砕かれた平和【上】➀
薄明かりの朝日がカーテンの隙間から忍び込み、部屋の空気をほんのりと照らす。真冬の余韻を残す冷気を裂くように、その光はベッドの上の住人の顔を真っ直ぐに射抜いた。
「……ん……」
うっすらと目を開け、彼は微かに呻くと、もそもそと毛布の奥へと潜り込んだ。ぬくもりに包まれたその繭の中は、夢の名残を追いかけるにはあまりにも心地よかった。まだ、目覚めたくない。
――だが、その静寂は。
「おはよ♡ おはよ♡ おはよおおお~~!? おはよっ♡ お♡は♡よ♡よ♡よ♡よ♡よおおおお~~~~~~~!!お☆は☆よ♡おはよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」
爆音。高すぎる声。ねっとりとした語尾に、急加速する壊れた笑い声。耳が溶けるような破壊力で、鼓膜を無差別に襲う。
Vチューバー好きなら一発でわかる、あの“推し”の断末魔系切り抜きボイス。朝の目覚ましには致死量だ。
「……殺す気かよ……」
毛布の奥から無言で手が伸び、スマホを指先ひとつで止める。熟練の手つきだ。音が消え、束の間の静けさが戻る。
だが、それも長くは続かなかった。
「タツキー!起きなさーい!遅刻するわよー!」
階下から響く、容赦のない母の声。現実が、二度寝の夢を断ち切る。
「……うぅ……」
森田龍己は再び呻き、渋々と顔から毛布を引き剥がした。
モリタはゆっくりと上体を起こし、見慣れた部屋をぼんやりと見渡した。変わらない四つの壁。その全てに、音もなく沈んだ思い出が染みついている。
ベッドの足元には、本棚がそびえ立っていた。詰め込まれた小説やマンガは、新旧の名作からライトノベル、自叙伝まで、ジャンルの壁を越えて所狭しと肩をぶつけ合っている。
隣のワードローブは、年季の入った傷があちこちに残る。開けっぱなしの扉には、ブレザーが片袖だけ引っかかっていて、昨夜の慌ただしさをまだ引きずっているように、わずかに揺れていた。
ベッドの脇にある勉強机は、いつものように静かに雑然としていた。壁には、お気に入りのアニメのポスターが貼られており、長年の存在感を物語るように、四隅がわずかに色あせていた。
机の上には、昨夜のまま置かれていた一冊の本——ジョセフ・コンラッドの『闇の奥』。ページを開いたまま伏せられていて、ちょうど思考の途中で止まったようだった。しおりは、あと少しだけで届きそうな距離にある。
彼は大きくあくびをしながら体を伸ばし、頭が現実へと引き戻されていくのを感じた。
「……顔、洗わなきゃな」
そう呟いて、机の端に置いてあったスマホを手に取る。サイドボタンを押すと、空中に淡いホログラムがふわりと浮かび上がった。
映し出されたのは、一枚の写真だった。クリスマスの夜。彼に寄りかかるドラグーンの少女——カティアの姿がそこにあった。
エメラルド色の竜瞳が、無垢な光をたたえてこちらを見つめている。彼女の笑顔は、背景の淡いイルミネーションを凌駕するほど眩しく、胸の奥をじんわりと焼き付けるほどに鮮やかだった。
その隣で、モリタはどこか照れくさそうに笑っていた。幸せそうで……けれど、どこか現実感がなく、まるで夢の中にいるかのような——そんな笑顔だった。
「おはよう、カティア……」
まるで目の前にいるかのように、優しく、微笑むように呟く。言葉の隅に、少しだけ名残惜しさがにじんでいた。
ホログラムの隅へ視線を移し、ゆっくりと日付と時刻を確認する。
月曜、2140年1月18日。
アーケイン・フロンティア戦争が始まって、もう二ヶ月。
階下から微かにテレビの音が響いてくる。壁を通して聞こえるその雑音が、残った眠気を切り裂くように染み込んできた。モリタはそのまま朝のルーティンへと流れるように身を任せた。
シャワーは手短だったが、十分に目は覚めた。冷たい水が、頭の奥にこびりついていた眠気を一気に洗い流してくれる。髪から水を滴らせたまま部屋へ戻り、タオルでざっくりと頭を拭きながら、彼はワードローブの前に立った。
中身を見て、思わずしかめっ面になる。昨夜、自分でぶちまけたカオスが広がっていた。几帳面な母親の整理整頓とは真逆の風景。
その中から、皺ひとつないシャツとスラックスを引っ張り出し、無言のまま慣れた手つきで身支度を始める。指先は、ボタンの位置を正確に辿るように動いていく。
扉にかけっぱなしだったブレザーが目に入った。先週の地獄を思い出す。あの悪夢のような一週間、共通試験の結果が未だ頭の片隅にこびりついている——正確には、試験直後にホロタブに表示された予測スコア。
87%。
『……もう、終わったことだろ』
ネクタイをほんの少しだけ丁寧に締めながら、ため息混じりに思う。指先に力が入りすぎるのを感じつつも、口元には微かに笑みが浮かんだ。
『カティアは、どれくらい取ったかな』
机の方へ向き直る。週末の名残が、そのまま散乱していた。勉強ノートの束、慶応連邦学院のパンフレット、そして——カシンラ先生に返すと約束した本。
『……ああ、これもまだ終わってなかったな』
表紙を指で撫でながら、顔をしかめる。
『週末ずっと借りっぱなしだったら、また怒られるかも』
読むペース自体は悪くなかった。内容も興味深くて、確かに引き込まれる。しかし、この短期間で読み切るのは、どう考えても無理があった。やることが山積みの中では、なおさらだ。
今や、その本は机の上で静かに睨み返してくる。終わらせろ、と無言で迫ってくるようだった。
『あと数週間……それだけ我慢すれば、終わる』
散らばったプリント類をまとめながら、モリタはそう心の中で繰り返した。
階段を下りると、テレビの音がはっきりと耳に届くようになってきた。ニュースキャスターの声が、まるで空気そのもののように家中に響いていた。
ルミナラⅡの情勢、そしてアーケイン・フロンティア戦争。どのチャンネルに変えても、報道はそれ一色だった。絶え間なく、逃げ場もなく、常にどこかで流れている。今や、日常のBGMと化していた。
「……ルミナラⅡへの侵攻から、まもなく二ヶ月。エリシア聖帝国による開戦当初、連邦側は自信満々だったものの、今やその見通しには陰りが見え始めています。テラン司令部は、連邦の技術的優位性によって迅速な勝利が可能だと保証していましたが、年内に決着すると予測されていたこの戦役は、いまや泥沼の膠着状態に陥っており、終わりの兆しすら見えていません──」
「テクノロジー頼みで勝てると思ってたか。バカの極みだな」
その冷笑は、テレビの音声を鋭く裂いて響いた。モリタの倍は生きている男の声。皮肉と冷たさに満ちた吐き捨てだった。
「兵隊になりたいとか言い出すのは、脳なしのドローンか、社会のゴミくらいだろ」
その一言は、朝の冷気よりも鋭く胸を突いた。
モリタはリビングの引き戸の前で足を止めた。いつもの席に座る男が、片手にホロタブ、もう片手にコーヒーカップを持っている。見慣れた光景だ。もう何度も、何度も、聞かされた言葉だった。
「おはようございます、お父さん」
モリタは静かにそう言って中へ入り、テーブルの席についた。声は丁寧に整えられ、感情を一切にじませなかった。
父は視線を上げることなく、ぼそりと「……おはよう」と返した。声は小さく、どこか上の空だった。テレビとホロタブのグラフに完全に意識を向けている。コーヒーを一口含むと、ホログラムの光が眼鏡のレンズに反射し、その表情を覆い隠した——ただし、顔に刻まれた疲労の影までは隠せなかった。
「お母さん」
モリタが振り返ると、母はカウンターで朝食を並べていた。彼に気づくと、小さく、疲れが滲みつつも確かな微笑みを返してくれる。ミルクの入ったグラスを手渡し、また無言でキッチンの作業に戻った。
モリタも軽く頷いて応えたが、視線はすぐに母の肩越しへと抜け、テレビ画面へと向かった。
報道は続いていた。映像が切り替わる。ノイズ交じりの戦闘映像。爆撃で崩れかけた建物の中、連邦の地上部隊が見えない敵と激しく銃火を交えている。
「奴ら、いきなり出てきたんだよ……」
泥と血で汚れた装備を身にまとい、インタビューに応じた兵士が声を絞り出す。制服は破れ、目の奥には眠れぬ夜の連続が刻まれていた。
「最初は、レギュラー軍と魔導士の部隊だけだった。前線は押さえてたんだ。だけど、次の瞬間には……オーガにゴブリン、獣人に、中世の騎士みたいな連中が横から襲いかかってきた! あの側面はクリアしたはずだったのに!」
父はホロタブのスクロールを止めずに、低く乾いた笑いを漏らす。
「団結だの進歩だの……偉そうな理屈ばっかり並べて、結局このザマか。アニメの魔物相手に押される連邦。笑わせるなよ、まったく」
モリタは一呼吸置き、淡々とした口調で返した。
「戦争なんだよ。別に負けてない。前線は持ちこたえてる」
「“持ちこたえてる”?はっ、よく言うよ」
父はホロタブをテーブルの上に叩きつけるように置いた。グラフが一瞬明滅し、消えていく。
「そんな戯言、本気で信じてるのか?“劣等種”相手に防衛戦で精一杯?二ヶ月も茶番を続けた挙げ句がこれかよ。“終わりの見えない戦争”だと?その間、俺たちはどうしてる?外出制限は強まる一方、生活物資はどんどん配給制に——それでいて“公益のため”だとさ。バカバカしい」
父はテレビを無造作に指差した。
「どうせあのトリフェクタの連中は困っちゃいないんだろ。“団結”とか綺麗事ばかり並べて、好き勝手やってるに決まってる」
「気休めになるかわかりませんけど、配給の影響はあの人たちにも出てますよ」
モリタは表情を変えず、淡々と返した。
「うちの学校の先生や、友達の親御さんでトリフェクタに所属してる人もいますけど、みんな同じように愚痴ってます。特別扱いってわけでもないです」
「……そうかよ。そりゃよかったな」
父は鼻で笑い、片手をひらひらと振った。
「少しは“庶民の苦労”がわかったか。だがな、それで問題が消えるわけじゃない」
モリタはちらりと視線を向ける。もう次に何が来るのか、分かっていた。
「連邦ってやつは、責任ってものがない。誰も何にも、責任を取らない。俺の親父の時代も、そのまた親父の時代も、みんなそうだった。不満があるならロビー活動しろ?金とコネで政治家を動かせ?……そうやって、なんとか“変化”を起こしてきたんだよ」
「……で? それで何を得たんですか?」
その言葉は、自分でも抑えきれずに出た。ミルクのグラスをそっとテーブルに置き、モリタは初めて、父の目を正面から見据えた。
「腐敗ですか? 戦争の連鎖ですか? 金のある奴の声しか届かない仕組みと、それ以外は見捨てられる社会?」
「“機能してた”んだよ」
父の声が一段高くなる。
「あのシステムに何を言おうが、少なくとも理屈は通ってた。金が世の中を動かす。それが現実だ、タツキ。昔から変わらん。お前の連邦なんざ、ただの幻想だ。ロビー活動も競争もない。選挙だって“市民”だけのもの。結局、官僚が全部決めて、俺たちみたいな人間は——」
皮肉げな笑みを浮かべ、自分を指差す。
「——蚊帳の外さ」
モリタは鼻から鋭く息を吐いた。拳が無意識のうちに握られていた。
「“蚊帳の外”?連邦は、あんたが懐かしがってるその世界を止めるために作られたんだ。限られた少数が全てを握って、他は残飯で生きろなんて時代に戻らないために」
父の口元に、苦みを含んだ笑みが浮かぶ。
「今その“少数”ってのは、軍と科学者、あと“教育者”どもってわけか。なあ、タツキ。結局、何が違うっていうんだ?」
モリタはその場に座ったまま、なんとか感情を抑え込んでいた。
「違うのは、“機能してる”ってことだ。不完全でも、ちゃんと回ってる。みんなが文句を言える。抗議もできる。自由に発言しても、拘束されたり“消される”ことはない」
声を押し殺すように言い切る。
「そしてなにより——連邦はこれまで、膨大な星系圏を抱えながら、一度たりともクーデターも内乱も起こしてない。建国以来ずっと。そんな政府が他にどれだけある?」
「はいはい、もうその辺にしときましょ」
キッチンで黙々と動いていた母がようやく口を開き、二人の間に入ってくる。手には朝食の皿——トースト、目玉焼き、そしてベーコン。モリタの前にそっと置き、そのまま父の前にももう一皿。
「タツキ、ごはん食べてから行きなさい」
モリタは母に目を向け、小さく頷いた。
「ありがとう、お母さん」
重たい空気が、テーブルの上に静かに張り詰めていた。テレビの音声だけが部屋に響き、ニュースキャスターの平坦な口調が、父と息子の間に生まれた沈黙を埋める。
やがて、番組は話題を切り替える。連邦の紋章がフェードアウトし、新たな見出しが画面に現れた。
「《ÄNGSÄLVOR PHARMACEUTICALS》——エリシア聖帝国に登録されたこの企業は、“エルデュー”をはじめとする魔力強化型医療製品の主要サプライヤーとして知られていますが、現在、連邦内務保安局による調査対象となっています。関係当局は、同社がエリシアの影響力拡大の隠れ蓑として機能している可能性を示唆しており、連邦圏内での情報収集や社会的不安の誘発、さらには破壊工作への懸念が高まっています。これに対し、ÄNGSÄLVOR社は“根拠のない中傷”“戦時下特有の被害妄想”であるとして、全ての疑惑を否定しています──」
「出たな」
父は鼻を鳴らし、椅子の背にもたれかかる。
「また帝国系企業か。連邦が“門を開いた”せいでこれだ。エクスチェンジ・プログラムなんて最初から間違いだったんだよ。あいつらを受け入れて、市場を拡大させて……今さら裏で帝国とつながってる?そりゃそうだろ。魔力だのなんだの付け足して、うちの製品より売れてる時点で、もう勝負になってねえんだよ」
モリタは無言のまま、眉をひそめた。返す言葉はなかった。
ただ、グラスを手に取り、ミルクをひと口ゆっくりと飲み込む。
テレビの音声は止まることなく、無機質に流れ続けていた。
「で、連邦がこれからどうすると思う?」
父の声には、怒気が滲んでいた。
「潰すわけがない。違うな、“連邦管理化”だ。ÄNGSÄLVORの資産を接収して、名前だけ変えて、“我々のもの”にする。『監督強化』とか、そんな建前を掲げるんだよ。結局は昔、俺たちがやってた敵対的買収と同じさ。ただ違うのは——俺たちはそれを“正直に”やってたってことだ。連邦は全部に『公益のため』ってラベルを貼って、それで正義面だ。結局、売ってるものは同じ。パッケージが変わっただけで、中身は変わらない」
モリタは静かにグラスを置いた。軽く「カチン」と音が響く。
「へえ、じゃあ金のある奴が全部を牛耳ってた時代は、うまくいってたってことですか」
その言葉に、父は鋭く睨み返す。
「またその理想論か。いい加減にしろよ、タツキ。連邦が“平等”を叶えてくれる救世主だとでも思ってるのか?冗談じゃねぇ。ただの別のヒエラルキーだ。今は金の代わりに、軍服と“教育”が権力を握ってるだけ。俺たちの時代は、どこに力があるか、はっきりしてたんだ」
「過去に縛られてないだけ、マシですよ」
モリタは淡々と返し、トーストと卵を一口食べた。
「連邦は完璧じゃない。でも、あんたらの時代みたいに人を搾取するだけのシステムじゃない」
父は鼻で笑う。
「ほんとにご立派だな、連邦擁護。いつだって連邦の味方、そして——」
一瞬、言葉が切れる。そしてその続きを口にしたとき、声の温度が数度下がっていた。
「——“あの子”の味方か」
モリタの背筋が固まった。顎がきつく締まり、目元が鋭くなる。
「……カティアが何だって言うんですか」
「とぼけるなよ」
父の声には苛立ちが滲む。
「お前は何も見えてない。全部、あの子に振り回されてる。ドラグーン特有の魅了でもかけられたか?“彼女”のせいで目が曇ってんだよ。どこから来たのか、もう忘れたのか?」
「やめろ」
モリタは低く警告する。
「カティアのこと、何も知らないくせに」
「知ってるさ、十分にな」
父は続けた。止まらない。
「俺たちが、あの子を認めるとでも思ったのか?ああいう連中は——元々ここに“いるべきじゃなかった”。なのに今じゃ、お前みたいなのまでが制度を擁護してる。“交流プログラム”?“統合”?冗談だ。で、お前はその冗談の象徴になってるんだよ」
ガタン。
モリタは椅子を強く押し引き、立ち上がった。床を引きずった脚の音が、部屋の空気を一瞬で張り詰めさせる。
目には怒りが宿っていた——いや、それ以上。憎しみすら浮かんでいた。目の前の“父”を睨みつけながら、心の中は嵐のように荒れ狂っていた。
だが、それ以上に彼自身を苛立たせたのは——何も言い返せなかった、自分の無力さだった。
深く息を吐き、怒気を鎮める。
「……ごちそうさまでした」
「タツキ……」
母の声が震えた。弱々しい手が、彼の腕にそっと触れる。
「お願い……座って。朝ごはんだけでも、ちゃんと食べていって」
モリタは母に視線を向けた。刹那、目の奥に柔らかい色が浮かぶ——が、すぐにそれを引っ込め、無言のまま視線を母の後ろへと逸らす。
彼はゆっくりと鞄に手を伸ばし、中から一枚のパンフレットを取り出す。光沢のある表紙が、朝の光を受けて鈍く光った。
何も言わず、それをテーブルの上に置いた。
そこに刻まれていたのは、誰の目にもすぐわかるロゴ——慶応連邦学院。
「……俺は行かない。会社も、継がない」
その言葉は冷たく、淡々と放たれた。
部屋に沈黙が落ちた。耳鳴りすらするほどの、重く、鋭い沈黙。
父の目がパンフレットへと落ちる。顎がきつく結ばれ、顔の筋肉が硬直していくのが見て取れた。そして、ゆっくりと椅子から立ち上がる。表情はまるで石の彫像のように冷たく固まっていた。
「……自分が何を言っているか、わかってるのか」
低く、しかし一言一言が鋭く刺さる声だった。その声音には、否応なく緊張感が滲む。
「これはな、お前一人の話じゃない。俺たち家族の“未来”の話だ。俺たちが積み上げてきた“すべて”なんだよ」
モリタは、何も返さなかった。
ただ、ゆっくりと目を上げ、そのまま動かぬ視線で父を見返す。
鞄を手に取り、肩へと担ぐ。
ベルトがスライドして肩に収まるまでの音が、沈黙の中でやけに大きく響いた。
「逃げるな、タツキ!」
父の声が怒鳴り声に変わっていく。
「これは“話し合い”じゃない!俺が築いてきたすべてを、お前が勝手に捨てていいわけがないだろ!」
一言ごとに語気が強まり、怒気があらわになる。
「慶応なんて、普通の人間なら命懸けで手に入れようとする“未来”だぞ!お前みたいなガキが、連邦に何を期待してる!?あいつらはお前を使い捨てにするだけだ!」
「お願い……やめて、お願いだから……!」
母の声が震えながら割って入る。二人の間を見つめて、切なげに手を伸ばす。
「あなたもよ……お願い……もう、やめて……!」
だが、モリタは止まらなかった。振り返ることさえしない。
スライドドアが静かに開く音だけが、父の怒声を断ち切るように部屋に響いた。
廊下に出ると、モリタは無言でコートに袖を通し、マフラーを巻き、靴を履いた。
その間にも、背後から怒鳴り声が追いかけてくる。
バンッ!
テーブルに叩きつけられた拳の音と共に、食器が揺れる。
「いいか、タツキ!そのまま出ていくなら、もう知らん!一銭もやらん!支援もなにもない!わかったな!一切——なにも!」
玄関の縁に手をかけ、モリタは一瞬だけ立ち止まった。
そして、ゆっくりと、確実にドアを開けて外へ踏み出す。
ピシャリ。
引き戸が閉まる音が、父の怒声を途中で切り捨てた。
冷たい朝の空気が頬を撫でる。モリタは鞄のストラップを肩にかけ直し、そのまま歩き出す。
遠くで聞こえる配送ドローンの羽音と、自分の足音が静かにシンクロしていた。
ポケットからホロフォンを取り出し、親指で縁をなぞる。滑らかな角を撫でながら、ふと口元がかすかに動いた。
『バイトの貯金、身分証……問題ない』
家が、ゆっくりと視界の後ろに溶けていく。街並みに呑まれ、朝日の光に紛れていく。
歩みは速くはないが、迷いもなかった。彼の影だけが、伸びていく道を静かに指していた。
『あとは……泊まれる場所さえ、見つかればいい。』
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2025/7/10 - カチャ を カティア に変更しました。ごく小さなこだわりですが、こちらの方が名前の響きが良く感じたためです。