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ガルヴァンからの予期せぬ感謝の言葉。それは、ルーナの心に小さな波紋を広げ、凍っていた警戒心をほんの少しだけ溶かした。依然として彼は巨大で、近寄りがたい空気を纏ってはいるが、以前感じていたような、命の危険すら覚えるほどの恐怖は薄らいでいた。代わりに芽生えたのは、この不可解な人物をもっと知りたいという、戸惑い混じりの好奇心だった。
あの日以来、書斎の観葉植物の世話は、ルーナの日課となった。最初はガルヴァンの不在時だけだったが、彼が戻ってからは、彼のいる前でも世話をするようになった。もちろん、彼が執務に集中している時を見計らって、物音を立てないように細心の注意を払いながら。
ガルヴァンは、ルーナが植物に水をやったり、葉を拭いたりしている間、書類から顔を上げることは稀だった。しかし、ルーナは感じていた。彼の意識の片隅が、確かに自分に向けられていることを。ペンを走らせる音が一瞬止まったり、ページをめくる手が僅かに滞ったりする。その微かな変化が、ルーナには彼の無言の関心のように思えた。
ある朝、植物のそばに、小さなブリキの如雨露が置かれているのに気づいた。以前ルーナが、重い陶器の水差しを両手で苦労して運んでいるのを見かねたのだろうか。ガルヴァンからは何の説明もなかったが、ルーナはその無骨な優しさがくすぐったくて、頬が緩むのを止められなかった。まるで、気難しい巨人が、小さな花のためにそっと雨粒を置いていったかのようだ。植物は、二人の間の奇妙な関係を映すかのように、少しずつ緑の葉を生き生きと茂らせていった。
日中、ガルヴァンが騎士団の執務で不在の時、ルーナは広い邸内を探検するようになった。豪華だが人の気配の少ない廊下を歩き、陽光が降り注ぐサンルームを見つけたり、壁一面に歴史画が飾られたギャラリーに迷い込んだり。そして、一番のお気に入りは、やはり書斎だった。
ガルヴァンの許可を得て(彼は一瞬眉をひそめたが、「……好きにしろ」とだけ言った)、彼女は本棚の一隅から、挿絵の多い植物図鑑や、比較的文字の少ない詩集などを手に取るようになった。暖炉の前に置かれた古い革張りのソファに小さく丸まり、本の世界に没頭する時間は、ルーナにとってささやかな安らぎだった。
時折、ガルヴァンが書斎で執務をしている時間と重なることもあった。そんな時、部屋には奇妙な静寂が流れた。紙をめくる音、ペンが走る音、暖炉で薪がはぜる音、そして、ルーナが息を潜める音。彼女はガルヴァンを盗み見ないように努めたが、それでも視界の端に彼の巨大な影を感じずにはいられなかった。彼が書類を読みながら無意識に眉間の皺を深くする癖や、疲れた時にこめかみを揉む仕草、集中している時の真剣な横顔などを、ルーナは少しずつ記憶していった。
一方のガルヴァンもまた、部屋の隅で小さく丸まっているルーナの存在を強く意識していた。最初は、か細い少女が自分の領域にいることへの違和感と、守らねばならないという義務感が主だった。しかし、次第に、彼女の静かな気配が、このだだっ広く、常に緊張感の漂う邸宅の中で、唯一、心が安らぐ要素になりつつあることに気づき始めていた。彼女がページをめくる微かな音、集中している時の真剣な横顔、時折ふっと漏らす小さなため息。それらが、無機質だった空間に柔らかな色彩を与えているような気がした。だが、その感情をどう扱えばいいのか、彼には全く分からなかった。
ある晩、ルーナはガルヴァンが深夜まで書斎で仕事をしているのに気づいた。何か自分にできることはないだろうか。スラムで病気の母のためによく薬草茶を淹れていたことを思い出し、彼女は侍女にこっそり頼んで、安眠効果のあるカモミールティーを用意してもらった。
お盆に乗せたティーカップを手に、ルーナは緊張しながら書斎の扉をノックした。
「……入れ」
中からくぐもった声が聞こえる。ルーナは深呼吸をして、扉を開けた。
「あの、ガルヴァン様……夜分に申し訳ありません。お疲れかと思いまして……もしよろしければ、お茶を」
ガルヴァンは山積みの書類から顔を上げた。その顔には疲労の色が濃く浮かんでいる。彼はルーナと、彼女が差し出すティーカップを交互に見て、一瞬、虚を突かれたような表情を見せた。
「……茶?」
「はい。カモミールです。少し、お休みになれるかと……」
ガルヴァンはしばらく黙ってカップを見つめていたが、やがて、ごく僅かに頷いた。
「……置いていけ」
ルーナが机の端にカップを置くと、彼はすぐに書類に視線を戻してしまった。けれど、ルーナが部屋を出ようとした時、背後から小さな声が聞こえた。
「……助かる」
それは、感謝の言葉というにはあまりにぶっきらぼうだったが、ルーナの心には温かい雫のように染み込んだ。自分のしたことが、少しは彼の役に立てたのかもしれない。そう思うと、胸の奥がきゅっと甘く痛んだ。
しかし、邸内の全ての人間が、ルーナの存在を好意的に見ているわけではなかった。特に、古くからホーキンス家に仕える侍女頭のマーサは、ルーナに対するガルヴァンの「特別扱い」を快く思っていなかった。ルーナは何度か、彼女や他の使用人たちが自分について囁き合う声を耳にしていた。
「どこから来たかも分からぬ娘なのに、旦那様は甘すぎる」
「きっと何か企んでいるに違いないわ」
「身の程を弁えぬ……」
そうした言葉は、鋭い棘のようにルーナの心を刺した。自分がこの場所にいることの場違いさを、改めて思い知らされる。少しずつ感じ始めていた安らぎや、ガルヴァンへの淡い好意すら、身分不相応な思い上がりなのではないかと思えてくる。俯き、再び自分の殻に閉じこもりそうになった、そんな時だった。
ある日の午後、ルーナが中庭で花の世話をしていると、通りかかったマーサが、聞こえよがしに他の侍女に話しかけるのが聞こえた。
「全く、旦那様も人が良すぎる。あんな得体の知れない娘をいつまで置かれるおつもりなのかしら。ホーキンス家の名を汚しかねませんわ」
ルーナは顔から血の気が引くのを感じた。手の中の土が、冷たく重く感じられる。反論する言葉も、その場を立ち去る勇気も出ない。ただ、俯いて唇を噛みしめていると、背後から地響きのような足音が近づいてきた。ガルヴァンだった。
彼はマーサたちの前に仁王立ちになると、凍てつくような冷たい声で言った。
「――マーサ。今の言葉、もう一度言ってみろ」
その声には、普段の彼からは想像もつかないほどの静かな、しかし底知れない怒りが込められていた。マーサは蒼白になり、震える声で弁解しようとした。
「だ、旦那様、これはその……」
「俺の決定に異を唱えるか。そして、俺が保護すると決めた者を、侮辱するか」
「滅相もございません!」
「ならば、二度とそのような口を利くな。……下がれ」
マーサたちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。後に残されたのは、立ち尽くすルーナと、苦虫を噛み潰したような顔のガルヴァン。彼は中庭にそぐわない厳しい表情で、硬い声で言った。
「……気にするな。何かあれば、俺に言え」
それだけ言うと、彼は足早に建物の中へと戻っていった。
ルーナは、その場にへたり込みそうになるのを、必死で堪えた。心臓が早鐘のように鳴っている。ガルヴァンの怒りは恐ろしかった。けれど、それ以上に、彼が自分のために怒ってくれたこと、自分を守ろうとしてくれたことが、ルーナの胸を強く打った。
(私のために……)
彼は、ただの気まぐれや同情で自分を側に置いているのではないのかもしれない。理由は分からない。けれど、彼なりに、本気で自分を「守ろう」としてくれている。その事実が、冷え切っていたルーナの心に、小さな、しかし確かな火を灯した。
この人は、怖いだけじゃない。不器用で、誤解されやすいけれど、本当はとても……。
そこまで考えて、ルーナは慌てて思考を打ち消した。これ以上、期待してはいけない。身分が違う。住む世界が違うのだから。
それでも、心に灯った小さな火は、もう簡単には消えそうになかった。それは、恐怖とは違う種類のドキドキとした鼓動となって、ルーナの胸を温め始めていた。そして、その温かさは、彼女の中に新しい欲求を芽生えさせていた。
(外の空気を、吸いたい……。ううん、それだけじゃなくて……)
スラムで採っていた、特別な薬草。母が教えてくれた、心を落ち着かせる香りを持つ、小さな青い花。もし、あの花があれば、この高鳴る気持ちも、少しは整理できるかもしれない。そして、もし手に入ったら、今度こそ、ちゃんとしたお礼として、彼にお茶を淹れてあげたい。
そんなささやかな願いが、ルーナの中で形を結び始めていた。問題は、どうやってあの恐ろしくも不器用な騎士団長に、外出の許可を取り付けるか、だった。