表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

1

全部で5話です。

王都を濡らす冷たい雨は、夕暮れと共に勢いを増していた。貧民街スラムの泥濘んだ路地裏では、降りしきる雨が、あらゆる音と希望を洗い流していくかのようだった。ルーナは、粗末な麻布の肩掛けをきつく引き寄せ、小さく身を震わせた。手にした籠の中には、朝露に濡れて美しかったはずの花々が、今は雨に打たれて力なく項垂れている。今日、売れたのはたったの二輪。銅貨数枚にも満たない稼ぎだった。


(今日も、だめだった……)


空腹と、じわじわと身体を蝕む熱っぽさに、ルーナの意識は朦朧とし始めていた。ここ数日、まともな食事にありつけていない。熱があるのは明らかだったが、薬を買う金はおろか、今夜の寝床を確保する当てもない。雨宿りができる軒先を探して、ふらつく足取りで路地を進む。


その時、背後から忌まわしい声がかかった。

「よう、ルーナ。しょげたツラしてんなあ。今日もサッパリだったか?」

振り返ると、痩せぎすで目の落ち窪んだ男、マルコが、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべて立っていた。彼は、このスラムでルーナのような孤児や弱者を食い物にして生きている男だった。ルーナの両親が病で亡くなってから、マルコは何かと理由をつけては彼女に付きまとい、稼ぎのほとんどを巻き上げてきた。逆らえば、容赦ない暴力が待っていることを、ルーナは嫌というほど知っていた。


「マ、マルコ……」

「その花か? しけたもんばっかだな。まあいいや、今日の“ショバ代”、きっちり貰うぜ」

マルコは汚れた手を伸ばし、ルーナの籠を乱暴にまさぐった。売り物にならない萎れた花が、泥水の中に散らばる。

「……ごめんなさい、今日は、これだけしか……」

ルーナが震える手で差し出したなけなしの銅貨を、マルコは舌打ちしながらひったくった。

「ちっ、これっぽっちかよ! 使えねえなあ、お前は!」

彼はルーナの痩せた肩を突き飛ばした。ルーナは壁に背中を打ち付け、小さく呻く。

「明日はもっと稼いでこいよ。じゃねえと、どうなるか分かってんだろうな?」

マルコは脅すように言い捨てると、雨の中へと消えていった。


残されたルーナは、その場にへたり込んだ。悔しさと惨めさで涙が溢れそうになるのを、ぐっと堪える。寒さと空腹、そして熱で、もう指一本動かす気力も残っていない。降りしきる雨が、容赦なく彼女の体温を奪っていく。

(……もう、だめ……)

意識が急速に遠のいていく。壁にもたれかかったまま、ルーナは静かに目を閉じた。泥水に散らばった花びらが、まるで彼女自身の運命を象徴しているかのようだった。


同じ頃、王城の一室では、王国騎士団長ガルヴァン・ホーキンスが、うんざりした表情で国王からの長々しい訓示を聞き流していた。終わりの見えない政務、貴族たちの足の引っ張り合い、そして、いつまた火蓋が切られるか分からない隣国との緊張関係。彼の肩には、常に王国全体の重圧がのしかかっている。


(……くだらん)


ようやく謁見が終わり、重い足取りで王城を後にする。外は、彼の内心を映したかのように、冷たい雨が降りしきっていた。普段なら、立派な四輪馬車で真っ直ぐに自邸へ戻るところだが、今日は何故かそんな気分になれなかった。貴族たちが住まう壮麗な大通りを避け、彼は供も連れずに、近道となる薄暗い裏道を選んだ。そこが、王都の繁栄から取り残されたスラム街へと繋がっていることを知りながら。


雨に濡れた石畳は滑りやすく、道の両脇には今にも崩れそうな家々が密集している。鼻をつくのは、汚水と貧困の匂い。時折すれ違う人々は、皆、生気を失ったような暗い目をしている。ガルヴァンの立派な身なりを見て、慌てて道を譲る者、物欲しそうな視線を向ける者、あるいは、ただ無関心に通り過ぎる者。


(……これが、俺が守るべき王国の現実か)


皮肉な思いが胸をよぎる。戦場では、国のため、民のためと信じて剣を振るってきた。しかし、ひとたび平和(仮初めのものだとしても)が訪れれば、この有り様だ。富は一部の者に集中し、多くの民は日々の糧にも事欠く。自分の力など、所詮は大きな流れの中では無力なのではないか。そんな虚無感が、彼の心を蝕んでいた。


重い足取りで、慣れぬスラムの路地を進む。早くこの陰鬱な場所を抜け、自邸の静寂の中に逃げ込みたい。そう思った矢先、彼の目に、路地の奥に打ち捨てられたように横たわる、小さな人影が映った。


(……またか)


酔い潰れた男か、あるいは物乞いだろう。日常茶飯事の光景だ。関わるだけ時間の無駄だ。そう思い、通り過ぎようとした。しかし、何かが彼の足を止めさせた。


雨に打たれるままのその姿は、あまりにも小さく、か弱い。まるで、嵐の中で枝から落ちた小鳥のようだ。みすぼらしい麻布をまとっているが、泥に汚れていなければ、それは粗末ながらも丁寧に繕われた服なのかもしれない。そして、濡れた前髪の間から覗く顔は、苦悶に歪んではいるが、まだ幼さを残している。少女だ。


ガルヴァンは眉根を寄せた。面倒事はごめんだ。だが、このまま放置すれば、この少女は間違いなく今夜のうちに命を落とすだろう。雨と寒さ、そしておそらくは飢えと病によって。それは、あまりにもあっけない、無慈悲な結末だ。


(……なぜ、俺が気に留める必要がある?)


自問する。自分は騎士団長であり、個人の救済まで責任を負う立場ではない。それに、この少女がどんな素性の者かも分からない。もしかしたら、何かの罠かもしれない。彼の立場を利用しようとする輩は後を絶たないのだから。


しかし、少女の、死んだように閉じられた瞼、わずかに開いた唇から漏れるか細い息、そして何より、その存在の圧倒的なまでの儚さが、ガルヴァンの硬い心を揺さぶった。まるで、熟練の職人が息を吹き込んで作り上げた、極めて繊細な硝子細工。少し力を加えただけで、粉々に砕け散ってしまいそうな危うさ。


(……このまま見過ごせば、俺は生涯、この雨の日の光景を忘れないだろう)


それは、騎士としての義務感というよりは、もっと個人的な、彼自身も理解しがたい衝動だった。あるいは、長年戦場と政争の中で殺伐としてきた心が、不意に見出したあまりにも純粋な“弱さ”に、無意識に手を伸ばそうとしたのかもしれない。あるいは、自身の抱える深い孤独が、同じように打ち捨てられた存在に、共鳴したのかもしれない。


理由は定かではなかった。だが、気づいた時には、ガルヴァンは行動していた。自身の分厚く、高価な軍用外套を脱ぐと、それで少女の小さな体を、壊れ物を扱うようにそっと包み込んだ。そして、驚くほどの軽さに内心で眉を顰めながら、その亡骸のような体を確りと抱き上げた。


温もりを失いかけた小さな身体が、彼の腕の中で微かに震えた気がした。

(……まだ、間に合うか)


ガルヴァンは、踵を返し、来た道を引き返し始めた。今度は、迷いなく。雨は依然として強く降り注いでいたが、彼の足取りは、先程までの重苦しさが嘘のように、確かなものに変わっていた。腕の中の小さな命が、彼に新たな目的を与えたかのように。


自邸の重厚な扉が開き、ずぶ濡れの主人と、その腕に抱かれた見知らぬ少女の姿が現れた時、出迎えた執事のアルフレッドは、長年ガルヴァンに仕えてきた彼ですら、一瞬、言葉を失った。他の使用人たちは、息を呑み、ただ呆然と立ち尽くしている。


「旦那様……!? そ、その方は……?」

アルフレッドがようやく絞り出した声に、ガルヴァンは一瞥もくれずに応じた。

「……医師を呼べ。すぐにだ」

その声は低く、有無を言わせぬ響きを持っていた。

「それと、客間に湯の用意を。……あとは、分かるな」


それだけを矢継ぎ早に命じると、ガルヴァンは腕の中の少女を抱いたまま、濡れた足跡を大理石の床に残しながら、躊躇なく階段を上がっていった。後に残された使用人たちは、主人の前代未聞の行動に顔を見合わせ、声にならない驚きと困惑を交わすしかなかった。


雨に打たれる薄汚れたスラムの少女が、一瞬にして、王都でも屈指の権力者が住まう壮麗な邸宅の、豪奢な客室へと運び込まれた。暖炉には火が入れられ、部屋は暖かな光で満たされている。ガルヴァンは、細心の注意を払って、少女を柔らかなベッドの上に横たえた。


ぐったりとしたまま、意識のない少女の顔を、彼は改めて見つめた。泥と雨で汚れてはいるが、整った顔立ちをしている。今は苦痛に歪んでいるが、もし笑うことがあれば、きっと可憐なのだろう。


(……俺は、一体、何をしているんだ)


自嘲にも似た思いが再び頭をもたげる。だが、もう後戻りはできない。この小さな硝子細工を、彼は拾い上げてしまったのだから。


医師が到着するまでの間、ガルヴァンはベッドの傍らに立ち、ただ静かに、少女の浅い呼吸を見守り続けていた。窓の外では、雨がまだ降り続いていたが、部屋の中は、嵐の中の灯台のように、静かで、温かかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ