アッシュフォール③
章の最後に脚注があります。
「ナオトォォォッ!!」
フェイドの慟哭が空気を裂いた。
羽田宇宙港第1ターミナルが応える。
砕けた窓、裂けた壁から金属の足音があふれ出す──速く、重く、近く。
コウタ上等兵は〈セミ〉を肩に食い込ませ続けた。蒼白の弧光が迸る。電磁衝撃が耳を打ち、鼻腔にはオゾンの鋭い臭気。
短く、正確に。
無駄撃ちはしない──許されない。
奴らは止まらない。次から次へと湧いてくる。
イゴール。
右隣ではエレナ上等兵。
一発ごとに敵を仕留める、完璧な射撃。 左隣ではオオサカ上等兵が怒鳴りながらヘルメットに叩きつけるように通信を飛ばしている。背中のAETHERから火花が散る──気づいていない。
いや、気にしていないのか。
その先ではモリタ伍長がフェイドを押し留めていた。 彼女は伍長を突き飛ばそうと必死だ。
戻ろうとしている。
あの殺戮地帯へ。
倒れた彼のもとへ。
木下上等兵。
──“餌”。
仰向けに倒れ、伸ばした片腕は銃へと届かない。
わずかに外れた遮蔽の向こうで、銃火の閃光が蒼く彼の顔を照らす。
群れが覆いかぶさった。錆びた爪、節くれだった鉤爪が幾度も幾度も叩きつけられる。やがて──何も見えなくなった。
小一大尉は羽田の滑走路にすら辿り着けなかった。
生駒中尉とユウナ軍曹──行方不明のまま。
フジワラ上等兵はやられた。
あの突撃から戻ったのは、フェイドただ一人。
着陸作戦は、完全な惨状だった。
オオサカ上等兵はなおもヘルメットの送信機を叩き続けていた。だが仮配線したAETHERのコイルがついに焼き切れ、火花は止む。
──ようやく彼自身も異常に気づいた。だがそれは決して“良い兆候”ではなかった。
フェイドはなおも伍長の腕の中で暴れ続けていた。声が枯れるほど叫び続ける──返るはずのない名を。
モリタ伍長は彼女を見ていない。
視線はその先──LZ-Sの上空に漂う黒煙へ。鋭く短い言葉を、士官回線に叩き込んでいた。
もはや“分隊”など存在しない。
立って撃てる者だけが残り、銃身を焦がすまで引き金を引き、知らぬ顔と肩を並べて一歩ずつ退く。
それでも倒れていく。
一人、また一人。
時には三人まとめて。
人間。異界人。地球生まれ。フェイド。
何の違いもなかった。
血を流し、同じように叫び、同じように祈った。
罵倒し、助けを乞い、そして……ただ“家”や“母さん”を呼ぶ声だけが残った。
このままでは──
……
いや、考えるな。
必ず耐え抜く。
耐えねばならない。
コウタ上等兵の次の射撃が、飛びかかってきたイゴールの群れを切り裂いた。
着弾の閃光が白い花のように瞬き、火花を散らして先頭の一体が痙攣しながら崩れ落ちる。
背後がわずかに怯んだ──その隙に薙ぎ払う。
サーマイト弾。
残酷で、美しく、そして終焉をもたらす弾丸。
〈セミ〉が乾いた音を立てて空になった。
新しいベルトボックスを叩き込み、チャージレバーを引き、側面を掃く──
──凍りついた。
錆びた槍、噛みつく顎、鉤爪の群れの中。
ひときわ大きな影が歩んでくる。
高く、分厚い。
その歩みに合わせ、群れは水を割るように退き、歓声を上げるように金切り声を張り上げた。
まるで“闘士”を称えるかのように。
シミュレーションにはなかった。
コウタ上等兵は〈セミ〉をその影に向け、引き金を絞る。 蒼白の弧光が殺戮地帯を縫う。
だがその姿は滲み、揺らめき、弾丸をすり抜けた。あるいは剣で弾き、あるいは盾にしたイゴールを粉砕し──そして再び現れる。
近くに。
さらに近くに。
腹の底が氷に変わる。
「エリーッ!!」
声が喉を裂いた。
「左だ──騎士のクソッタレ、そこだッ!!」
「騎士……? 何を言って──」
エレナ上等兵の声が途切れた。すぐさまスコープに身を滑り込ませる。
「……ああ。見えましたわ。」
鋭い銃声が三度。その影は怯まない。
ただ身を傾け、体を軸に回し、放たれた弾丸を幻に変えた。
一発は兜の横を虚しく掠め、もう一発は甲高い金属音を立てて弾かれ、最後の一発は最初から狙いを失っていたかのように空を撃つ。
歩みは止まらない。 一歩ごとに、間合いが消えていく。
「外しただとッ!?」
「わたくしは外しませんわ!」
エレナ上等兵が鋭く言い放ち、さらに二発。
結果は同じ。
流れるように弾かれ、まるで初めから存在しなかったかのように逸らされる。
「……おちょくられてますわね。」
さらに二発。
騎士は霞み、弾き、身を翻す。エレナ上等兵が外すなど、本来あり得ない。
一発も当たらない。
「掠りすらしない──!」
奴は歩を進める。
その周囲にイゴールが群がり、楔形陣を組んだ。 側面を守り、道を切り拓き、一直線にこちらへ迫る。
コウタ上等兵はヘルメットのマイクを叩いた。
「接触──騎士、左方360メートル! 全火線集中ッ!!」
ライン全体から火線が走る。鋼鉄に降る雨に等しかった。 全ての弾を受け流し、逸らし、正確に舞うように。
まるで弾幕を誘い、こっちのベルトボックスを空にさせる気だ。
──兜がこちらを向いた。
肩撃ち式オートカノン¹を構える分隊。正面右寄りの位置へ。
刃が振り上げられ──
──空を裂いた。
蒼白の弧光が轟音と共に走り抜け、陣を薙ぎ払う。
肩載せオートカノンの射手、その装填手、そして不運にも巻き込まれた小銃兵。
三人まとめて、胴から真っ二つに断たれた。
一人だけが生き残った。
バイザーは血に塗れ、衛生兵のパッチが傷に覆われてかろうじて見える。彼はよろめきながら立ち尽くし、仲間の“断片”をただ見つめるしかなかった。騎士が向きを変える──陣の左へ。
別のオートカノンが咆哮し、空中炸裂弾がイゴールを金属と体液の霧に変えた。
その巨影は煙の中を歩くように突き抜けてきた。
再び刃が上がる。
──もう一閃。もう一薙ぎ。
閃光に触れた者は、射手も、その周囲の兵も、まとめて折り畳まれたように崩れ落ちた。
残りの兵は無秩序に後退した。五歩も進まぬうちに群れが覆いかぶさった。まずは遅い個体。続いて奔る大群。金属を裂く音。肉を裂く悲鳴。
──残されたのはそれだけ。
それでも巨影は歩を止めない。
死体を踏み越え、炎を越え、一直線にこちらへ向かってくる。
コウタ上等兵の手が〈セミ〉を強く握り締めた。次の射撃が蒼光を鎧の胸板に刻む──だが煙に触れたかのように掻き消える。エレナ上等兵ですら、一発も当てられない。
四十メートル。三十メートル。
コウタ上等兵の鼓動が耳の奥で炸裂していた。
「ストーム・パターン、デルタ・スリーッ!!²」
モリタ伍長の声が轟音を裂いた。鋭く、噛みつくほどの力で。
──訓練が体を動かす。
手が本能のままに動く。
コウタ上等兵は〈セミ〉を手放し、掌が衝撃手榴弾の滑らかな縁を掴んだ。引き抜き、親指でピンを弾く。
周囲でも金属音が重なる。安全装置が外れる乾いた音──エレナ上等兵、オオサカ上等兵、そして伍長までもが、無言のまま同じリズムに乗る。
四つの手榴弾が同じ瞬間に宙を舞った。 鈍色の塊が弧を描き、最前線を越えてイゴールの群れと、その先頭に立つ騎士へと消える。
最初の爆発。白光。歯が軋むほどの衝撃波。
続けざまに三つ。
空気そのものが押し潰されたかのように沈む。 圧力がコウタ上等兵の胸を打ち抜き、耳に絶叫を残した。
イゴールたちが突進の途中で凍りつく。四肢を痙攣させ、糸の切れた人形のように。
その中でさえ──騎士の歩みが一瞬だけ淀んだ。
ほんの一歩。
肩を揺らし、次の瞬間には再び前へ進み始めていた。
モリタ伍長は迷わなかった。フェイドの腕を掴み上げ、強く揺さぶる。
ヘルメットの頂部でこめかみを小突く──頭蓋を砕くには足りないが、我を取り戻させるには十分。
「起立せよ、兵長ッ!! 今すぐだ!!」
瞳が瞬きを繰り返し、怒りが晴れて正気が戻る。
伍長はすぐに生き残った兵たちへと振り返った。
「戦闘的後退でLZへ! 間隔を保て! 後退戦でLZまで!」
命令を疑う暇も、誰が指揮を執っているかを問う余裕もない。
コウタ上等兵の体は、頭が追いつく前に動いていた。エレナ上等兵と並んで後退に入る。 彼女が援護している間に自分が下がり、自分が撃っている間に彼女が下がる。訓練が刻んだ動き。
短い躍進。停止して射撃。決して相棒を取り残さない。
悲鳴と銃声が追ってくる。
一歩ごとに、弾丸と血と、そしてLZまでの距離を削る秒が代価となる。騎士とイゴールの群れは執拗に迫り、誰かが躓けば即座に間合いを詰める。
──奴らが迫るたび、同じパターンが繰り返された。
「ストーム・パターン、デルタ・スリーッ!!」
再び衝撃手榴弾が弧を描く。
今度は四つや五つではない──嵐のように。
モリタ伍長の声は決して揺るがない。
リズムを刻み、躍進を指示し、倒れたレンジャーの穴を埋める。 ただの意志か、あるいは盲運か。 いずれにせよ、陣形は崩壊しなかった。
やがて滑走路の誘導灯──LZ-Sの明かりを踏み越えた時、コウタ上等兵の脚は鉛のように重く、〈セミ〉は焼けつくように手に食い込んでいた。
二個中隊──フォックス、そしてジョージ。羽田宇宙港へ投入された。
0143時点で、FIONAが確認した両中隊の将校および上級下士官は全員戦死。 0200には、両中隊とも戦闘継続能力を失い、散在する生存者の小集団へと瓦解。
──一つの任務目標すら達成できなかった。
残された指揮権はただ一人の男に。
伍長に。
彼らの伍長に。
コウタ上等兵は一瞬だけエレナ上等兵と目を合わせた。
そこには同じ現実が映っていた。
この時ばかりは──モリタ伍長の指揮に、誰一人として異を唱えることはなかった。
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脚注
1) ESK-15(エレクトロマグネティッシェ・シュルターカノーネ, 15mm/15ミリ電磁肩部機関砲)
OKHディフェンス社が開発した、対物および軽装甲目標用の肩載せ式15ミリ電磁オートカノン。
15×120mmプログラム弾を使用し、徹甲(AP)、榴弾(HE)、空中炸裂といった多様な機能を切り替え可能。
標準ベルトボックスは12発ドラム式。
2) ストーム・パターン・デルタ(STORM PATTERN DELTA)
対象区域を同時多発的な爆発で飽和させるために行われる協調グレネード投射。
全ての兵士は所持する手榴弾、あるいは同等の火器を同期して投擲し、爆風効果の重複を最大化する。
コードワード〈STORM〉が発令されると追加許可なしに即時実行可能。
デルタ-3は制圧用の衝撃手榴弾を用いる指定を意味する。
――連邦軍歩兵教範 第4.7.3節「エリア拒否:グレネード・ストーム」より抜粋




