ソウルテイカー④
かつて東京は、FAR-03の冠だった。
政治・行政の中枢——北京、ソウルと並ぶ、地上の心臓部。 戦争がまだ遠い言葉にすぎなかった頃。異界人排斥を叫ぶ過激派の戯言として、誰もが聞き流していた時代。
アカネ伍長は語りでしか知らなかった。
鋼と硝子の塔が夜空のように輝き、磁気浮上式の列車が風を裂き、通勤客が完璧な秩序で並ぶ都市。 ホログラム広告が空を染め、無数のドローンがその間を縫って飛んでいた——と。 故郷の鹿児島とは、まるで別の星の話だった。
いま、その塔は地平線に突き出た折れた歯。
硝子は砕け、軌道は爆撃にねじれ落ち、広告は闇の中で沈黙している。 夜に動くのは、かつて“作り話”だった怪物だけ。
巡回の哨戒を避けるのは、ほとんど単純だった。 イゴールどもは、もとになった獣と同じくらい愚か。
やジャガーノートも知恵こそないが、嗅覚は鋭い——祈りの一つでも捧げなければ、生き残れない。
肌に染みついたE-546の臭気がなければ、もう何度死んでいたかわからない。
頭上でハッチが閉まり、廃墟の街が遮断された。暗闇が一気に押し寄せる。腐臭が混じる厚い闇。 アカネ伍長は、闇に飲み込まれた。
タクライトを点ける。
白い光が小さな円を描き、視界をわずかに切り取る。それでも背筋を冷たいものが這い上がった。
歯の隙間から息を吸い、数珠を指でなぞるように経を唱える。
カービン銃を下げたまま、声はかすれていた。
光が壁沿いのコンクリート通路を照らす。
片側には鈍く流れる汚水の川。
行き先はただ一つ、排水階段——
さらに深く、街の下へ。
階段の脇には木箱が置かれていた。その上には、錆びついたタイプライター。
半ば潰れた収納箱。
保守作業の遺物——だが、それが残っていることが、かえって不気味だった。 まるで作業員たちが、途中で掻き消えたように。
アカネ伍長はオムニリンクを確認する。 北東は行き止まり。進めるのは下だけ。
「よりによって……下水かよ……」
誰にともなく、神にともなく、低くつぶやいた。
頭上から、鈍くくぐもった咆哮が響いた。コンクリート越しに伝わる、腹の底に響くような音。——あれがまだ地上にいる。 だからこそ、彼女はここにいる。 この下で待つものがどんな怪物でも、上よりはマシだ。
階段はそれほど長くない。だが深い。 街そのものを埋めるほどに。 底に着くと、幅の狭いコンクリートの岸が続いていた。 濁った水がゆるやかに流れ、さらに広い水路へと注いでいる。
タクライトの光が水面をなぞる。青い、半透明の塊がいくつも——壁際や流れの中に漂っていた。
スライム。
青く柔らかく、流れに身を任せるようにぷかぷかと浮かんでいる。
「……可愛いじゃん」
アカネ伍長が小さくつぶやいた。
話には聞いていた。飼い主に捨てられ、下水で増えた“迷いスライム”。 まさか自分の目で見る日が来るとは。
「……デトリタス食い。無害」
岸は短く、すぐに途切れた。 残るのは鈍く流れる水だけ。 北東を示すコンパスの針はぶれない。だが梯子も橋も見えない。 道は、ただ闇の中へと伸びていた。
アカネ伍長は舌打ちする。
「最高じゃない……ほんと」
光が流れを横切る。
スライムたちは泥に浸かって揺れ、まるで喜んでいるように震える。 気楽なもんだ、と彼女は眼鏡を押し上げた。
縁から身を乗り出す。
水面に映りはない。
黒すぎて、濃すぎて、底が見えない。 これで胸まであったら、冗談にならない。 光を上流へ滑らせる。
……息が詰まった。
流れの中に何かがあった。青い塊のあいだを、蒼白いものが半ば沈み、ゆっくりと転がっている。
スライムたちはそれに群がり、押し寄せ、絡みつき——まるで舞台の上で遊ぶ子どものようだった。
……
胃がきゅっと縮む。
アカネ伍長は反射的に光をそらした。 見る必要はない。 見たくもない。
銃を胸に高く掛け直し、片足を水の中へ。 冷たさが靴の底から這い上がり、太腿を掴む。
腰まで沈む頃には、酸っぱい薬品臭が鼻の奥に刺さった。
「くそ……風呂入りてぇ……」
声がトンネルに反響する。 汚泥が脚に絡みつく。 銃をさらに持ち上げ、前へと押し進む。
「思い出せ、アカネ……三途の川の方が冷たいってな……」
まだ足は底を捉えていた。
流れはゆるいが、確かに脚を引く。 冷たい水がタンクトップを叩き、光が上流と下流を往復する——
……止まった。
まただ。
あの白い影。 今度は、もっと近い。
流れに身を任せ、ゆるやかに転がってくる。 半ば沈み、手が届きそうで届かない。
ゴミにしては大きすぎる。
流木にしては静かすぎる。
生き物……か?
昔、子どもが下水に流したペットが、いまや巨大化して這い出してきた——そんな噂も思い出した。
胃がねじれる。
脳裏に、くだらない伝承が浮かぶ。 ミアリング。ユカーリスト産の巨大なオオサンショウウオ。
獲物を誘う光を垂らし、肉を骨ごと削ぐ捕食者。 運悪く水面の下へ落ちたものは、二度と戻らない——そう言われていた。
……
何だってありえる。
「……動くな。ゆっくり歩け……」
アカネ伍長は足を速める。 水が激しく割れ、跳ねる。 息が歯の間から漏れる。
祈りが混じる。
「……南無……清浄……魔境……」
白い影が、速くなった。 流れに乗ったのか、それとも——彼女を追っているのか。
「やばいやばいやば……!」
祈りの合間に罵声が混じる。
滑る。
長靴の底がぬめった床を捉え損ねた。 泥水が跳ね上がり、腐臭が喉を突く。 口に入る。吐き出す。酸味と鉄の味。
前方に岸。 助かる。そこまで——
息を荒げ、手を伸ばす。
指先が縁を掴む。
必死に体を引き上げ、コンクリートに転がり込む。 泥まみれの靴が地面を削り、胸が上下する。
さっきまでいた場所を白い影が流れていった。
光がそれを捕らえる。
アカネ伍長の腹が凍る。
ミアリングではなかった。
——願わくば、そうであればよかった。
「死体」だった。
異界人。エクエストリア種。
皮膚は蝋のように白く、手足は弛緩し、目は濁っている。 流木のように漂い、顔は恐怖に固まったまま。
青いスライムたちが群がっていた。 ぬるり、ぷちり——音を立てながら吸いつく。 ゼリー状の体が脈打ち、分裂し、また食らいつく。
ただの掃除屋。
だが食われているものは——
生気を抜かれ、空になり、最後の悲鳴を顔に刻んだまま腐りゆく“人”。
……
アカネ伍長はよろめき、脇へ吐き出した。 あれに触れそうだった。ほんの数秒前まで。
「……っ、オーケー……オーケー……」
背を壁に預け、息を整える。
「……作戦が終わったら、この服は燃やす。決定。」
手袋の甲で口を拭う。 酸っぱく苦い吐き気が舌に残る。 短い呼吸しかできない。 腐敗と薬品の臭いが喉を焼く。
「……行け。まだ終わってない……」
アカネ伍長は足元を確かめながら体勢を整えた。 銃を構え、オムニリンクを掲げる。
画面がちらつき、ノイズが這い上がる。
「……やだやだやだ、うそだろ……」
濁流に落ちた衝撃で、内部がやられたのだ。
ブツッ、と鋭いノイズ——そのまま、真っ黒。
死んだ。
胃の底が沈む。
「……あたし、前世で何やった?」
北東。
最後に表示されていた方角を、頭の中に叩き込む。
北東。
息を整え、タクライトを点けた。 細い光の筋が闇を割る。 天井灯はすべて死んでいる。
保守は放棄され、電力網は連邦の爆撃で焼かれた。
「……ったく、神様もいじわるすぎ」
呟きながら前進する。 片手で壁をなぞり、足場を確かめる。 コンクリートは冷たく濡れ、手袋越しにも滑り気が伝わる。
やがて、鉄扉が現れた。 錆にまみれ、蝶番が湿気で膨れている。 黒いステンシルでこう記されていた。
BASIN-42
その下に、赤く滲んだ雉の紋章。 血のように乾き、剥がれかけている。
「……NGDのマーク……」
ほっと息をつく。
「……ってことは、ルートは合ってる」
扉の先、通路はさらに狭まっていた。 肩幅ぎりぎり。 壁に沿って並ぶ鉄管から、絶え間なく水滴が落ちる。 タクライトの光が湿った壁を這い、やがて別の水路へと開けた。
アカネ伍長は上流へ向きを変える。
水は足首ほど。 流れは早い。 一歩ごとに波紋が広がり、反響がトンネル全体を包む。 その音が、やけに大きい。
「……ほんと、バカだなあのジジイ……」
呪いのようにぼやきながら進む。 冷たさが靴底から滲み、靴下の感触が嫌に重い。
——あとで替えが欲しい。倍払ってでも。
光が壁をなぞる。 無数の衝突痕。 黒い焦げ跡が放射状に広がっている。
連邦の10mm無薬莢弾。
狙い撃ち。
訓練された射撃。
自分が最初の兵じゃない。
「……パスファインダー部隊か」
眼鏡を押し上げながら呟く。
「撃ち合ったばかり……距離は、そう離れてない」
アカネ伍長は、視線を前方の通路に走らせた。
パスファインダー部隊の仕業だろうが、奴らに隠密行動なんて言葉はない。 痕跡はあまりにも露骨だった。 空になったマガジンがコンクリートの上に散乱し、壁には銃弾の痕が縫うように刻まれている。
――イゴールども。
あるいは、その“なれの果て”。
上流へ進むほど、光景はひどくなっていった。
通路の中央、流れを塞ぐようにイゴールの死骸が折り重なっている。 腕のないもの、胸を裂かれたもの。 黒い油のような体液が水面に虹色の膜を張り、ゆっくりと流れていた。
青いスライムが死骸に群がっていた。 光を受けてぷるぷると震えながら、肉を啜り、裂き、飲み込む。 その身体が鼓動のように脈打つたびに、ぶよぶよと分裂し、小さな個体が増えていく。 流れに乗り、また別の獲物へと向かっていく。
アカネ伍長は息を殺した。
死体の群れの中に、人の姿が混じっている。
連邦の戦闘服。 喉を錆びた槍で貫かれ、直立したまま、壁に縫いとめられていた。
腕章には、泥の下でもかすかに見えるNGDの紋章。
「……群れにやられたか。運の悪い先頭だな。」
独り言が空気に溶けていく。
痕跡はさらに続いていた。 別の通路の入り口に、もうひとり。 胸を束ねるように突き刺さった数本の槍。 その手の先には、古いM7〈グレイヴ〉。 指先は銃に届かず、床には薬莢が祈りのように散らばっていた。
彼もまた、最期まで戦っていた。
アカネ伍長は光を先に向ける。 水は膝に達し、ぬるく、重く、流れが速い。 壁際に、ひとつの人影が見えた。 喉がひきつる。
そっと近づき、父から教わった通り、祈りの言葉を唇の奥で唱える。
――パスファインダー。
若い。20代半ばか。
装甲服は血と煤で黒ずみ、胸部は何度も切り裂かれていた。 その腕章には、戦闘ナイフと呪文帯をあしらった紋章。
第44強襲レンジャー連隊。
ブリーフィングで名前を聞いた部隊だ。 本隊に先駆けて敵地に投入される斥候。
先陣を切る者たち。 その一人が今、闇の中で無残に横たわっている。
アカネ伍長は眉を寄せ、傷口を見つめた。
「……なんだ、この傷。槍じゃない。刃物でもない。獣か……?」
彼の銃は、消えていた。
その先、通路はT字に分かれていた。
突き当たりの壁に、もうひとりのパスファインダーがもたれかかっている。 ヘルメットは粉砕され、頭を垂れたまま動かない。
血の跡は――あちらだ。
アカネ伍長は光を向け、カービンを低く構える。 イゴールの群れを止められた彼らが、ここで何か別の“もの”にやられたのなら。 それが今も、この暗闇に潜んでいるのなら。
上の配管から、ひとしずくが落ちる。 三十メートルもないはずの通路が、光の中では無限に伸びて見えた。
行くしかない。
血の跡を追え。
一歩、踏み出す。
水の上を踏むたび、靴底が静かに鳴る。 この狭い空間では、その小さな音でさえ耳に刺さるほど大きかった。
天井から、何かが落ちた。 ぶより、と湿った音。 青いスライムが床に広がり、筋肉のように身をうねらせて進み出る。
下水鼠が悲鳴を上げ、水をかき分けて逃げる。 スライムは一度だけ身を震わせると、アカネ伍長の足元をすり抜け、ねっとりとした動きでその後を追った。 二つの影は、背後の闇へと消えていく。
――半分ほど来た。
うなじが粟立つ。 死体は動いていない。
……はずなのに、闇そのものがわずかに“揺れた”気がした。
もう一歩。
さらに一歩。
ライトの光は変わらず――
死体の姿がぶれるように消えた。
アカネ伍長は息を呑み、反射的にカービンを肩に構えた。 脳が理解を拒む。見たはずのものが、そこに“いない”。
……
配管が唸る。
水面に波紋が広がり、壁に黒い染みがじわりと広がっていく。
心臓が暴れる。 逃げたい。撃ちたい。
――どちらも、身体が拒絶した。
進める道は、もう一つしかなかった。
「……な、なむ……しょう、じょう……まきょう……」
経が唇からこぼれる。 途切れ途切れに、噛み砕かれたような音で。
一歩。
さらに一歩。
通路の突き当たりに背を預け、そっと体をずらして覗き込む。
……
――死体は、消えていた。
残されていたのは、一枚の黒い羽根。
烏のものだ。血に濡れ、固まり、床へと赤い筋を引きながら左の闇へ続いている。
右の通路から、かすかな風が頬を撫でた。 生臭く、酸っぱい――腐肉が長く晒されたような匂い。
壁にうすれて見える黒いステンシル。
BASIN-42。
左側には、床いっぱいに血の跡が走っていた。 壁の角を曲がり、さらに狭い通路へと吸い込まれていく。 その上に、擦れた文字が読めた。
整備管理区画。
羅針盤は失われ、オムニリンクも沈黙した。 残っているのは――血の道だけ。
パスファインダーたちが辿った跡なら、それが唯一の正解だ。
「……整備区画、行こうか」
呟いて、左へ踏み出した。
コンクリートの床は血で赤黒く光っている。 油のようにぬめり、溝の間に黒い筋を描いていた。 薬莢が散らばり、欠けた歯のように光を反射する。 壁には弾痕。数、乱れ。
ここで激戦があった。
上のパイプから、シューッと蒸気が吹き出す。 熱気が頬を打つ。 反射的に身を引いたアカネ伍長は、呼吸を半分のところで止めた。 吸うことも、祈ることもできない。
光を前に滑らせる。 破れた布切れ。 片方だけのブーツ。
そして白く、やわらかい――かつて“誰か”の一部だったもの。
確かめる前に、視線を逸らした。 通路は進むほどに狭まり、匂いが濃くなる。
鉄の味、血の甘さ、焼けた肉の残り香。 喉の奥が焼ける。
突き当たりに、扉。
鋼鉄製。わずかに開いている。 光を当てると、隙間が黒い水面のように震えた。
アカネ伍長は、慎重に一歩を踏み出した。
もう一歩。
――何かが、扉の向こうで動いた。
濡れたものが擦れる。柔らかく、ゆっくりと。
……咀嚼の音。
肉をすり潰すような、湿った音が、静寂の底を掻き回す。
三歩手前で止まった。
別の音。
息のような――いや、違う。 息を止める。引き金に指をかけたまま。
咀嚼が止む。
……。
扉が動き始めた。
鉄がコンクリートを擦る微かな音。
隙間が――ゆっくり、まるで意思を持つように――閉じていく。
最後に、乾いたカチリが響いた。
音が戻る。
動けない。息もできない。銃口を扉に向けたまま、鼓動の音だけが世界を満たす。
一呼吸。
二呼吸。
頭の中で経を唱える。
胸元のライトが息に合わせて震え、扉の縁を小刻みに照らした。 まるで光そのものが怯えているように。
一歩。
また一歩。
濡れた床が囁く。
手袋の指先が、鉄の取っ手に触れる。 冷たい。滑る。微かに震えている――まるで、向こう側の何かが呼吸しているみたいに。
取っ手を下げ、足でそっと押した。 鉄が軋む。 喉が締まる。
「……!」
経の言葉が喉で途切れた。
息が止まる。
隙間が、ほんの数センチだけ開いた。
――臭いが、先に来た。 湿った鉄。胃液。
腐った果物のような甘ったるさ。
光が床をなぞった。
ブーツ。
ライフル。
裂けた装備ベルト。
……身体。
レンジャーたち。六体。
その上に、何かがうずくまっていた。
ライトが触れた。 反応はない。 聞こえるのは――柔らかく、一定のリズムで。 肉が引き裂かれ、骨が歯に擦れる音。
喉が詰まった。 扉の前で止まる。銃を構えたまま、息を殺す。
光がゆっくりと上へ這い上がる。
――喰っていた。
頭蓋が、果物のように割れている。 中身の半分が消え、 その“何か”の口が、そこに埋まっていた。
噛む音。吸う音。
ちぎれる音。
幼児めいた、無垢で残酷な咀嚼。 引き金にかけた指が、痙攣する。
……。
咀嚼が止まった。
ひとつ。
またひとつ。
影が立ち上がる。
――ぱきん。
――みしり。
――ばき。
関節と硝子と骨が、いっせいに軋んだ。 皮膚が波打ち、肉が再び編まれていく。 鎧が滲み出す。肩章、装甲、滴るヘルメット。 数秒のうちに、“人間”の形へ戻っていった。
一つの兜の側面に、黒い鴉の羽が張り付いている。 顔を上げた。 顎が、不自然な角度で動いた。
「……上等兵、オクダ。報告します。」
部屋の奥で、他の五体も続く。
ゆっくりと立ち上がり、 肉を借りたような顔で、同じ言葉を繰り返した。
「報告します。」
「報告します。」
「報告します。」
「報告します。」
「報告します。」
声が重なり、歪んでいく。 ずれたタイミングで、ぴたりと揃う。
一斉に――こちらを向いた。
六つの首が、同時に。 六対の空洞の瞳が、光を捉えた。
誰も、動かない。
……最初の一人が、笑うまでは。
「……あぁ、クソッ――」
光が弾けた。
アカネ伍長の目が追いつく前に、 “それ”はもう目の前にいた。
反射だけが動いた。 身体がのけぞり、銃口が跳ね上がる。
風が裂けた。
――爪だ。
顔のすぐ横を掠め、 メガネが弾け飛ぶ。 頬に焼けるような痛み。
金属が転がり、 床で滑って、
――闇。
視界が、消えた。 ライトごと、持っていかれた。
「うあああああッ――!」
反射で引き金を引く。 銃が吠える。 閃光が闇を刻む――壁、兜、歪んだ笑み。 一瞬ごとに、奴らが近い。
――カチン。
弾切れ。
闇が叫び返す。金切り声の渦。装填してる暇なんて、ない。
踵を返した。
走る。
コンクリートを叩くブーツ音。 鼓動より速い。 背後で、奴らの叫びが追う。
近い。近すぎる。
空気が震える。 世界そのものが、悲鳴を上げている。
走る。 ただ、それだけ。
壁に手をついた。 ざらついたコンクリートが手袋を裂き、 ボルトが掌を削ぐ。 痛みなんて、どうでもいい。
止まれない。
トンネルが曲がった。
……いや、違う。
曲がったのは自分だ。 もう何も見えない。音だけ。
ベルトからマガジンを引き抜く。
手が滑る。
プラスチックが濁流に落ちた。
チャポン、と間抜けな音。
消えた。
「くそっ……くそっ、くそっ!」
もっと速く。
影のような配管が脳裏をよぎる。 どれだけ走ったか、わからない。
――足元が、消えた。
踏み外した。 冷水が全身を叩く。 膝までの水。重く、濁った臭気。 顔に跳ねた汚泥が喉を塞ぐ。 咳き込みながら、銃を抱えたまま立ち上がる。
後ろから、足音。
奴らの。
「……来るな、来るな……!」
斜面をよじ登る。 息が荒い。肺が焼ける。 トンネルが開けた――たぶん、さっきの広間。もう判別もつかない。
マガジンを叩き込む。
――カチン。
音が、救いの鐘のように響いた。肩が軋む。 心臓が爆ぜる。背後で、闇が息をした。
また足音。
振り返る。 撃つ。闇を裂く閃光。 銃口の閃きが一瞬、影を刻む――
伏せる影、撃ち返す閃光。
空気が悲鳴を上げた。 青い弾痕が頬を掠める。アカネは再び走った。 もう方向なんて関係ない。 ただ“逃げる”という命令だけが残っていた。
膝が鉄にぶつかる。 白い痛みが脳を焼く。 それでも走る。 水が脚を絡め、呼吸が喉を裂く。
一歩ごとに、世界が遠のく。
「アサヒッ!」
声だ。
男の。
前方から。
本能が叫んだ。
合言葉。
……喉が動かない。
もし敵に知られていたら――?
「アサヒ! 聞こえねぇのか、アサヒ!」
胸が跳ねた。
息がもつれて、言葉が弾けた。
「――フジッ!!」
「伏せろッ!」
考えるより先に体が動いた。 濁った水へ身を投げる。 腐臭も、冷たさも、もうどうでもよかった。
一秒遅れて、闇が爆ぜた。
青い閃光がトンネルを裂く。 規律ある三点射。 壁を、影を、何かを、正確に削っていく。 『セミ』の咆哮が響き、世界を埋め尽くした。 悲鳴が、途切れた。
「撃ち止めっ! 撃ち止め!」
声が近づく。
「周囲警戒! ツジ、前方! シロガネ、反応を拾え!」
足音が水を叩く。 そのうちの一つが、すぐそばで止まった。
アカネ伍長は顔を上げた。 薄闇の中に、はっきりとした輪郭。
連邦軍の兵士――
差し出された手。
「第44強襲レンジャー連隊、第3分隊。モリタ・タツキ伍長だ。
……大丈夫か?」
しばらく、言葉が出なかった。
声も、涙も、もう枯れていた。
――悪夢は、まだ終わっていない。
けれど。
何時間ぶりかで、 それをひとりで背負っているわけではなかった。
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作者コメント
編集と修正に時間をかけていました。お待たせしてすみません。品質確認のため、開始時刻を30分後ろに調整しました。
―メグメル




