ある日の日常③
章の最後に脚注があります。
『旧秩序』と同じく、この学校の屋上も、基本的には生徒が立ち入ることのできない場所だった。少なくとも、公式にはそうだった。
安全面での配慮、あるいは不良行為を抑制するためか、普段から屋上への立ち入りは厳しく制限されていた。
部活動や特別なイベント時には例外が認められることもあったが、ほとんどの生徒にとって、屋上は「立ち入り禁止」の場所に過ぎなかった。特に、セキュリティ対策やIDロックが設置されてからは、その印象はより一層強まっていた。
だからこそ、森田龍己のような人間にとっては、最高の隠れ家となる場所だった。
「……屋上、だなんて……」
リアは小さく呟きながら、階段を上る足が少しだけ遅くなった。考えがまとまるにつれて、眉間にシワが寄る。
「図書館でもなく、中庭でもなく……屋上なんて、全然予想外だったわ。そもそも、私たち、生徒は立ち入り禁止のはずよね?」
カティアのいたずらっぽい笑みは崩れなかった。
「リアちゃん、彼は本当に予測できない人なのよ。静かで、開放的で……たぶん、学校内で一人になれる唯一の場所なんじゃないかしら。」
「それか、地平線を見つめて、ドラマチックに浸ってるとか?」
ナオトはニヤリとしながら茶化した。
「いわゆる、主人公ムーブってやつだよ。」
カティアはクスリと笑い、フォルダで口元を隠すようにした。
「そう言えるかもね……でも、もしかしたらただ景色を楽しんでいるだけかも? 誰にもわからないわね。」
リアの眉間のシワがさらに深くなった。屋上に立つモリタの姿を想像すると、何とも言えない不安が胸に広がる。それは、完全に間違っているとは思えないからこそ、カティアの何気ない言葉が余計に引っかかるのだ。
「……先輩、ずいぶん詳しいんですね……」
リアはじっとカティアを横目で見ながら、刺すような口調で言った。
「……まるで、自分も行ったことがあるみたいに。」
カティアは小悪魔のような微笑みを浮かべ、翼をふわりと揺らした。
「もしかしたら、そうかもね。」
リアは鞄のストラップを握る手に力を込め、かすかな熱が耳元に昇り、足取りを早めた。そして、階段の最上段に差し掛かったところで、急に足を止めた。
目の前には、一本の水平バーが道を塞いでいた。色鮮やかなオレンジのパイロン二つに支えられ、古びた看板が掲げられている。
「これより先、立入禁止」
看板の文字は、風雨にさらされて色褪せていた。その光景を見て、ナオトは深いため息をついた。
「マジかよ……階段まで塞いでるのか?」
手を広げて、諦めたように呟く。
「彼がこれくらいで諦めるわけないでしょ。」
リアは小さく言うと、ナオトの横をすり抜け、素早い動きで水平バーをひらりと乗り越えた。
「ちょ、待てって!」
ナオトは、ため息混じりに声を上げ、仕方なく続いた。その動きは、リアの滑らかな身のこなしとは程遠く、どこかぎこちなかった。
しかし、カティアは一歩も動かない。階段の下に留まり、翡翠色の尾をのんびりと揺らしながら、唇に浮かぶ楽しげな微笑みを隠そうともせず、彼らを見送っていた。
二人が残りの階段を登り切ると、今度は頑丈な金属製のドアが行く手を阻んでいた。その横には、電子IDスキャナーが設置され、赤いランプが一定のリズムで点滅している。
ナオトは目を細め、舌打ちした。
「で、こっちが本命ってわけか! ここで詰み、だな!」
リアは腕を組み、小さな勝ち誇った笑みを浮かべて、下にいるカティアを見下ろした。
「ほら、やっぱり家に帰ったんでしょ? 先輩の勘も、今回はあまり当たってないみたいですね。」
しかし、カティアはすぐには答えなかった。彼女は静かに片膝をつき、カラーコーンの一つのそばにしゃがみ込んだ。翼をバランスよく広げ、カラーコーンの底をそっと持ち上げると、見覚えのあるIDカードを取り出した。
ナオトの目が見開かれる。
「待て……それって……?」
カティアはいたずらっぽい笑みを浮かべ、IDカードを軽く傾けた。学校のエンブレムが薄暗い階段の光を反射し、IDに刻まれた連邦のホログラム紋章がかすかに煌めく。
「モリくんのよ。」
「彼、屋上に来るときはいつも左のカラーコーンの下にカードを隠しておくの。彼なりの習慣なのよ。便利でしょ?」
リアは瞬きをし、勝ち誇った表情が消えていく。
「ってことは……彼は本当に……ああ、やっぱり先輩、ここに一緒に来たことあるんですね。」
カティアはクスリと笑い、スカートの裾を軽く払った。軽やかな動きでバーを乗り越えると、ステップを一段一段上がり、IDカードをスキャナーにかざした。
「ピッ」 という小さな電子音が階段に響き、続いて金属的なロックの解除音がした。
「女の子にはね、秘密があるのよ。」
カティアは茶目っ気たっぷりに言いながら、瞳を輝かせ、ドアを開けたまま待っていた。
「さあ、行きましょう?」
リアは複雑な思いを抱えたまま、一歩踏み出した。まるで砂を飲み込むような違和感が喉を通り、視線をカティアに向ける。しかし、何かを言おうとしたその時、微かに人の声が漏れ聞こえてきた。
カティアはピタリと動きを止め、先ほどまでの遊び心を一瞬で消し去る。リアは首を傾げ、鋭い聴覚を研ぎ澄ませた。ナオトも眉をひそめ、必死に耳を傾ける。
「待って。」
カティアは手を上げ、二人を制止した。翼が緊張したようにピクリと動く。彼女はその場にじっと立ち、耳を澄ませていた。
リアは身を乗り出し、声を潜めながら、ニヤリと笑った。
「へぇ、モリ先輩ってファンクラブまであるのね。先輩は五番目の会員ってこと?」
「失礼ね!」
カティアは鋭い視線を送りつつも、普段の冗談めいた調子は感じられなかった。顎を引き締め、再びドアの向こうに目を向ける。
「あれは……天文部よ。」
リアは驚いて瞬きをした。予想外の答えに一瞬言葉を失う。
「天文部?」
「ってことは、モリ先輩が屋上に入れるのはそれが理由か……」
ナオトは目を見開き、急に腑に落ちたように呟いた。
「ロマンチックなタイプには見えなかったけど……部員だったのか?」
カティアは素早くうなずいた。
「そうよ。モリくんは一年生の時から天文部に入っているわ。部活の許可があるから、屋上にも行けるの。」
「でもね、彼と部員たち……今はあまり仲良くないのよ。」
リアは首を傾げた。
「どうして?」
カティアの翼がそっと背中に寄り添うように折りたたまれ、かすかな影がその表情を曇らせた。彼女はドアを一瞥し、静かに囁いた。
「……聞いてみて。」
三人はさらにドアに近づき、向こう側の会話に耳を傾けた。くぐもった声が漏れ聞こえ、どこか張り詰めた、決して友好的とは言えない調子が感じ取れる。
ドアの狭い隙間から、屋上の光景がかすかに見えた。モリモリタは、錆びついたベンチに腰掛け、背後には高い金網フェンスが立ち並ぶ。その姿勢はリラックスしているように見えるが、表情は読み取れない。
彼の前には、四人の生徒たちが緩やかな半円を描くように立っていた。それぞれの立ち姿は、緊張から敵意まで、様々な感情を映し出していた。
「お前だけの問題じゃないんだよ、モリタ!」
一番近くに立つ少年が腕を組み、わずかに身を乗り出しながら声を荒げた。
「ニュースを見てないのか? 奴らが来たとき、ただボーッとしてるつもりか? もう時間の問題なんだぞ!」
もう一つの声が響いた。短髪の少女から発せられたその声は、さらに鋭く、軽蔑を滲ませていた。
彼女は腰に手を当て、姿勢はピンと張り詰め、その視線はまるで刃のようにモリタに突き刺さっていた。
「彼の言う通りよ。私たちは皆、連邦の一員じゃないの?」
「卒業したら、徴兵に応じるのが義務でしょ?」
「あなたの態度は……私たちの仲間じゃないって言ってるようなものよ。」
「あの彼女のせいなんだろ? あのドラゴナイト¹の女、クソったれめ。」
最初の少年が食ってかかるように言った。モリタの黒い瞳が細められる。その声は静かだが、鋼のような冷たさを帯びていた。
「ドラグーンだ。それに、少しでも頭があれば違いくらいわかるだろう。」
「……今、何て言った?」
「もういい。」
三番目の声が割り込んだ。眼鏡をかけた少年が一歩前に出て、落ち着いたがどこか威圧感のある雰囲気を漂わせながら、手を挙げた。
「こんなことしても、何の解決にもならない。」
「モリ、お前は最初から俺たちと一緒だった。この部活のために、たくさんのことをしてくれた。それを否定する者はいない。」
「でも現実を見ろよ。最近の襲撃や、また失敗に終わった宥和政策のせいで……もう手遅れなんだ。」
「連邦には、俺たちのような人材が必要だ。そして、お前も必要なんだ。それが言いたいだけだ。」
グループの端にいた四人目の人物は、手をジャケットのポケットに深く突っ込んだまま、物言わぬ影のように佇んでいた。
彼は口を開かないが、肩の緊張や、モリタと他のメンバーの間を揺れ動く視線からは、明らかな不安が滲んでいた。
モリタは沈黙を保っていた。視線はゆっくりと全員を見渡し、その表情には相変わらず何も読み取れない。
最初の少年が再び一歩前に出た。その声は静寂を破り、鋭く、信じられないという感情がにじみ出ていた。
「それで終わりかよ?」
「お前はそこに座って、偉そうにしてるだけか?」
「俺たちはみんな、連邦のために、俺たちの未来のために必死にやってるってのに!」
「それで、本気で戦場に行けば状況が変わると思ってるのか?」
モリタは小さく鼻で笑い、首を振った。
「結局、お前もただの名簿の一つに過ぎないんだよ。」
短髪の少女が一歩前に出た。その瞳は怒りの炎を宿し、声は今にも爆発しそうなほど鋭さを増していた。
「自分だけ安全圏にいるみたいな口を聞かないで! 連邦がインプどもに媚び続けて、それで何とかなると思ってるの? この前のことを見たでしょ? あいつらの『和平交渉』なんて茶番よ!」
「私たちの顔に唾を吐いて、笑いながら、正当に手に入れたものまで奪い続けてる!」
彼女の言葉は空気に張り詰め、モリタの目をまっすぐに射抜いた。
「こっちが手を差し出すたびに、あいつらはその手を掴んで、さらに刃をねじ込んでくる。私たちは弱く見られてるのよ、モリタ。連邦全体が、反撃もろくにできない臆病者だって思われてる。」
「前哨基地や植民地で止まると思う? 次は私たちの番よ。この星が狙われる。戦わなきゃいけないの。」
「モリ……俺たちはお前と喧嘩をしたいわけじゃないんだ。でも、俺たちの立場も理解してほしい。」
眼鏡をかけた少年は疲れたようにため息をつき、声にはどこか切実な響きが混じっていた。
「俺たちは、文明の歴史が変わるような分岐点にいるんだ。これは俺たちや天文部だけの問題じゃない。外で何が起きているのか、みんな見てるだろ? 何もしないわけにはいかないんだ。」
モリタはゆっくりと息を吐き、目を細めながら、天文部のメンバー一人一人を静かに見極めるように見つめた。
「連邦に本当に必要なのは、ただの兵士じゃない。」
彼は静かに言った。
「必要なのは、物事を批判的に考えられる人間だ。目的を持って導ける人間、本当に変化をもたらせる人間だ。」
その言葉には、揺るぎない決意が込められていた。
「そして、俺が入隊するかどうか……それは俺自身の決断だ。お前らのものじゃない。」
短髪の少女はじっとモリタを見据え、鼻で笑った。
「個人の責任は、集団の責任……聞いたことない? それとも、自分はその上に立ってるつもり?」
「なるほどね。だからこそ、トライフェクタは絶対なんだ。あんたみたいな人間がいるから、必要になるってわけ。」
眼鏡の少年は手を挙げ、緊張を和らげようとしたが、モリタは動じなかった。二人は張り詰めた視線を交わし、最初の少年は苛立ちを隠せないまま舌打ちした。
「……好きにしろよ。」
そう言い残し、グループは出口に向かって歩き始めた。
彼らの声は苛立ちを帯びた囁きへと変わり、短髪の少女は去り際に何かを低く呟いた。その声には、嫌悪感がにじみ出ていた。
「こっちに来るわ。下で待ちましょう、出て行くまで。」
カティアは緊張を含んだ声でそっと囁いた。
カティア、リア、そしてナオトは、静かに、しかし素早くドアから離れ、階段を駆け下りた。動きは慎重で、音を立てないように細心の注意を払っていた。リアは何気ないふりを装いながら鞄のストラップを調整し、ナオトはポケットに手を突っ込み、横目でカティアを見た。
彼女は翼を背中にぴったりと折りたたんでいる。三人は無言の視線を交わし合い、ちょうどその時、鉄のドアが音を立てて開いた。
足音が階段に反響する。鋭く、意図的に揃ったリズムで鳴り響き、その音には妙な不気味さがあった。さっきまでの囁き声は消え去り、空気を締め付けるような静寂が広がっていた。天文部が現れたのだ。
リアの耳はぴくりと動き、靴音や階段の軋む音まですべてを捉えていた。心臓の鼓動が速くなり、彼女は無意識に視線を過ぎ去る嵐のような気配に向けた。
天文部の存在感は、その場の空間を圧迫するような敵意を放っていた。先頭に立つ短髪の少女は、鋭い目つきで廊下を見回し、まるで誰かが立ち向かうのを待っているかのようだった。
その後ろには、最初の少年が硬い動きで歩いていた。ポケットに手を突っ込み、表情には苛立ちと苦々しさがにじみ出ていた。
ナオトは、眼鏡の少年の視線が一瞬だけ自分に向けられた時、思わず身をすくめた。その目には悪意はなかったが、失望の重さがまるで言葉にしない非難のように感じられた。
最後に現れたのは、グループの後ろをついてくる四人目の人物だった。彼の足取りは他の者たちよりも遅く、慎重だった。彼が通り過ぎる際、肩がナオトにぶつかった。その暗い目は細められ、ナオトを鋭く見つめる。
「……裏切り者。」
静かな声が、空気を裂くように低く響いた。
ナオトは体を強張らせ、拳を強く握りしめた。冷たい汗が首筋を伝い、背中にじわりと広がっていく。リアは眉を鋭く寄せ、その言葉を捉えると、素早く少年の方に視線を向けた。カティアの目も一瞬だけ暗く曇ったが、すぐにため息をつき、翼を軽く揺らして気持ちを落ち着かせた。
しばらくの間、誰も動かないまま、グループが廊下の向こうに消え、足音が徐々に遠ざかっていくのを聞いていた。
「……なんなんだよ、あいつ。」
ナオトは小さく毒づいた。その言葉は棘のように胸に刺さり、頭の中で何度も響き続けた。彼は鋭く息を吐き、肩を落とした。アドレナリンが引いていく感覚に、少しの疲労感が混じる。
「裏切り者……ふざけんなよ。最低な奴らだな。」
「やめて、ナオ。」
カティアは優しさを含んだ静かな口調で言った。
「彼らが怒ってるのは、モリくんに対してよ。あなたじゃない。」
ナオトは息を荒くし、頭を振って小さく呟いた。
「……だからって、腹立たしいことに変わりないだろ。」
「これからどうする?」
リアは静かに尋ね、天文部が消えていった階段の方を見つめたままだった。
カティアは息をつき、少しだけ肩を落とす。ドアに目を戻し、慎重に言葉を選ぶように答えた。
「様子を見に行きましょう。今のは……彼も誰かと話したいはずよ。」
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脚注
(1) ドラゴナイト (DRAGONITE)
異世界に住む竜族の一種であり、ドラゴナイトは巨大なリザードマンのような姿をしている。硬質な鱗に覆われた体、細長い口吻、そして威圧的な翼を持つ。
ヒューマノイドに近いドラグーンとは異なり、ドラゴナイトは伝統主義者であり、竜族の支配と純血を何よりも重んじる。彼らはドラグーンに対して深い敵意を抱いており、「異端者」と呼んで蔑んでいる。
機会があれば、ドラグーンを迫害することもいとわない。
圧倒的な腕力と厳格な階級社会に支えられたドラゴナイトは、純粋な力と、竜族の伝統を裏切る者への揺るぎない軽蔑を体現している。
2025/7/10 - カチャ を カティア に変更しました。ごく小さなこだわりですが、こちらの方が名前の響きが良く感じたためです。