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ルーナが意識を取り戻した時、最初に感じたのは、生まれて初めて体験する柔らかな羽根布団の感触だった。次に、薬草とは違う、清潔で微かに甘いリネンの香り。恐る恐る目を開けると、視界に飛び込んできたのは、見慣れた薄汚い天井ではなく、繊細な彫刻が施された豪奢な天蓋だった。自分の体が、上質な寝間着に包まれていることにも気づく。


(……どこ? ここは……?)


状況が飲み込めず混乱していると、傍らに控えていた穏やかそうな初老の男性が、安堵の息を漏らして優しく声をかけてきた。

「おお、お目覚めですな。気分はいかがですかな、お嬢さん」

彼は医師だと名乗り、ルーナが衰弱して倒れていたこと、この屋敷の主である騎士団長に保護されたことを簡潔に説明した。数日間の安静と栄養が必要だ、とも。


騎士団長――その言葉に、ルーナの心臓は氷水に浸されたように冷たくなった。ガルヴァン・ホーキンス。戦場では敵に「沈黙の熊」と恐れられ、王都ではその厳格さと近寄りがたい雰囲気で知られる人物。スラムの子供たちの間ですら、その名は畏怖の対象だった。そんな雲の上の、恐ろしい人が、なぜ自分のような存在を?


(私、どうなるんだろう……売られるの? それとも、何か悪いことに……)


恐怖が黒い靄のように胸に広がり、か弱い身体が再び震えだした。医師は心配そうに眉を寄せたが、ルーナはただシーツを強く握りしめることしかできなかった。


数日が過ぎ、ルーナの熱は引き、少しずつ体力が戻ってきた。しかし、心の回復は身体に追いつかない。豪華すぎる部屋、常に控えている無口な侍女、そして何より、この屋敷の主の存在が、見えない檻のように彼女を苛んでいた。


そして、その檻の主が、初めて彼女の部屋を訪れた。

扉が重々しく開き、ガルヴァン・ホーキンスが入ってくる。身長は2メートル近くあり、分厚い筋肉に覆われた体躯は、部屋の調度品すら小さく見せる。陽の光を背に受けて立つ姿は、逆光で表情がよく見えず、ただ巨大な影のように感じられた。顔に刻まれた古傷が、彼の生きてきた世界の厳しさを物語っている。


「……体は、どうだ」


地を這うような低い声が、静かな部屋に響く。ルーナは喉が張り付いたように声が出せず、ただ小さく頷くのが精一杯だった。恐怖で指先が冷たくなっていく。


「そうか」


ガルヴァンはそれだけ言うと、侍女が運んできた食事の乗ったワゴンを顎で示した。銀の食器に盛られたのは、見たこともないような豪勢な料理だった。こんがり焼かれた鶏の丸焼き、濃厚そうなシチュー、山盛りのパンと果物……。スラムで硬いパンと薄いスープで凌いできたルーナにとっては、眩暈がするような光景だ。


「栄養をつけろ。……全部、食え」


有無を言わせぬ命令口調。ルーナは恐る恐るフォークを手に取ったが、緊張と恐怖で食欲など湧くはずもなかった。数口、鶏肉を口にしただけで、胃が受け付けない。しかし、正面に立つ巨大な騎士団長の無言の圧力が、「残す」という選択肢を奪う。


(食べないと……怒られる……)


必死で食べ物を口に運ぶが、味など全く分からない。半分も食べ進めないうちに、吐き気に襲われ、顔面が蒼白になる。その様子を見て、ガルヴァンは眉間に深い皺を刻んだ。


「……足りんか」

「えっ?」

「無理にでも食え。回復が遅れる」


彼の言葉は、ルーナの予想とは全く違った。足りない? こんなに大量なのに? 彼は自分の基準でしか物事を測れないのかもしれない。あるいは、自分の弱々しい姿が、彼を苛立たせているのだろうか。ルーナはますます萎縮し、俯いてしまった。結局、その日の食事のほとんどは、彼女が眠った後に下げられていった。


ガルヴァンの「世話」は、食事だけではなかった。翌日には、大きな衣装箱がいくつも部屋に運び込まれた。中には、シルクやベルベットでできた豪奢なドレス、繊細なレースの施された下着、柔らかな革で作られた室内履きなどが、ぎっしりと詰まっていた。


「これを着ろ。……その、薄汚れた服は捨てろ」


彼が指したのは、ルーナが着ていた唯一の麻のワンピースだった。確かに汚れてはいるが、亡くなった母親が作ってくれた、たった一つの形見でもあった。ルーナは思わず、その服を抱きしめるように身を寄せた。


「あ、あの……これは……」

「……汚い」


ガルヴァンの容赦ない言葉に、ルーナの目に涙が滲む。しかし、彼に逆らうことなどできるはずもない。侍女に促されるまま、箱の中から一番地味に見えた深い緑色のドレスを選び、着替える。サイズは奇跡的に合っていたが、上質な生地は重く、肌触りは滑らかすぎて落ち着かない。鏡に映った自分は、まるで借り物の衣装を着せられた人形のようで、強い違和感を覚えた。


ガルヴァンはその姿を一瞥し、何かを納得したように一つ頷いた。

(……この人は、私がどう感じているかなんて、少しも考えていないんだ)

ルーナは、彼が自分を物か何かのように扱っているのだと感じ、胸の奥が冷たく痛んだ。


彼の過保護は、行動の制限にも及んだ。

「体力が戻るまで、部屋から出るな」

「庭に出たい? ……ならん。危険だ」

「どうしてもと言うなら、護衛をつける」


部屋に閉じ込められ、窓から見える空だけが自由だった。時折、ガルヴァンが様子を見に部屋を訪れるが、会話らしい会話はない。「……眠っているか」「……何か、変わったことは」「……しっかり休め」。短い言葉と、値踏みするような視線(ルーナにはそう感じられた)を残して去っていく。彼の足音が遠ざかると、ルーナはいつも安堵の息を吐いた。


(早く元気になって、ここを出ていかないと……)


その思いだけが、ルーナの支えだった。しかし、体力は少しずつ回復しているのに、ガルヴァンが彼女を解放する気配は一向にない。まるで、美しい鳥籠に閉じ込められた小鳥だ。餌も水も不自由なく与えられる。けれど、そこには自由がない。


そんな日々が二週間ほど続いた頃、ルーナの中に小さな変化が生まれ始めていた。きっかけは、ガルヴァンの「不在」だった。彼が数日間、王命で地方へ視察に行くことになったのだ。


ガルヴァンが出立した後の邸宅は、驚くほど静かだった。あの威圧的な存在がないだけで、空気がこんなにも軽いものかとルーナは思った。侍女たちの態度も、心なしか柔らかくなった気がする。


この機を逃すまいと、ルーナは侍女に頼み込み、邸宅の中を少しだけ案内してもらった。大理石の廊下、磨き上げられた調度品、壁にかけられた勇壮な絵画……どれもこれも、彼女が今まで生きてきた世界とはかけ離れている。


そして、案内された書斎で、彼女はふと足を止めた。ガルヴァンがいつもいた場所。重厚な執務机の上は、意外なほど整然と片付けられている。壁一面の本棚には、難しそうな書物がぎっしりと並んでいる。隅に置かれた観葉植物は、少し葉の色が悪くなっていた。


(この人も、本を読んだりするんだ……)


当たり前のことなのに、ルーナにはそれが新鮮な発見のように感じられた。いつも鎧か硬い軍服姿しか見ていなかったせいか、彼がこんな風に静かに過ごす時間があることが、想像できなかったのだ。


そして、ふと気づく。あれほど恐ろしかったガルヴァンの存在が、今は「不在」として意識されていることに。毎日顔を合わせるストレスはあったが、同時に、彼の存在は良くも悪くも、この屋敷でのルーナの日常の一部になりつつあったのかもしれない。


(……少しだけ、寂しい?)


そんな感情が掠めたことに、ルーナ自身が驚いた。まさか。あの怖い人を? 混乱しながらも、彼女は書斎の隅の観葉植物に目を向けた。これなら、今の自分にも何かできるかもしれない。


ガルヴァンが不在の間、ルーナは侍女に断って、毎日その植物の世話をした。古い土を少し入れ替え、水やりの量を調整し、傷んだ葉を取り除く。それは、スラムで母に教わったささやかな知識だった。


数日後、ガルヴァンが帰還した。以前と変わらぬ無愛想さと威圧感を纏って。ルーナは再び身を固くしたが、彼は書斎に入るなり、真っ直ぐに観葉植物へと歩み寄った。そして、わずかに元気を取り戻した緑の葉を、大きな指でそっと、本当にそっと撫でた。


「……お前が、やったのか」


背後からかけられた声に、ルーナの肩が跳ねる。

「は、はい……勝手なことをして、申し訳ありません……」

「……いや」


ガルヴァンは短く否定すると、今度はルーナの方に向き直った。その表情は、やはり読みにくい。けれど、以前のような冷たさだけではない、何か複雑な色が混じっているように見えた。


「……礼を言う」


それは、ルーナが彼から初めて聞いた、感謝の言葉だった。驚いて顔を上げると、彼は少しだけ困ったような、照れたような、そんな奇妙な表情で視線を逸らした。


その瞬間、ルーナは感じた。この巨大で不器用な騎士団長の中にも、自分と同じような感情があるのかもしれない、と。恐怖の対象でしかなかったガルヴァン・ホーキンスの輪郭が、ほんの少しだけ、人間らしい温かみを帯びて見えた気がした。檻の格子が、ほんの少しだけ、細くなったような。


まだ警戒心は消えない。戸惑いも大きい。けれど、ルーナの心の中に、恐怖とは違う、小さな好奇心の芽が、確かに顔を出し始めていた。この人は一体、どんな人なのだろう? なぜ、自分を助けたのだろう? そして、なぜ、あんなにも不器用に、自分を「大切」にしようとするのだろうか?


その答えを、ルーナはまだ知らない。

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