、俺の傍にいる限り、誰にもお前を傷つけさせはしない。……それだけだ」
それは、愛の告白ではなかったかもしれない。けれど、彼の不器用な言葉の中に込められた、絶対的な庇護の意志と、ルーナという存在そのものに向けられた深い執着は、どんな甘い言葉よりも強く、ルーナの心を揺さぶった。
涙が、再びルーナの頬を伝った。しかし、それはもう、恐怖や悲しみの涙ではなかった。
「……ガルヴァン様……」
彼女は立ち上がり、彼の前に進み出た。そして、震える声で、最後の問いを投げかけた。
「私……ここにいても、いいのでしょうか? あなた様の、お傍に……」
ガルヴァンは、目の前に立つ小さな少女を見下ろした。その大きな瞳は潤み、しかし、強い意志の光を宿している。彼はゆっくりと手を伸ばすと、その大きな、節くれだった指先で、ルーナの頬を伝う涙をそっと拭った。その手つきは、まるで本当に、壊れやすい硝子細工に触れるかのように、慎重で、優しかった。
そして、彼は言った。今まで聞いた中で、最も穏やかで、確かな響きを持つ声で。
「……ああ」
彼は短く肯定し、そして、繰り返した。
「ここに、いろ。ルーナ。……それが、お前のいるべき場所だ」
その言葉と共に、ルーナの心を満たしていた最後の不安が、完全に消え去った。彼女は顔を上げ、涙に濡れたまま、満面の笑みを浮かべた。それは、雨上がりの空に輝く太陽のような、希望に満ちた笑顔だった。
その笑顔を見て、ガルヴァンの厳つい顔にも、はっきりとした柔らかな表情が浮かんだ。彼がこれほど穏やかな顔をするのを、ルーナは初めて見た。
窓の外では、午後の陽光が庭を明るく照らしていた。ルーナが世話をしていた観葉植物が、生き生きとした緑の葉を陽の光に向けて伸ばしている。まるで、二人の未来を祝福するように。
ガルヴァンの大きな手が、今度は躊躇うことなく、ルーナの小さな手をそっと包み込んだ。その温かさが、ルーナの心に深く、深く染み渡っていく。
言葉はまだ少ないかもしれない。二人の間には、身分も、年齢も、体格も、あまりにも大きな隔たりがある。けれど、確かな絆が、不器用で優しい愛情が、今、確かにここにある。
無骨な騎士団長の硝子細工。
雨宿りから始まった物語は、陽だまりの中で、新しい章を迎えようとしていた。