手紙
この記録は、前線から遠く離れた場所で取られたものだ。
泥も、血も、戦場にまとわりつく鋭いオゾンの臭いもない。 行軍するブーツの反響も、連邦の戦争機械が低く唸り続ける音も、ここには届かない。
それは、社会の大半が考えないようにしている場所からのログだった。 市民が視線を逸らすことを覚え、名を口にしないことで暗黙の了解を結んだ場所。 〈異物〉と呼ばれる者たちが、ただ「帰る場所」として暮らす場所。
――コミュニティセンター N15。
朝の冷気がまだ残る時間帯、靄が地面に絡みつき始めた頃、カティアは中庭へ出た。 肺が焼けるような息を吸い込み、腕を伸ばす。 羽がさらりと音を立てて広がり、尾が自然な限界まで伸びた。
鐘より先に、外へ出ている者が何人かいた。
カニナイトの女がフェンス際で、関節ごとに肩を回している。 若いエルフが二人、互いに距離を保ったまま、慣れた手つきで身体をほぐしていた。視線は伏せたまま。 ところどころに小さな囁き声と、取りとめのない会話。
長く見つめなければ、どこにでもある朝の光景だった。
カティアはわずかに首を傾け、中庭の上を流れていく雲を目で追った。 冷え込みはまだ刺すようだったが、空は澄んでいる。
「……いい天気ね」
2142年1月15日。
タツキ、リア、ナオト、レイコが戦争へ向かってから、ちょうど一年。
日々は、彼らがいなくても進む術を覚えてしまった。 立ち止まらなければ、生活は「普通」に流れていく。
予定表は勝手に埋まり、掲示板の名前は書き換えられる。 消えた名前もある――その代わりに、同じ几帳面な筆跡で別の名が書き足される。 数か月ほど静かだった宿舎も、フェリニドの家族三人が越してきてからは、再び人の気配を取り戻していた。
気づかないでいられるようになった。 立ち止まってしまうより、そのほうがずっと楽だった。
「おはよう、カティア」
横から声がした。 年を重ねた、せかせかしない声音。
振り向くと、いつもの歩調で近づいてくる藤原おじいさんの姿があった。両手を背に回している。
「おはようございます、藤原さん」
カティアは軽く一礼した。
「これから持ち場へ?」
彼はうなずいたが、視線はすでに彼女の向こうへ流れていた。 宿舎を越え、フェンスを越え、門の先へ。
――あの方向を、彼はよく見ている。
「ええ」
少し間を置いて、老人はそう言った。
「もう、いつ来てもおかしくない頃です」
カティアは、考えるより先にその視線を追っていた。 門の向こうへ続く道には、何もない。静まり返ったままだ。
「あなたも、待っているのでしょう?」
問いかけは穏やかだった。決めつけない声。
期待している。
待っている。
――どちらも事実だった。
「……そうでないと言ったら、嘘になります」
藤原おじいさんは小さく喉を鳴らした。 それで十分だった。
二人はしばらく並んで立ち、門の方を向いたまま時を共有する。
周囲では、キャンプが目を覚まし始めていた。 扉が開く音。中庭を横切る足音。 どこかで、少し大きすぎる笑い声が上がり、すぐに誰かが釣られる。
その下にある空気は、澄んでいる。
多くの人が、待っていた。
ほとんどは手紙だ。
運が良ければ、手書きのもの。 時には、妙にきっちり折られた公式通知――だいたい、良い知らせではない。特に、旗が同封されている時は。
あるいは、何も来ないこともある。
前線からの情報は不揃いだった。 噂話として流れてくるか、口の軽い警備兵が漏らすか。 届いたとしても、それは何度も読み返され、紙の端が柔らかくなるまで扱われる。
最近の〈合理日報〉も、ほとんど何も語っていなかった。
それでもカティアは、配られるたびに目を通していた。 期待というより、習慣だ。
記事は長々としていながら、要点がない。 使い回された声明。定まらない日付。 中身のない更新。名前を避けた見出し。
訂正は載らない。質問も印刷されない。 空白を埋めるのは、即席の家庭料理レシピや、キャンプでの暮らしを扱った穏やかな聞き取り記事ばかりだ。
それでも、人は確認する。 毎朝。毎夕。
希望というものは、励まされなくても続く。 必要なのは、ほんの少しの余地だけだった。
「今日も、気をつけて」
やがて、藤原おじいさんが言った。
「そちらも」
カティアが答える。
老人は、相変わらず急ぐことのない足取りで工房の方へ向かった。 まるで時間そのものが気づけば歩調を緩めると信じているかのように。
カティアは、彼の背中をもう一拍だけ見送り、 それから宿舎へと向き直った。
朝はまだ始まったばかりだった。 持ち場へ向かう前に、片づけるべき雑務がある。
医務室――
その名を意識するより先に、身体が動く。
作業と作業のあいだで、いつのまにかリズムが戻っていた。 最初の頃は、仕事が途切れることはなかった。過密による怪我、疲労、身体が隠しきれない不安や動揺。
やがて、手順は習慣になった。 動作に、いちいち名前を与える必要はなくなる。
手を洗う。
袖をまくる。
備品を確認し、もう一度確認する。
再利用できるものは洗浄し、できないものは記録して脇へ置く。
エルデューは、いつだって不足している。 患者の顔ぶれは変わっても、やることは同じだった。
多くの場合、同じ名前が、同じ訴えとともに戻ってくる。 日常をやり過ごせる程度に、ほんの少しだけ良くなって。
誰が会話を求め、誰が沈黙を必要としているか。 約束できないことを口にせず、どう安心させるか。
――それも、自然と身についていった。
治療そのものより、「来た」という事実のほうが大切な場合もある。 そういう時は、無理に引き留めず、淡々と流す。言葉はいらない。
正午を告げる昼の鐘が鳴る頃には、ベンチはまた空になっていた。
……けれど今日は何かが違う。
医務室の外で、エンジン音が唸った。
大きな音ではない。ナオトが昔、扱いに苦労していた旧式のミュールのような息切れもない。 整備の行き届いた、澄んだ音。
――妙だ。
カティアは、まだ濡れたままの手を止め、耳を澄ました。 中庭のほうから声が流れてくる。ひとつ、ふたつ……次第に数が増えていく。
窓辺に近づくと、若者も、年配者も、皆が同じ方向へ向かっているのが見えた。
「……今日、何か予定がありましたか、先生?」
隅田医師が一瞬だけ足を止め、彼女の隣に並ぶ。
「中庭に集まってますね」
顎に手をやり、しばらく考えてから、薄く笑った。
「そうか。じゃあ、今日なんだろうな。君も行って、様子を見てきたらどうだい?」
「先生は?」
「私?」
小さく笑う。
「待っている患者は、もういないからね」
外へ出ると、すでに人の流れができていた。 中庭へ向かって歩く者たち。中には小走りになる者もいる。 普段より、明らかに足取りが早い。
カティアもその流れに加わった。
トラックは、かつて徴募が行われたコミュニティ掲示板の横に停まっていた。 鈍い灰色。 側面に小さく刻まれた連邦の徽章以外、目印はない。
警備兵が二人立っており、そのうちの一人が、すでに荷台のラッチを外し始めている。
誰かが、口にした。
「……郵便だ」
胸が、ひとつ跳ねた。 来たのだ。
集まりの端に、藤原おじいさんの姿があった。 手を組み、開き始めた後部扉から目を離さずにいる。
紙の束が次々と手渡される。 二度数えられ、三度目にようやく、警備兵が設えた即席の窓口へと運ばれていった。 このキャンプに、正式な郵便局はない。
藤原おじいさんがカティアに気づくと、小さくうなずいた。 待っているものは、同じだ。
事務員がホロパッドを掲げる。
名前が呼ばれていく。 最初は警備兵。 それから、収容者たち。
すぐに返事をする者もいれば、一瞬ためらう者もいる。 自分が前に出ていいのか、確信が持てないように。
藤原おじいさんの番が来たとき、わずかな間が空いた。
差し出されたのは、連邦の封印が押された封筒――ひとつだけ。 藤原おじいさんは、他にもないのかと尋ねた。 事務員はもう一度確認し、首を横に振る。
今日は、これだけだ。
藤原おじいさんはうなずいた。 最初から、そうなると分かっていたかのように。
「あの子は、昔から心配ばかりかけてくれてね」
低く、独り言のような声。
「きっと届きます」
カティアは、しばらく彼の隣に立ったままでいた。
「私たちは、ここにいます」
藤原おじいさんは息を吐き、再び門のほうへ視線を戻した。 一通だけの封筒が、指の間でかすかに揺れている。
「……そうだね。きっと、無事なんだろう」
それ以上言葉は必要なかった。
カティアの名が呼ばれた瞬間、考えるより先に身体が前へ出ていた。
事務員が一瞬、動きを止める。 ホロパッドからカティアへ、そしてもう一度表示へと視線を往復させてから、画面をタップした。
白い小型の補助ドローンが、台座から浮かび上がる。 トラックへ飛び、すぐに戻ってきた。
差し出された封筒は――二通。
二通だった。
ひとつは重く、封印と書式に満ちたもの。 藤原おじいさんが受け取ったものと、まったく同じ。
もうひとつは薄く、中央で一度だけ折り目がついている。 表には、丁寧な字で名前が書かれていた。
――カティアへ。
……彼だ。
カティアはどちらも開かなかった。 ここでは、だめだ。
周囲では、人の輪が少しずつほどけていく。 その場で手紙を広げる者。 何も言わず、そっと懐にしまう者。
カティアは二通をコートの内側へ滑り込ませ、宿舎のほうへ向き直った。
仕事は、後でいい。
足取りは自然と早まっていた。 中庭から離れ、医務室からも距離を取る。
冷気が尾の先や翼の縁を刺したが、気にならない。 それどころではなかった。
宿舎に戻ると、朝よりもずっと静かだった。
多くの人が中庭に残っている。 立ったまま読みふける者。 名前を照らし合わせる者。 紙が裂けないよう、慎重に折り直す者。
カティアは立ち止まらず、その横を通り過ぎ、 自室の扉を滑らせて閉めた。
部屋は狭い。
――彼らがいなくなってから、さらに。
ベッドと、小さなナイトテーブルだけ。 私的な空間は贅沢だが、今は同居の家族も外に出ているようだった。
――気兼ねはいらない。
コートを脱ぎ、脇へ置く。
次に、封筒。 慎重に、ナイトテーブルの上へ並べる。
心の準備が、必要だった。
重いほうは、そのままにした。
一目で分かる――
『市民権復帰確認通知』。
それは、後でいい。
カティアはもう一方へ手を伸ばした。
紙は、まだ彼女の体温を帯びていた。 縁はざらつき、記憶していた手紙よりも薄い。それでも、疑いようはなかった。
中央の折り目はすっかり柔らぎ、角は擦り切れている。 身近に置かれ、何度も扱われてきた痕だ。
彼女はベッドの縁に腰を下ろし、封筒を裏返した。
――また、名前。
丁寧なインクの文字。 今では珍しい。 見慣れているはずなのに、胸が締めつけられる。
意図するより先に、だった。
カティアは封を切り、手紙を広げた。
「カティアへ。
今は少し落ち着いた時間ができたから、こうして書いている。 心配しないでほしい。俺は無事だ。」
知らず、息を吐いていた。
インクの匂い。 万年筆の筆致。 いつも彼が使っていたもの、そのまま。
――生きている。
「この手紙は、君のところに届くまでに検閲を通るはずだ。 向こうの手間を省くためにも、黒塗りを読ませることにならないようにも、簡単に書くことにする。 届くまで時間がかかるかもしれないけど、気にしないでくれ。」
カティアはかすかに口元を緩めた。
最初にそこを気にするあたり、いかにも彼らしい。 冗談めいた気遣いも、失われていない。
「前線の話は、あまり書くことがない。 リアが野戦炊事に入る日は、食事が少しだけ良くなる。 それ以外は、行軍命令と、冷たいシャワーと、言われた通りに移動するだけで、日々は混ざっていく。 昼に進み、休めるときに休む。 インプたちは後退している。少なくとも、それは助かっている。」
……リア。
味付けを巡って誰かと口論している姿が、自然と浮かぶ。
「万年筆は、どうかな。 巡回中に、放棄された店で見つけた。 まだ使えたから、君なら喜ぶと思って。」
親指が、柔らかくなった折り目をなぞる。
――ええ、確かに。
筆致の癖も、変わっていない。 線の終わり方。文字と文字のあいだに、わずかに空く間隔。
それだけで、胸の奥が静かに揺れた。
「静かな時間になると、君のことを考えている。 ブレスレットは、左腕につけたままだ。 音が大きくなると、無意識に触ってしまう。 君が言ってくれたことを思い出すために、ほんの一瞬だけ。 俺は戻る。ちゃんとした形で。」
思わず、指が動いた。 かつて編み込んでいた場所へ。
気づいたときには、もうそこには何もない。
「キャンプの様子はどうだ? ちゃんと食べているか。 相変わらず、毎食サバばかりじゃないか? ちゃんと休めているといい。 俺が止められないからって、無理はしないでくれ。」
カティアは、鼻から小さく息を抜いた。
幸い、献立は変わっている。 サバは、もう一週間ほど回ってきていない。
「次にいつ書けるかは分からない。 でも、これだけは君に渡しておきたかった。 大したことがなくても、書き残すと少し楽になる。
身体に気をつけて。 書けるときに、また書く。
君の、
タツキ」
封筒は、空ではなかった。
裏返すと、中で何かがわずかに動く。
「追伸:
最近、配られたものを同封した。 大したものじゃない。」
封筒が傾き、何かが彼女の掌へと滑り落ちた。
冷たい。
固い。
見た目よりも重く――勲章が、確かな質量をもって掌に収まる。
カティアは、動きを止めた。
それを一度だけ指の間で回す。 音を立てないよう、慎重に。
指を閉じた。 もう一度、手紙を折り畳み、 勲章と一緒に胸元へ押し当てる。
ほんの一瞬だけ。 呼吸を整えるのに、必要な時間。
窓の向こうでは、門が開いたままだった。 トラックはまだ停まっている。エンジンは落ち着いた音を保ち、警備兵たちも慌ただしさはない。
出発は、明日だ。
――時間は、ある。
フェンスの向こうの中庭。 その先へ伸びる道を、カティアは静かに見つめた。
やがて、視線を室内へ戻す。
勲章を、手紙の隣に、丁寧に置く。 引き出しに手を伸ばしかけ――止めた。
もう、次のことを考えている。
紙と、鉛筆。
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