ある日の日常⑥
夕食後、リアはリビングのカーペットに座り、ソファにもたれてくつろいでいた。キッチンからは、母とハジメが皿を洗う音や水音が聞こえてくる。ハジメはちゃっかりカルパスをつまもうとするが、そのたびに母に軽くたしなめられていた。
ソファの上では、父がホロタブレットを片手に、連邦公式ニュースネットワークの映像を眺めている。時折、ニュースの見出しがリアの視界に入るものの、すぐに膝の上のアリスへと意識が戻る。
アリスは、まるで自分がチャンネルの王様だと言わんばかりにリモコンを握り、ボタンをパチパチと押し続けていた。
そして、ある瞬間、画面にカラフルな映像が映し出された瞬間――
「わっ、見て見て!『異世界サファリ』だーっ!」
「おっ、あの動物番組か。」
リアはスマホから顔を上げ、微笑みながら画面をちらりと見た。
「司会の人、なんか変な英語の発音するんだよね。ちょっと、字幕消さないでよー! 英語、苦手なんだから!」
アリスはくすっと笑いながらも、ちゃんと字幕はそのままにして番組を見続ける。
その様子に、一也は小さく笑いながらホロタブから目を上げた。ニュースのヘッドラインが一瞬忘れられたかのように。
「英語が苦手って? リシー、小さい頃から習ってただろう?」
リアは父に振り返り、少し首を傾けながら苦笑する。
「うん、習ってはいるけど……上手いかは別だよ。」
いたずらっぽく肩をすくめる。
「古典語と星間語なら任せてって感じだけど、英語はダメダメ。ほら、字幕あるし、それで十分だよ。」
父はにやりと笑い、どこか意地悪そうな光をその瞳に宿す。
「翻訳に頼ってばかりじゃ、この先困るぞ。トライフェクタの教育部門に入るなら、英語の習得は必須だからな。」
「へえ?」
リアは少し眉を上げ、身を乗り出す。
「ずいぶん自信ある言い方だね、パパ。」
父はタブレットを脇に置き、ふんわりと得意げに胸を張った。
「当たり前だろう? 誰の父親だと思ってる。教育局の教員だぞ? そりゃあ英語くらいは、基本中の基本だ。」
リアはくすっと笑い、少し皮肉交じりの声を返す。
「はいはい、花沢教授。じゃあ、その司会のセリフ、訳してみせなよ?」
父はさらにニヤリと笑い、軽く顎をしゃくる。
「アリス、字幕を消してみな。」
「はーい!」
アリスは嬉しそうにボタンを押し、画面から字幕が消える。タイミング良く、番組の司会者が異世界の生物について熱弁し始める。
「ズッ… ファッスネイティング…クリーチャー… イムピアリム… ユーカーリスト… ‘ターネルウィーヴァー’…」
司会者の特徴的な発音と、やたらと速い喋りに、リアは顔をしかめる。聞き取れる単語も断片的だ。
「……今の、パパなら完璧に分かるんでしょ?」
リアは腕を組み、半分挑戦するように父を見つめる。父は椅子に身を乗り出し、仰々しく真面目な表情を作る。
「ふむふむ…… ‘トンネルウィーヴァー’……これは、ユカーリストというインペリウム領の惑星に生息する、犬くらいの大きさの蜘蛛型生物のことだな。深い地下のトンネルや洞窟に巣を張るんだ。」
得意げに頷きながら、父は続ける。
「ほら、簡単だろ?」
リアは腕を組み、ふてくされ気味に溜息をついた。
「さすが、言語マスター様……あんな呪文みたいな英語まで余裕だもんね。ママがパパに惚れた理由、分かった気がするよ。『600万の言語に通じてます』ってヤツ? もう、やめてくれ~。」
父はニヤリとしながら、からかうように返した。
「6? それは褒めすぎだ。せいぜい7ってところかな。」
リアは思わず吹き出し、両手を挙げて降参する。
「はいはい、完敗です、パパ。」
アリスに向き直って微笑む。
「……アリス、字幕戻して。二人して迷子だよ。」
「うん!」
アリスは元気に返事をし、すぐにリモコンを操作した。
短い沈黙が流れ、テレビから流れるナレーションがその空気を埋めた。アリスはリモコンをいじりながらも、画面に映る異世界の生き物たちに夢中だ。
リアは姿勢を少し変え、膝に顎を乗せながら父に視線を向ける。
「ねえ、パパ……ママとどうやって出会ったの?パパは学者で、ママは……エルフでしょ?そんな話、あんまり聞かないよ。あの人たち、普通は帝国の森の星とか、コアワールドから出ないって学校で習ったよ。」
父の笑みはやわらぎ、どこか懐かしむように遠くを見つめる。
「そうだな……まあ、運命の悪戯ってやつだ。」
リアはくすっと笑い、身を乗り出す。
「そこを詳しく!」
父はソファに寄りかかり、わざとらしく肩をすくめる。
「昔、連邦と帝国の交流プログラムがあった頃の話だ。当時はまだ、アーケインとサイエンスの融合に希望を抱いていた時代でな。お互いの世界を理解する……そんな理想があったんだ。」
リアは首をかしげる。
「交流プログラム……授業で聞いたことあるけど。」
「だろうな。もし聞いてなかったら、君の先生に苦情を入れるところだったよ。」
父は軽く笑いながらも、どこか遠い目をして続ける。
「連邦と帝国が、知識や文化を交換し合うために作った制度だ。あちらからは魔導学、こちらからは科学技術。お互いに門戸を開こうとした、数少ない機会の一つだった。当時は、ぎこちないながらも学生や研究者、物資の行き来が活発だったよ。」
リアは目を細め、興味津々の表情を浮かべる。
「偶然? それって、ちょっと運命っぽくない?」
父はふっと笑い、どこか懐かしそうに目を細めた。
「まあ、そうかもしれないな。同じ大学にいたんだ。最初は……手強かったよ、お母さんは。議論でも討論でも、いつも一歩先を行っていた。」
「要するに、何かヘマして、コテンパンにやられたんでしょ?」
リアがニヤリとからかうと、父は苦笑いを浮かべた。
「まあ、否定はしない。でも、こっちだって時々はやり返してたさ。最初は、まったく違う世界の住人同士が、どうにかしてうまくやろうと必死だったんだ。」
その時、キッチンから母の声が響く。
「パパは私の先輩だったのよ。」
シルヴァリアの声は柔らかく、どこか整った口調で続く。
「私は、何も分からないまま、知らない国で戸惑ってばかりいたわ。」
父は優しく笑い、彼女の方を見やる。
「……でも、いちばん迷ってたのは、俺の方だったかもな。」
シルヴァリアはくすっと笑い返す。
「あなたたち、連邦の人は……時々、自信がありすぎるのよ。」
リビングには、家族の冗談交じりの会話が温かく響き、ゆったりとした時間が流れていた。リアはソファにもたれかかり、膝の上にはまだ「異世界サファリ」に夢中のアリスが座っている。父は母のからかいに微笑み、台所からは食器を洗う水音が控えめに聞こえてきた。テレビの音と相まって、その光景はどこか懐かしく、穏やかで、外の世界とは無縁の静けさを保っていた。
だが、その空気を裂くように、突如鋭い警報音が鳴り響いた。
画面が切り替わり、青い背景に重々しく回転する「太陽系統一連邦」の紋章が映し出される。その下には、赤い警告帯が走っていた。
【緊急放送 ── 連邦最高評議会からの声明】
アリスは困惑した表情でリアを見上げ、リモコンを強く握りしめながら、何度もボタンを押してみせる。しかし、番組は戻らない。
「……なにこれ?」
アリスが小さく呟いた。
ハジメも皿を拭く手を止め、泡だらけの手をカウンター越しに見せながら眉をひそめた。
そして、シルヴァリアが静かにリビングに入ってくる。その表情は、いつもの優しさを残しつつも、どこか硬さを帯びていた。
画面が切り替わる。壇上には、太陽系連邦の青・白・金のバナーが掲げられ、その両脇に三人の代表が並んで立っていた。いずれも威厳を湛えた面持ちで、場の空気は張り詰めている。
中央には、星軍の制服に身を包んだ軍部代表。その肩章には高官の証である徽章が輝いていた。右には、科学部門の代表。鋭いスーツに身を包み、襟元にはその象徴たるピンバッジが光っている。左には、教育部門の代表。こちらも同様のスーツ姿で、胸元のバッジが目を引いた。
背後には、太陽系連邦の紋章が厳かに掲げられ、控えめに調整された照明が場を照らしている。カメラの外からも、事務官たちのわずかな動きが垣間見え、重々しい空気に拍車をかけていた。
軍部代表が一歩前へ出て、重みのある声で語り始めた。
「太陽系統一連邦の市民の皆様。我々"トライフェクタ高等評議会"は、本日、極めて重要かつ歴史的な声明を発表いたします。」
リアは無言のまま、画面を見つめ続ける。その胸中には、先ほどまでとは違う、不穏な予感が静かに広がっていた。
教育部門の代表が前に出る。落ち着いた口調の中にも、どこか沈痛な響きがあった。
「2139年11月26日、地球標準時。太陽系統一連邦と聖エリシア帝国による外交交渉は決裂しました。議題はルミナラIIの領有権について——この星は、我々連邦にとって“平和”と“協力”、そして“共栄”の象徴たる存在でした。度重なる交渉の試みも空しく、我々の提案は拒絶されました。」
続いて、科学部門の代表が静かに前に出る。メガネを軽く押し上げる仕草とともに、彼女の表情はさらに厳しくなる。
「そして2139年11月27日未明。帝国軍は定められた境界線を越え、圧倒的な武力をもって侵攻を開始しました。これは明確かつ一方的な軍事行動であり、平和維持のための協定は踏みにじられました。現時点で、帝国側からの回答は一切なく、事態は悪化する一方です。」
リアの背筋に冷たいものが走る。彼女は無意識に父へと視線を移したが、その表情は読み取れない。指を組み、身を乗り出して画面を凝視する彼の姿は、いつもの穏やかさとは別物だった。
カウンターの向こうで、ハジメが戸惑いを浮かべて眉をひそめる。
「……何、これ……どういうこと?」
その一言が、部屋に漂う緊張感をわずかに破った。
「しっ! ハジメ!」
リアは即座に制し、鋭く睨む。すぐに画面へと目を戻した。
「静かに。」
母もそっと言い添え、ハジメに優しくも真剣な視線を送ると、人差し指を唇に当てた。
画面の中で、軍部代表が再び前に出る。その声は先ほどよりも鋭く、そして重々しい。
「2139年11月27日、協定世界時11時16分をもって——」
軍部代表は、静かに、しかし断固たる口調で宣言した。
「太陽系統一連邦は、聖エリシア帝国と公式に戦争状態へと突入します。」
その言葉は、鋼鉄の槌のように空間を打ちつけ、リビングルームに重苦しい余韻を残す。画面越しにカメラのシャッター音や報道陣のざわめきが聞こえる中でも、代表の表情は揺るがない。
リアは息を呑み、手が自然と膝の上で強張る。
続けて、科学部門の代表が一歩前に出た。声は落ち着いていたが、その奥には確かな覚悟が宿っている。
「聖エリシア帝国の行動は、和平の破壊であると同時に、我々太陽系統一連邦が掲げる“団結”と“進歩”への明白な挑戦です。我々は、すべての市民の安全を守り、領土を防衛し、自由と平等という理念を、この侵略に対して守り抜く使命を負っています。」
最後に、教育部門の代表が前に出る。その声は穏やかだが、重みは変わらない。
「全ての連邦市民へ——我々は冷静に、かつ強くあるべき時を迎えました。植民地から前線まで、すべての機関と地域社会は連邦の礎として揺るぎません。我々がこの戦争を望んだわけではない。だが、向き合わねばならない現実です。」
代表は、わずかに目を細めた。
「すべての退役軍人、そして市民の皆さんに告げます——連帯と団結を。敵対する者たちに告げます——あなた方の行動に屈することは、決してありません。」
カメラがゆっくりと動き、ふたたび軍部代表を映し出す。その声はさらに硬質さを増し、ひとつひとつの言葉に鋭さが宿る。
「現在、連邦軍は即時動員を開始している。我々のスターフリートは出撃準備を完了し、兵士たちはその命を賭して立ち上がった。我々の決意は揺るがない。退くことも、屈することもない。」
軍人は一瞬だけ言葉を区切り、そして力強く宣言した。
「太陽系統一連邦に、栄光あれ。今も、そして永遠に!」
鋭いチャイム音が鳴り響き、画面は再び連邦の回転する紋章へと切り替わる。だがその後に訪れた静寂は、かえって耳に刺さるほど重かった。
いつもならはしゃぎまわるアリスでさえ、今はリアの膝の上で身じろぎもせず、彼女のシャツの裾をぎゅっと握りしめている。
「なあ……これ、どういうことだよ……?」
ようやく静けさを破ったのはハジメだった。戸惑いと不安の色を帯びたその声には、いつもの鋭さはなかった。
リアはふうっと息を吐き、背もたれに頭を預ける。口元には、どこか諦め半分の苦笑が浮かぶ。
「つまりね、ハジメ……」
どこか皮肉めいた軽い口調で続けた。
「しばらく、カルパスはお預けってこと。」
冗談めかしてはみたものの、リアの胸の内にざわりと不安が広がっていた。
戦争——それは、はるか彼方の別世界の話。遠い星での出来事。ここ地球の、この温かく穏やかな家庭とは無縁の話だと、そう信じて疑わなかった。
……だが。
現実は、そんなに単純なものではなかった。
この夜、世界は転機を迎えたのだ。
——フロンティア時代の終焉。
そして、新たに始まった——
《アーケイン・フロンティア戦争》である。
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