塔④
章の最後に脚注があります。
シミュレーションルームは、ざわめきと感情で満ちていた。
ルナで行われた大規模シム演習の直後――
再現されたのは統一戦争でも屈指の激戦、《レッド・ヒュドラ》作戦¹の戦闘記録。
レンジャー候補生たちは、当時の戦場へそのまま投下され、 実際の大隊が成し得なかった“別の結末”を自分たちの手で試すことを許される。
教官たちがこよなく愛し、 訓練生たちが心底から恐れる“ケーススタディ”だった。
どちらを選んでも誰かを捨てなきゃいけない状況――
予想どおり、演習後のフロアではモリとユウナ軍曹が激しく言い争うことになった。
モリは“可能な限り前線を維持し、民間人と負傷者を守りきる”判断を選んだ。 彼の分隊は生還した。 だが大隊は殲滅された。
ユウナ軍曹は真逆を選んだ。
谷を正確に狙う忠誠派の砲兵陣地を叩きに行き、突破口をこじ開けようとした。 その結果、峠は開放されたまま維持され、大隊はチョークポイントから脱出できた――だが数時間後の突破戦で包囲を受け、押し潰された。 砲兵陣地を制圧する際、彼女の分隊も半数が死亡。 谷に残された負傷者と民間人は、生き残れなかった。
判断は違う。
結末は同じ。
大隊は、どちらの選択を取っても助からなかった。
リア兵長は、二人が言い争う姿を今でも覚えている。 モリは、ユウナ軍曹が負傷者と民間人を見捨てたことに激怒し、 ユウナ軍曹は、モリが「結果の変わらない選択のために大隊を捨てた」として激昂した。
最後はイコマ中尉が仲裁し、ユウナ軍曹の判断を支持した。 モリは不服従で訓戒処分を受けた。
二人とも認められなかった。 教官たちが何度も叩き込んだ“本当の答え”を。
正解のない任務がある。
生き残ったあと、自分が耐えられる選択肢しか残らない任務が。
塔の基部が爆ぜた瞬間、大地が揺れた。 床を突き抜けるような衝撃が何度も叩きつけられ、 硬質な破裂音が連続して腹へ響く。
ガラスと金属が裂け、鋭い破片が四方へ飛び散った。 灼けた空気が内側の広場を薙ぎ払う。
塔が――悲鳴を上げた。
紫白の光が中央の柱を駆け上がり、 上層の平台を一気に抜け、 刻まれた紋章を螺旋のように走り抜けていく。
光は塔頂へ到達し、 一閃。
――途切れた。
……
霧が裂けた。 誰かが世界の幕を引き剥がしたかのように、 足元からすうっと逃げていき、 外の公園へ向かって後退していく。
塔は最後にひとつだけ空洞の震えを残し、 光を完全に失った。
リッカ上等兵はリア兵長を見つめ、 口を開いたまま呆然とした。
「……化け物だよ、あんた。」
声が戻った。
リア兵長の膝が崩れかける。 視界の端で、砕けたポッドが点滅し、 破片が雨に混ざって落ちていく。
焦げた金属と肉の匂いが皮膚にまとわりつく。
これは……自分の判断。
自分の命令。
自分の選択。
一瞬だけ、その問いが全身を呑み込んだ。
――いま、私は何をした?
彼女は無理やり親指を通信スイッチへ押し当てた。
「フェアリー・ベイト、応答……?」
声が震えた。
押し殺すように整える。
「塔は沈黙……繰り返す、塔は沈黙。」
『リア――! 無事か!?』
モリの声がノイズ越しに飛び込む。
その裏で銃声。
近い。
速い。
止まらない。
リッカ上等兵はようやく視線を外し、 先に救い出したタラシアンへ目を向けた。
倒れたコンクリート片の陰に横たわり、 意識はほとんどない。 それでも胸は浅く上下していた。
「まだ……生きてる。」
リッカ上等兵が誰にともなくつぶやく。 その声は安堵で少しだけひび割れていた。
「これが……無駄にならないで。」
言葉の続きは空気に滲んだ。
たった一人だけ。
リア兵長は喉の奥で息を呑み、通信へ意識を引き戻した。
「こちら健在。被害は最小。民間人一名を確保――状態は安定。繰り返す、塔は沈黙。」
鋭い雑音が通信を裂き、その直後に銃撃の雨と輪入道の砲声が流れ込む。 モリが怒鳴るように指示を飛ばしていた。
『了解――』
その後ろで銃声が弾ける。
『その位置を維持しろ。いまから合流に向かう。』
外から、木製の柵を揺らす鈍い衝撃。 何かが直近に着弾した。 リア兵長の背筋が強張る。 耳が反射的に音を拾う――重い足音、装甲の擦れる音、低く唸るような駆動音。
イゴール。
複数。
距離、急速接近。
「スミノエ――民間人を移動!」
リア兵長の声が鋭く走る。
「スライス、射界確保!」
リッカ上等兵はタラシアンを塔の基部の陰へ引きずり込み、 スライスは瓦礫へ滑り込み、ライフルをしっかりと据えた。
リア兵長はアンダースラングにHE弾を装填し、 セーフティを外し、わずかに身体を上げ射線を取る。
「ここで止める。」
最初のイゴールが破口から飛び込んできた。 装甲には部族めいた紋が塗られ、 兜には階級を記す刻印。
リア兵長は照準を合わせ――
ドンッ
HEマイクロロケットが胸甲に直撃し、 機体は爆炎に包まれながら後方へ吹き飛んだ。 手足がスクラップのように散る。
続いて二体。
一体は四肢を伏せるように低く走り、 もう一体は盾を前腕に溶接したまま跳躍する。
先に撃ったのはスライスだった。 制御されたバーストが低姿勢の個体の胴へ突き刺さる。 イゴールは軋みながらも前へ這い進む。 コアが暴れるように点滅する。
背後からフードの魔導兵が現れ、 掌に炎を巻き上げた――
1秒も保たなかった。
次のスライスのバーストが胸を貫き、 炎は小さく散ったまま、男は折れた。
高位個体のイゴールが盾を叩きつけ、一直線に突っ込んできた。 リア兵長は体をずらし、腕甲へバーストを縫い込む。 金属が焼け、溶接部が裂ける。 盾が地面に転がった。
耳が跳ねる――左。
リア兵長が反転する。
3体目のイゴールが倒れた仲間を踏み台にし、槍を振り上げて迫る。 彼女は身を落とし、銃口を突き上げ、至近で撃ち抜いた。 弾丸が胸腔を貫き、コアが砕ける。青白い破片が散り、イゴールは痙攣して崩れ落ちた。
「右壁、二体!」
スライスの声が走る。
リア兵長のライフルが吠え、反動が肩に食い込む。 一体の兜が割れ、中身が飛び散った。 もう一体はよろめきながらも前へ進み、装甲が火花を散らし、爪が石畳を削る。
破口が、粉塵と火花と歪んだ残骸で満ちていく。
また魔導兵。
火弾の連射が一直線に走り抜け、視界を焼く。 一発がスライスの掩蔽に当たり、火花が散る。 熱が頬を掠め、空気が歪む。
銃声。至近。
魔導兵の腕が吹き飛び、呪文が蒸気ごと崩れ落ちた。
リッカ上等兵が瓦礫に滑り込み、息を詰める。
「民間人確保――戦闘復帰!」
身を起こし、ライフルを肩に押し当てながら撃ち込む。
「伍長は!?」
「来る。」
イゴールの奔流は止まらない。 背後で魔導兵が支え、数が膨れ上がる。 意図は明白。塔の奪還。
地面が震えた。 低い唸り。深い振動。 右側の柵から砂塵が波打ち、梁がひとつ折れ、 もうひとつが沈む。
木片が弾け――
構造全体が内側へ沈んだ瞬間、爆裂。
衝撃波が肺を殴りつけ、光と破片が中庭を薙ぎ払う。 鉄の巨塊が防壁を突き破って現れる。
輪入道。
前面装甲が木製の柵を噛み砕き、破片を弾丸みたいに撒き散らした。 ヘッドライトが煙を裂き、双の光槍を描く。 巨体は悲鳴じみたブレーキ音を上げて停止し、リア兵長たちをその車体で包み込むように守った。
砲塔が旋回する。
ドウッ! ドウッ!
双の加速砲が吠え、 イゴールは金属片と青い炎に砕け散り、 魔導兵は衝撃波に呑まれて消えた。
車体の上――
コウタ上等兵が全弾を叩き込み、 エレナ上等兵が煙の向こうの標的を正確に撃ち抜いていた。 その後部、砲塔の手すりを握り、エンジンの咆哮に負けない声で吠える影。
「レンジャー――俺について来いッ!!」
モリ。
輪入道の砲声が地面を震わせる。 分隊が次々に降車し、動きに淀みはない。
モリは車体の上から飛び降り、低く着地し、銃口で周囲を掃いた。 リア兵長を見つけると、そのまま手を差し出す。
「戦えるか?」
リッカ上等兵が砂を吐き、頬の煤を拭いながら、にやっと笑う。
「……遅いんだけど? ウチの役立つ英雄さま。」
モリが小さく笑い返す。
「はいはい。元気そうで何よりだ。」
彼はリア兵長の腕を引き上げ、 手早く傷がないか確かめながら、短く問いかけた。
「立てるな?」
リア兵長は息を整え、頷く。
「問題ない。」
本当の意味ではないけど、今はそれで足りる。
モリは医療兵へ視線を向けた。
「民間人は?」
「生きてる。」
リッカ上等兵が塔の基部を親指で示す。
「ほんとギリだけど、こっちで押さえてる。」
モリの顔に一瞬だけ安堵が走った。
「よし。イージーがもうすぐ来る。来たらすぐ避難に回す。それまでに――」
短く鋭い手信号。
「――ここを片付けてイージーと合流する。シロガネ、ツジ、前へ! リア、お前は民間人を守れ! クロミヤ――道をこじ開けろ!」
『了解!』
リア兵長はライフルを引き上げた。 リッカ上等兵とスライスが輪入道の背に寄り添い、 鉄の獣は群れを守るように身を沈め、喉奥で低く唸る。
破口から、また波が押し寄せる。 歪んだ装甲。操者と魔導兵の怒声。 数は途切れず膨らみ続ける。
モリが吠えた。
「――前へ! 押し潰せッ!!」
15秒間、内側の柵全体が生き物のように動いた――
レンジャーにしかできない“ひとつの機械”の動き。 パルス射撃が破口を縫い、手榴弾が弧を描き、 声ひとつなく足が滑り込み、踏み込み、位置が変わる。
モリはコウタ上等兵、エレナ上等兵とともに右側面を押し上げていく。 コウタ上等兵の〈ゼミ〉が悲鳴を上げ、重パルスの連射が群れを削り、魔導兵の頭を押さえつけた。
一人の操者が無謀にも、ジャガーノートの背に乗って突っ込んできた。 エレナ上等兵の射撃は一発も外さない――言葉どおり。 ジャガーノートは味方の列で暴れ狂い、輪入道が止めを刺すまで暴走した。
『輪入道、前進!』
アカネ伍長の声が通信を裂く。
『いいぞオオサカ! その調子、もう半分タンク乗りじゃん!』
巨体が前へ躍る。 金属の履帯がわずかな傾斜を下り、進路上のものをすべて踏み潰す。 双の加速砲が白い火線を吐き、後方のジャガーノート群をまとめて焼き払う。 地面が震えた。
高く、湿った咆哮が戦場に刺さる。
スライスが振り向きざま叫んだ。
「――後ろ!」
破口から何かが這いずってきた。 四肢が狂ったように再生し、肉が結ぼれ、伸び、膨れ上がる。 片腕は肥大し、もう片方はまだ腱の束。 脚は一本だけ異様に長く、もう一本は腫れ上がって太い。 肋骨が、履帯に潰された跡のまま再形成されていく。
胸郭にはまだ、戦車の履帯の跡が残っていた。
両目が輪入道を捉える。
「リジェネレーター――!」
リア兵長が声を張る。
撃った。 弾丸が筋と再生中の骨を裂き続けても、化け物は痛みを無視し、瓦礫を投げ飛ばしながら突進する。
輪入道のキューポラが開く。 アカネ伍長が身を乗り出し、固まった――怒鳴いた。
「また来たの!? クソ《カズレク》がァ!!」
答えは――突撃。
「オオサカ! 後退――全力!!」
戦車が跳ねるように後ろへ下がる。
ドガンッ――双砲身がリジェネレーターの胴体を叩きつけ、 巨体が石畳を滑っていった。
輪入道が急停止する。 アカネ伍長が身を乗り出し、目を燃やす。
「ウメ! 顔面狙え――全弾ぶち込めッ!!」
ドウッ! ドウッ!
双加速砲が庭を裂いた。 二条の光が再生者の頭蓋へ突き刺さり、巨体を持ち上げる。 肉が蒸発し、骨が砕け散る。
「もう一発!」
ドォン! ドォン!
二射目で胴が消え飛ぶ。
ドォン! ドォン!
三射目が残骸すべてを塵にした。
通信にモリの声が割り込む。 呆れと感心が半々。
『……完全に私怨だな。』
砲塔上でアカネ伍長が顔の臓物を手の甲で雑に拭い、 再び車内へ潜り込む。
『想像以上に根深いのよ、伍長。』
砲塔が正面へ戻り、輪入道が前進を再開する。 履帯の下で金属と骨がつぶれ、鈍く砕けた。
リア兵長は射線へ復帰。 崩れた門からイゴールが流れ込む。 必死で、乱雑で、それでも止まらない。
レンジャーたちは輪入道の影に密着しながら、じりじりと押し上げた。
「リロード!」
コウタ上等兵が怒鳴った。
「援護する!」
エレナ上等兵が撃ち返す、 飛びかかるイゴールの頭部へ二連射を叩き込む。
5メートル。
6メートル。
ようやく内庭が掃けた。
帝国側の列が崩れ、イゴールの動きが音を失う。 ジャガーノートが死に際の痙攣で暴れ回り、 魔導兵とハンドラーは公園方向へ退きながら隊形を乱す。
「おいエリーども!」
コウタ上等兵が叫ぶ。
「街は取り返す! 逃げろよ、頼むから! 追うの楽になる!」
外庭が突然揺さぶられた。
水弾。
悲鳴のような音で輪入道の装甲に叩きつけられ、 履帯装甲をへこませ、前面を抉る。
レンジャーたちの身体が揺れる。
手前のイゴール数体が、背後から刺し貫かれたように崩れた。 コアは綺麗に裂けている。
魔導兵が左右へ割れ、通り道が形成される。
リア兵長の動きが止まる。
霧の中を歩む影。 足元に靄がまとわりつき、杖を握り締め、 漏れ出す魔力は荒れ狂っていた。
エンゲルス・プライムの〈魔女〉。
疲れ切っていて、 追い詰められていて、 殺意だけが剥き出し。
魔女が杖を持ち上げた。 空気が一気に潰れた。
「退避――ッ!!」
モリの怒声が弾けた瞬間、 光の槍が中庭を真一文字に引き裂いた。 白熱した一本の線――密度の狂った純光のビーム。 三体のイゴールが一直線に両断され、 コアがサファイアの破片になって弾け飛ぶ。 そのまま槍は突き抜け、 輪入道の履帯へ直撃した。
金属が悲鳴を上げ、 溶けた装甲がえぐられ、 車体が横へ弾き飛ばされる。 蒸気が爆ぜ、履帯が完全に停止した。
続く一撃が飛ぶ。 先端が揺れていた――照準が乱れている。 それでも威力は落ちない。 砲塔を掠め、上面に灼けた傷が走った。
輪入道はすぐ反撃した。
ドォンッ! ドォンッ!
弾は逸れた。
金色の球体――滑らかな防壁が瞬時に展開。 弾丸は弾かれ、 軌道を跳ね上がり、 遠くの屋根で虚しく爆ぜた。
ピシッ、と音が走る。
防壁に罅が入り、 次の瞬間、金の粒になって霧散した。
煙の向こうから魔女がよろめき出る。 金髪が乱れ、 揺らぐ魔力が彼女の周囲を脈打たせる。 杖は一拍ごとに明滅し、 力が乱れているのがわかった。
強い――恐ろしく強い。 だが無尽蔵ではない。
すでに消耗している。
「全射集中!」
モリが吠えた。
部隊が応える。
エレナ上等兵の弾が魔女を防御に追い込み、 コウタ上等兵の〈ゼミ〉が残った障壁を削り取る。 スライスがバーストを叩き込み、 輪入道の操縦を外れたオオサカ上等兵が車体から飛び降り、 開いた隙間へ火線を流し込み、 魔女はさらに一枚、障壁を強制展開させられた。
リア兵長も撃つ。
HE弾三発が魔女の足元に叩き込まれ、 連続爆発が彼女の最後の障壁を粉砕する。
魔女がよろめき、 唸り、 荒い息を漏らしながら体勢を保とうと杖を引きずる。
腕が再び持ち上がり――
横合いから、 新たな弾幕が叩きつけられた。
10数挺の制圧射が一斉に火を噴いた。 パルス弾が雨を裂き、光の筋となって魔女へ殺到する。 急造の障壁が叩きつけられた衝撃でたわみ、 金色の面に罅が走り、 そのまま粉砕した。
一発が肩をかすめる。 魔女は悲鳴を上げ、濡れた石畳を滑り転がった。
「イージー中隊! 前へ押し上げろ! 魔女に回復の隙を与えるな――一歩もだ!!」
リア兵長は瞬きをした。 胸の奥を殴りつけるような安堵が走る。
外郭パリセードの奥――
雨の向こうから影がいくつも現れた。
灰青色の制服。 全分隊規模。 少なくとも三個小隊。
イージー中隊が、戦線に雪崩れ込んできた。
先頭の分隊が密集隊形のまま前進し、 気絶した魔女へパルスライフルを一斉に向けた。
二番隊、三番隊は左右へ展開し、 残りの抵抗を掃討し、 隠れていたハンドラーを引きずり出し、 震えながら呪文を構える魔導兵を膝へ叩きつけた。
さらにブーツの轟音が続き、 魔女の周囲はあっという間に銃床の林となった。
魔女が身を起こそうとする――
レンジャーの一人が杖を蹴り飛ばす。 別の一人が銃床で横から殴りつけ、 魔法を組む前に地面へ沈めた。
強かった。
恐ろしく強かった。
だが――ようやく数で圧した。
時間切れだった。
モリは息を吐き、銃口をわずかに下げる。
「目標、及び周辺確保。脅威、中和。」
輪入道の焼け焦げた装甲にもたれ、 やっと呼吸が戻った。
「……遅ぇんだよ、ほんとに。イージー中隊。」
隊列から一人が前に出た。
20代後半。 濃い茶の瞳が鋭く、 血と埃に汚れながらも姿勢の崩れない女兵士。
灰青の外套は擦り切れ、 ヘルメットには刻まれた名前や日付が乱雑に刻まれている。 それを理解できるのは彼女だけだろう。
リア兵長が最初に気づいた。 モリは一拍遅れた。
彼女はモリの前に立ち、 影がその姿を覆う。
「……まさか常識を超えるくらい生き延びて、 階級まで上げてくるとはね。 久しぶり、ガキ。」
モリは瞬きをする。 顔の前に来る前に、声の記憶が先に繋がった。
「え、待って……お前……お前って――」
彼女の視線が戦場を流れる。
リア兵長のチーム。
瓦礫で息を切らすスライス。
民間人を支えるリッカ上等兵。
崩れた塔。
倒れた魔女。
損傷した輪入道とその乗員。
「この位置、あんたの分隊で持ちこたえたの?」
リア兵長が背筋を伸ばして頷く。 彼女は低く口笛を吹いた。
「初陣でこれって……化け物揃いだね。」
彼女はモリへ手を差し出した。 戦場の余韻が残る中でも揺らがない、 落ち着いた、揺るぎない手。
「市民権へ一歩前進。悪くないじゃん。 四十四レンジャー隊も、そろそろ足手まといが減る頃だし。」
モリは小さく悪態をつき、 それでも手を取った。 彼女は軽々と引き上げる。
「……まさか、あの時の伍長さんですか? 一年前の……再定住トラックで。」
鼻で小さく笑う。
「トミタ。富田紫苑。イージー中隊、第二小隊――」
肩の階級章を軽く叩く。
「――いまはトミタ軍曹よ、新兵。 階級はずっと前に取ってる。」
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脚注
1) 《レッド・ヒュドラ》作戦
2071年冬にコソボで行われた統一戦争期の激戦である。旧秩序(Old Order)忠誠派の装甲反撃によって複数の連邦大隊が包囲され、氷点下の山岳地帯で補給線を断たれた。背後には、崩壊する前線に取り残された多数の民間人が押し寄せ、状況は深刻な混乱に陥った。
戦闘は、市街地での近接戦闘、砲撃下での大規模避難民救出、そして唯一の脱出路であるカチャニク峠(での攻防によって特徴づけられる。悪天候と避難民の渋滞により航空・軌道支援は不能となり、連邦指揮官たちは“どの行動も壊滅が確定する”選択を迫られた。
峠を守った大隊は遅滞行動と反砲撃を同時に敢行し、大半の民間人の脱出を可能にしたが、部隊そのものは全滅した。この戦闘は後に軍事教範において「一つの谷を救うために、一個大隊が犠牲となった日」 として記録されている。




