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心の中に灯った小さな、しかし確かな温もり。それはルーナに、ささやかな勇気を与えていた。あの日以来、彼女は来る日も来る日も、どうやってガルヴァンに外出の許可を願い出るか、そればかりを考えていた。目的は、市場で特別な薬草を手に入れること。母が教えてくれた、心を落ち着かせる香りを持つ、可憐な青い花――「月見草」と呼ばれる(彼女が勝手につけた名前だが)その薬草を手に入れ、彼にお礼のお茶を淹れたい。そして、ほんの少しでもいいから、あの重苦しい屋敷の外の空気を吸いたい。
しかし、相手はあのガルヴァン・ホーキンスだ。庭に出ることすら「危険だ」と眉をひそめる彼が、人でごった返す市場への外出を許可するとは到底思えなかった。ルーナは何度も言葉をシミュレーションし、そのたびに彼の厳つい顔と低い声を思い出しては、心が萎縮するのを感じていた。
(でも……言わなきゃ、何も始まらない)
意を決したルーナは、ある日の午後、書斎で執務中のガルヴァンに声をかけた。
「あ、あの……ガルヴァン様」
「……なんだ」
ガルヴァンは書類から顔を上げずに応じた。その声だけで、ルーナの心臓は早鐘を打ち始める。
「お願いが……あります」
「……言ってみろ」
促され、ルーナは震える声で、市場へ行きたい旨を伝えた。案の定、ガルヴァンはペンを止め、鋭い視線を彼女に向けた。その眼差しには、明らかな不快感と拒絶の色が浮かんでいた。
「……ならん」
即答だった。やはりダメか、とルーナの肩が落胆で落ちる。
「なぜだ。必要なものがあれば、アルフレッドに言いつけろ。すぐに手配させる」
「いえ、そういうことではなくて……その、私が直接行かないと手に入らないかもしれない薬草があって……」
「薬草? 何に使う」
「あ……えっと、お茶に……ガルヴァン様、いつもお疲れのようですから、少しでも、その……」
言いながら、ルーナの声はどんどん小さくなっていく。自分の動機が、あまりにも個人的で、身の程知らずなものに思えてきた。ガルヴァンは黙ってルーナを見つめている。その沈黙が、嵐の前の静けさのように感じられ、ルーナは俯いてしまった。
(やっぱり、無理だった……)
諦めて部屋に戻ろうとした、その時だった。
「……場所は」
「え?」
「その薬草とやらが売っている場所は、どこだ」
予想外の問いに、ルーナは顔を上げた。ガルヴァンの表情は相変わらず険しい。しかし、そこには先程の即座の拒絶とは違う、何かを深く考えているような色が窺えた。
「えっと……中央市場の、少し外れにある薬草専門の露店です。昔、母と……」
言いかけて、ルーナは口をつぐんだ。自分の過去を話す必要はない。
「……そうか」
ガルヴァンは再び沈黙した。長い、長い沈黙だった。ルーナは息を詰めて彼の次の言葉を待つ。彼は巨大な体躯を椅子に深く沈め、指でこめかみを揉んでいた。その仕草に、彼の内心での葛藤が表れているような気がした。この小さな娘のささやかな願いを叶えてやりたい気持ちと、彼女を危険な外界に晒したくないという強い保護欲との間で揺れているのだろうか。
やがて、彼は重々しく口を開いた。
「……許可する」
「! ほんとう、ですか!?」
思わずルーナの声が弾む。
「ただし、条件がある」
ガルヴァンの声が、再び厳しい響きを取り戻す。
「護衛をつける。最低でも四名だ。指定した店以外には立ち寄ってはならん。日没前には必ず帰邸すること。……いいな?」
それは許可というより、厳戒態勢下の外出許可証のようだったが、ルーナにとっては望外の喜びだった。
「はい! ありがとうございます、ガルヴァン様!」
満面の笑みで頭を下げるルーナを見て、ガルヴァンの厳つい顔が一瞬、ほんの僅かに和らいだように見えたのは、気のせいだっただろうか。
翌日、ルーナは落ち着かない気持ちで出発の準備をしていた。ガルヴァンは朝から騎士団の執務に出かけていたが、出発前に執事のアルフレッドを通して、これでもかというほどの注意が伝えられた。「人混みには近づくな」「怪しい者には声をかけるな」「少しでも危険を感じたらすぐに護衛に知らせろ」……。
アルフレッドは、心配そうな、しかし少しだけ面白がっているような複雑な表情で、分厚い革袋をルーナに手渡した。中には、ルーナが一生かかっても稼げないような額の金貨が入っている。
「旦那様からです。『必要なものは、これで』と」
「こ、こんなにたくさんは……!」
「お気持ちです。さあ、護衛の者たちがお待ちです。お気をつけて」
邸宅の玄関ホールには、いかめしい顔つきの騎士が四名、直立不動で待機していた。彼らの鎧は磨き上げられ、腰の剣は鈍い光を放っている。まるで王族の行列だ。ルーナは自分が場違いな存在であること、そしてガルヴァンの心配がどれほど深いものであるかを改めて感じ、喜びと同時に重圧で息が詰まりそうになった。
馬車ではなく、徒歩で市場へ向かう。ルーナの歩幅に合わせるためか、騎士たちの歩みはゆっくりだったが、それでも周囲の注目を集めずにはいられない。道行く人々は、物々しい一行を遠巻きに見つめ、ひそひそと噂し合っている。
(……やっぱり、目立ちすぎ……)
ルーナは俯き、できるだけ小さくなろうとした。
しかし、目的の中央市場が見えてくると、久しぶりに感じる活気と喧騒に、ルーナの心は自然と浮き立った。色とりどりの野菜や果物、香辛料の刺激的な香り、威勢のいい売り子の声、人々のざわめき。スラムの薄暗い路地とは違う、生命力に満ちた光景。
(ああ……!)
一瞬、自分が騎士団長の庇護下にあることすら忘れ、ルーナは目を輝かせた。花の露店に足を止め、色鮮やかな花々に見入る。香辛料の店先で、異国の珍しい香りに鼻をくすぐられる。かつて母と歩いた記憶が蘇り、胸がきゅっと締め付けられるような、甘酸っぱい懐かしさが込み上げてきた。
だが、そんな感傷に浸る時間は長くは続かない。護衛の騎士たちは、常にルーナの周囲に四角い陣形を保ち、近づこうとする者を鋭い視線で牽制する。彼らが無言で道を開けるため、ルーナの前だけが不自然に空間が空き、かえって目立ってしまう。人々は好奇と、少しばかりの非難の色を目に浮かべて遠巻きに見ている。
(やっぱり、私はここにいるべきじゃないんだ……)
浮き立った気持ちは急速にしぼみ、ルーナは再び俯いた。早く目的の薬草を手に入れて、あの静かな(そして少し息苦しい)邸宅に戻ろう。そう思った矢先だった。
「よう、ルーナじゃねえか。久しぶりだな」
背後からかけられた、ねっとりとした声。その声を聞いた瞬間、ルーナの全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。ゆっくりと振り返ると、そこには、記憶の中よりもさらに薄汚く、卑屈な笑みを浮かべた男――マルコが立っていた。
「マ、マルコ……な、なんで……」
「なんでって、そりゃお前を探してたからよぉ」
マルコは、ルーナの綺麗な身なりと、周囲を取り囲む騎士たちを値踏みするように見回し、下卑た笑みを深めた。
「へえ、ずいぶん良い暮らししてるじゃねえか。俺たちを捨てて、いいご身分になったもんだなあ?」
「ち、違う……!」
「心配してたんだぜ? お前、急にいなくなっちまうからよ。さあ、昔みたいに、ちょっと付き合えや」
マルコが汚れた手を伸ばし、ルーナの腕を掴もうとする。その瞬間、ルーナの前に立ちはだかった騎士が、マルコの手を荒々しく払い除けた。
「無礼者! この方に気安く触れるな!」
騎士の厳しい声に、マルコは一瞬怯んだが、すぐに居直ったように胸を張った。
「ああん? なんだてめえ! こいつは俺の昔からのダチなんだよ! 関係ねえ奴はすっこんでろ!」
マルコはわざと大声を張り上げ、周囲の野次馬たちにアピールするように騒ぎ立て始めた。
「可哀想な娘なんだよ! 金持ちに騙されて、無理やり連れてこられてるんだ! みんな、助けてやってくれ!」
根も葉もない嘘。しかし、ルーナの華奢な姿と、彼女を取り囲む威圧的な騎士たちという構図は、マルコの言葉にある種の説得力を持たせてしまう。人々は遠巻きに囁き合い、中には同情的な視線をルーナに向ける者もいる。騎士たちは、手出しもできず、かといってルーナを連れてその場を強引に離れることもできず、困惑した表情で立ち尽くしている。
ルーナは、羞恥と恐怖で顔を上げられなかった。身体が小刻みに震え、涙が溢れそうになるのを必死で堪える。
(いや……いや……!)
心の叫びは声にならない。自分がここにいることが間違いだったのだ。ガルヴァン様の心配は正しかった。彼に、迷惑をかけてしまう……!
マルコは、ルーナの怯えた様子と周囲の反応を見て、さらに図に乗った。
「さあ、ルーナ、こっちへ来いよ。俺がまた面倒見てやるからさあ」
再び、汚い手が伸びてくる。ルーナが思わず目を閉じた、その時だった。
「――その娘から、手を離せ」
空気が、凍った。
先程までの市場の喧騒が、嘘のように静まり返る。全ての音が吸い込まれたかのような静寂の中に、地響きのように低く、しかし、その場にいる全ての者の鼓膜を震わせる声が響き渡った。
ルーナが恐る恐る目を開けると、人垣がモーゼの海のように割れ、その中心に、巨大な影が立っていた。ガルヴァン・ホーキンス。いつの間に現れたのか。彼は鎧こそ着ていなかったが、普段の執務服姿ですら、その存在感は他の全てを圧していた。
ガルヴァンの視線は、氷のように冷たく、マルコただ一人に向けられていた。その瞳には、感情というものが一切感じられない。ただ、絶対的な、揺るぎない意志だけが宿っている。
「……ひっ」
マルコは、声にならない悲鳴を上げた。本能的な恐怖が、彼を支配したのだ。虚勢も、打算も、全てが吹き飛んだ。目の前にいるのは、人間ではない。荒ぶる神か、あるいは死そのものか。
「き、貴様……な、なんだ……」
震える声で絞り出すマルコに、ガルヴァンは一歩、また一歩と近づいていく。その歩みは静かだが、一歩ごとにマルコの顔から血の気が引いていくのが分かった。
「……もう一度だけ言う。その、汚れた手を、その娘から、離せ」
声の圧力に耐えきれず、マルコは尻餅をついた。掴んでいた(と本人は思っていたが実際は掴む寸前だった)ルーナの腕から完全に手を離し、後ずさる。
「わ、悪かった! 悪かったから、見逃してくれ!」
見苦しく命乞いをするマルコを、ガルヴァンは一瞥もくれなかった。まるで道端の石ころでも見るように。彼はただ、崩れ落ちそうになっているルーナの方へ向き直った。
そして、その巨大な体をゆっくりとかがめると、先程までの凍てつくような雰囲気とはうってかわって、ひどく心配そうな、不安げな色を瞳に浮かべた。
「……ルーナ」
初めて、彼はルーナの名を呼んだ。その声は、まだ低く硬質ではあったが、先程のマルコに向けたものとは全く違う、不器用ながらも深い気遣いが滲んでいた。
「怪我は……ないか。どこか、痛むところは」
大きな、節くれだった指が、ルーナの肩にそっと触れる。その手は、驚くほど優しかった。けれど、その優しさが、かえってルーナの堪えていた涙の堰を切った。
「う……うう……ガルヴァン、さま……!」
恐怖と安堵と、そして、自分を守るために怒りを露わにしてくれた彼への、言葉にならない感謝と……おそらくは、もっと別の、温かくて切ない感情。それらが一気に込み上げてきて、ルーナは子供のように声を上げて泣き出してしまった。
ガルヴァンは明らかに狼狽した様子で、その大きな手をどうすればいいのか分からないように宙でさまよわせた。周囲の野次馬も、護衛の騎士たちも、ただ呆然と、巨大な騎士団長とその腕の中で泣きじゃくる小さな少女を見つめているだけだった。
市場の喧騒の中で、その一角だけが、まるで時が止まったかのように、奇妙な静寂と、不器用で切ない愛情の気配に満たされていた。