天国の門②
章の最後に脚注があります。
「再調整は終わって?」
《はい、エレナ様》
ボンボンが短く鳴き、肩越しに漂いながら遠方を移動する標的へ単眼レンズを固定する。
《確認中。距離九〇〇。西進》
引き金を絞る。
一度。
二度。
レールが再び低く唸った。命中と同時に、土埃と破片が跳ね上がる。
やや遅れて、キャリアドローンが姿勢を立て直した。機影は無傷。標的の進路だけが、正確に撃ち抜かれている。
ボンボンが嬉しそうに鳴いた。
《見事な射撃です、エレナ様。全弾命中。偏差五センチ》
「……ふむ」
エレナ上等兵は、なお一拍だけ照準から目を離さず、やがて力を抜いて視線を逸らした。
「二センチ未満にしたいわ」
指で髪をかき上げ、射場を離れ、先ほど自分が確保していた空の作業台へ向き直る。
射場が一瞬、静まった。
周囲のリズムが崩れる――当然のことだ。
凡庸がどれほど騒がしいか、彼らはいつも忘れる。
「もう一度調整するわ」
落ち着いた声で言う。
「加速器がずれている」
ライフルを作業台に預ける。指に触れた加速器シュラウドは、まだ温かい。
続いて工具を並べた。インターフェースプローブ、サービスキー、光学調整タブ――丁寧な所作は、作法の整った食卓と変わらない。
それ以上でも、それ以下でもない。
上部シュラウドを外し、ライフルを一つずつ分解していく。部品はすべて、即座に再組立てできる位置へと置かれた。 砲撃はすでに二時間以上続いている。遠くの圧が、空気から完全に消えることはない。
静寂の方が好ましいが、戦争は好みに応じてはくれない。
「……ここね」
そう呟き、加速器アセンブリを点検する。
「位相遅延」
また熱だ。
別の工具に手を伸ばす。
「大した問題じゃない」
EG-41/s¹は信頼性が高く、精密なマークスマン・ライフルだ。 そのことは彼女自身が誰よりも理解している。 学生時代に使っていたリー・エンフィールドNo.4の優雅さには及ばない。
鋼。
木。
規律。
古典的なボルトアクション。
ボンボンが短く鳴いた。
《妥当な判断です、エレナ様。調整完了。予測偏差は約一・五センチ低減しました》
お世辞だ。
しかも、スポッタードローンからとは。 不要だが、悪くはない。
「それで十分よ」
視線を切らぬまま、そう返す。
「わたくしが合わせる」
「――いたな。やっぱりここか」
エレナ上等兵の動きが止まる。 部品の上で手が宙に浮き、すぐにまた動いた。 足音が近づくたび、ひとつずつ部品が元の位置へ戻っていく。 足音が止まるころには上部シュラウドが収まり、パルスライフルは彼女の手の下で完全な形を取り戻していた。
「また整備か? 数センチの誤差なんて気にするほどじゃないだろ」
彼女は振り返った。 わずかに苛立ちを滲ませて。
……この男。
辻コウタ上等兵。
いつものように断りもなく現れた。 使える距離にはいるが、命じられた位置には決していない。
平均的。
所作も体格も、取り立てて言うほどのものはない。 痛いほどに平均的だ。 部屋を出た瞬間に忘れ去られる類の存在。
しつこい苛立ち。
高校時代から彼はずっと彼女の周囲を回っていた。 一度は割り当てられ、そのまま正式に外されることもなく。 伝令役。使い走り。
――彼女のもの。
妹のために英雄気取りを演じると決め、 それをやめ時だと学ばなかったせいだ。 軍務は彼をいくらか削ぎ落とした。
柔らかさは実用性に置き換えられている。 当然の結果だ。
少なくとも、戦闘服は……正しく似合っていた。
向かい側で体重が移り、テーブルがきしんだ。
「まだやってるのか」
コウタ上等兵が声をかけた。
「整備は、勝手に終わるものじゃないわ」
そう言ってライフルを構え、照準に入る。
スコープを調整する。ひとつ、そしてもうひとつ。
「急いで仕上げるものでもないわ」
「ん」
彼は椅子を後ろに傾け、背もたれに体重を預けた。
「まだ苛立ってるのか」
指先でセーフティをなぞり、オンとオフを切り替える。
滑らかだ。
調整の必要はない。
「何が」
「『誰と』って言うところだろ、エリー」
彼は身を乗り出す。
「ブリーフィング、まだ引きずってるのか」
生意気な男。
彼女はその目を捉えた。
「あなたに何の関係があるの」
「じゃあ、ブリーフィングじゃないってわけか」
彼は一瞬視線を逸らす。
「……軍曹か?」
彼女は息を吐き、唇を引き結んだ。
ライフルを手に取り、馴染んだ重み。 マガジンがカチリと収まり、彼女は射撃レーンへ向かった。
「ボンボン」
前を向いたまま、淡々と呼ぶ。
カウンターのボタンを押すと、標的ドローンが散開した。
「私の時間に見合うものを」
一拍、置く。
「――面白くして」
背後でコウタ上等兵が小さく笑う。
「だと思った」
《了解しました。エレナ様。 複数の移動目標を確認。 ドローン。東進。距離九百メートル》
彼女の視線が照準に落ち着く。
呼吸を整える。
百単位に丸める――十分だ。
「捕捉。九百――一〇」
引き金を絞る。
一発。
二発。
三発。
標的が飛行中に揺れ、射場が静まる。
ドローンが戻ってくる。
赤の中心に、綺麗な貫通孔。制御した息を吐き、指で髪をかき上げた。
ボンボンが再び鳴く。
《命中確認。エレナ様。 偏差一点八センチメートル》
――当然だ。
「見事な射撃だな。で――少しは落ち着いたか?」
エレナ上等兵は小さく目を伏せ、作業台へ戻った。
ライフルを丁寧に置く。
またあの顔だ。
得意げとも分かっているとも取れる表情。 何年も見慣れてきたはずなのに、どこが一番腹立たしいのかはいまだに決めきれない。
「最初から問題なんてないわ」
冷ややかに言い切る。
「大げさよ」
「はいはい」
納得していない声だ。
「そういえば、工兵が合流したぞ」
指が、ほんの一瞬だけライフルの上で止まった。
工兵。
……そういえば、前にもいた。
藤原レイコ上等兵。
装備を確認しながら、よく鼻歌を口ずさんでいた。
羽田で――そこで途切れた。
「それで?」
「知っておいたほうがいいかと思ってな」
コウタ上等兵は肩をすくめる。
「東京で、面識があっただろ」
手が止まる。 彼女は振り返った。
「白石ハヤトだ。スライス。今は上等兵」
「……誰?」
コウタ上等兵は瞬きを一つし、鼻梁を押さえて小さく笑った。
「年上で、二十代半ば。下水道で拘束されてただろ。煙突みたいに煙草を吸う、無精ひげの……NGD耐性持ち」
……
「……ああ」
……女たらし。
彼女は胸の下で腕を組み、作業台の脇を通り過ぎる。 向きを変えた拍子にブーツが一度だけ乾いた音を立てた。
塔のあと彼と少し関わったことがある。
……忘れがたい、と言うべきか。 酒が入ればああいう男は簡単に地が出る。
そういう癖は不正規の人間にこそ残り続ける。
「思い出したか?」
彼が口元を歪め、腕を組む。
「もし配属されるなら」
歩みを止めずに彼女が答える。
「今度は手癖を抑えてもらうことね」
彼は言葉もなく笑った。
砲撃が次第に収束していく。 最後の一撃が地面を揺らし――それきりだった。 エンジン音が立ち上がる。 〈輪入道〉がゲートへ向けて動き出し、乗員たちは外部最終確認を終えると内部へ消えていく。 確認コールがネットを満たした。
――五分後、突入。
「さて、いよいよだな」
コウタ上等兵が息を吐く。
「行こう。部隊に合流しないと」
エレナ上等兵の視線は山に残った。 砲撃で抉られた斜面から、まだ煙が立ち上っている。
火と土埃が低い雲へ絡みつき、簡単には沈まない。
「エリー」
コウタ上等兵が促す。
「遅れたら軍曹に怒られるぞ」
手が、震えた。
「……ええ。もちろん」
スリングにかけた手に力を込め、無理に安定させる。 彼の歩調に合わせて、前へ出た。
震えは、収まらなかった。
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脚注
1) EG-41/s(エレクトロマグネティッシェ・ゲヴェーア41/シャーフシュッツェ)
制式EG-41/iパルスライフルを基に開発された狙撃仕様モデル。
長距離精密射撃を目的として調整されており、有効射程は最大三キロメートルに達する。
使用者のヘルメットと同期するデジタル照準器、 内蔵ジャイロ安定化機構、 三点射モードを備え、 下部装備はグレネードランチャーに代えてバイポッドを装着する。
製造コストは高価だが、
連邦軍狙撃手の間では信頼性の高い装備として扱われている。




