ある日の日常②
章の最後に脚注があります。
静かに満ちていた穏やかな空気は、椅子の脚が床を擦る音、鞄を肩に掛ける音、そして放課後の予定や部活の話で盛り上がる生徒たちの賑やかな声へと塗り替えられた。
「そろそろ部活に行く時間じゃないか?」
ナオトは気だるげに椅子にもたれかかりながら、幼馴染をじっと見つめて尋ねた。
リアは椅子の後ろに立ち、静かに荷物をまとめていた。ひとつひとつ丁寧に鞄へと収め、最後にファスナーを閉める。その間、ナオトの声に耳がピクリと動き、自然と彼の方へ視線を向ける。
小さく微笑みながら、リアは落ち着いた動作で鞄を閉じた。
「ナオくん、冗談でしょ? 今日は何曜日?」
「金曜……あっ。」
「正解。」
リアは軽くからかうような調子で言うと、ナオトは姿勢を正し、バツが悪そうに首の後ろをかいた。
「剣道の練習は水曜と土曜。つまり、今日はさっさと帰るか……もしかしたら、嘉信羅先生の宿題を珍しくちゃんと終わらせるチャンスかもね?」
ナオトはため息をつきながら目を逸らし、笑い混じりに肩に鞄を引っ掛けた。
「なあ、俺がここまで ズルズル引き延ばせば、嘉信羅先生もさすがに『これこそ本当の犠牲』って認めてくれるんじゃないか? まあ……考えとくよ。夕飯の後に。たぶん。」
「朝のHR前に慌てて終わらせるのはカウントしないからね。」
「終われば一緒だろ?」
ナオトは肩をすくめ、いたずらっぽく笑った。
リアは呆れたように目を回しながらも、微かに微笑み、鞄のストラップを調整する。そのまま教室を出ると、ナオトも隣に並ぶ。
廊下には生徒たちの賑やかな声が飛び交っていた。部活の話で盛り上がる者もいれば、靴箱へ向かい急ぐ者もいる。
「それで、明日の練習なんだけど……。」
ナオトがニヤリとしながら話を振る。
「来るのか? 上級生の何人かはボイコットするって聞いたぞ。一年生の中にも便乗する奴がいるらしい。」
エルフの少女は横目でナオトを見ながら、呆れと苦笑の入り混じったような仕草を見せた。
「半分の部員が私のポジションに納得してないからって、別に逃げる理由にはならないわ。練習に出ないのは彼らの勝手。私の知ったことじゃない。」
ナオトはくつくつと笑う。
「まあ、それはそうだけどな……。でも『半分の部員』どころじゃないぞ? 一年生まで文句言ってたらしいし、何より、『あの試合はただの親善試合だったのに、クラブのアイドルで次期キャプテン候補を獣みたいに倒した』って話になってる。」
「……いや、悪気はないぞ?」
リアは黙って聞いていたが、その顔にはどこか "わかってる" というような、含み笑いが浮かんでいた。
「最初から余計なこと言わずに、大統一後の試合ルール¹で勝負なんて挑まなければ、少しはプライドを守れたかもしれないのにね。」
リアは鞄のストラップを軽く引き直し、からかうように口元を吊り上げた。
「それに、不満があるなら 大石先生 に言えばいいでしょ? 私としては、大歓迎だけど。」
ナオトは吹き出すように笑った。
「そりゃまあ、自業自得だけどさ……でも、もうちょい手加減してやってもよかったんじゃねぇの? お前のあの体当たり、完全に吹っ飛ばされてたぞ。まるでジャガイモ袋みたいにな! しかも、お前、あいつの半分の体格なのに!」
リアの唇の端が、楽しげにわずかに上がる。
「徹底するのも修練の一環よ、ナオ。立っていられなければ負け。それがルール。そしてルールが教えるのは、規律と鍛錬よ。」
ナオトは肩をすくめ、苦笑しながら両手を軽く上げてみせた。
「はいはい、お好きにどうぞ、副部長殿。」
リアは鞄のストラップを握り直しながら、一定のペースで歩き続けた。その足音は静かな廊下に微かに響き、どこか意図的な重さを感じさせる。
彼女の栗色の瞳が、一瞬だけ学校の鉄柵の向こうへ向けられた。そこには、温かな夕暮れの光に包まれた静かな住宅街が広がっていた。
まるで別世界のような、穏やかな調和の風景――手を伸ばせば届きそうなのに、ほんの少しだけ遠い。
彼女の耳が微かに動く。何も聞こえないはずなのに、まるで風に乗った囁きを拾うかのように。リアは鞄を少し持ち直し、廊下の窓ガラスに映る自分の姿をちらりと見た。
栗色の髪が頬を縁取る。その色は、金や銀に輝くエルフたちの髪とは対照的だった。 栗色の瞳――彼らの鮮やかな瞳とはまるで異なる色――は、はっきりと映る自分の影を見つめていた。
長い耳。滑らかな輪郭。それが何より、自分自身を明確に形作っていた。
「純血じゃない、だけど……」
不意に浮かんだ考えが胸を刺す。指先が長い耳の先端をそっとなぞる。確かめるように、疑問を抱く余地すらない事実を。
「……半端者でもない。」
エースの言葉が刃のように心を切り裂く。認めたくはなかったが、その重みは、思っていた以上にのしかかる。
彼にとっては、まだ楽だったのかもしれない。短い耳、広い顔立ち――曖昧さのない存在。誰にも問われることのない、揺るぎない立場。
窓に映る自分の姿は、蛍光灯の下でどこか誇張されていた。それは挑戦のように映り、けれど、どう答えればいいのかわからなかった。
「リア?」
ナオトの声が思考を断ち切る。エースの言葉の重みが、煙のように薄れていく。
彼女は瞬きをし、隣を歩くナオトを見た。彼の笑顔は、少しだけ柔らかく、そして、どこか心配そうだった。
「大丈夫か? ちょっとボーッとしてたぞ。」
「平気。」
リアは鞄のストラップを握る手に力を込め、無理やりナオトの方へと顔を向けた。表情は、慎重に整えられていた。
「ちょっと考え事してただけ。」
ナオトはじっと彼女を見つめ、一瞬だけ笑みをゆるめる。それでも、その視線にはまだ軽い茶化しが含まれていた。
「またその顔してるぞ、リア。何考えてたんだ? まさか、宿題みたいなつまんないことじゃないよな? それとも、また皆を出し抜く作戦でも考えてたとか?」
「そんなことないわよ。」
リアは軽く手を振り、淡々とした表情を保つ。
「……そんなことない。」
廊下はまっすぐに伸び、磨き上げられた床が蛍光灯の光を受けて鈍く輝いていた。壁には色鮮やかなポスターが並び、今後のイベントや部活動の告知、そしてひときわ目を引く 連邦武装軍 の新規募集の張り紙が貼られている。
中でも一際目立つポスターがあった。
広大な宇宙を背景に、男と女が並び立つ一枚の構図。 彼らの背後には、壮麗なスタークルーザー艦隊の影が広がる。
男は片手を鋭く掲げ、敬意と誇りを込めた敬礼を見せる。その隣で、女は強い眼差しを前方に向け、揺るぎない決意を湛えていた。
彼らの足元には「SECURITY IN SERVICE」 の文字が、力強く刻まれていた。
高い天井に反響するざわめきが、活気に満ちた音の交響曲を作り出す。
生徒たちの会話が行き交い、馴染み深い言葉の流れの中に、ふとした瞬間、別の響きが混ざり込む。
それは 「星間語²」 の断片――異なる文化の旋律を宿した、どこか鋭く、それでいて調和のとれた音色。
異世界のささやきのように、言葉の間に織り込まれ、自然と溶け込んでいった。
この学校は、旧秩序時代の公立高校を改修したものだった。 その建築は、かつての実用的なデザインと、連邦が好む洗練されたミニマリズムが融合している。
校舎の中心には、四階建てのメインビル がそびえ立つ。コンクリートとガラス、鋼鉄で構成されたその直線的な構造は、各廊下の角に配置された緑地によって、わずかに柔らかさを加えられていた。色鮮やかな花々が咲き誇るプランターや、丁寧に手入れされた樹木が、その鋭いラインに穏やかな対比を生み出していた。
この学校も、そうした教育機関の一つに過ぎない。しかし、それらはすべて、連邦が掲げる教育の理念を象徴していた。
教育こそが社会の礎であり、未来を担う世代を導く基盤となる――。
それが、連邦が目指す理想の証だった。
職員室 の前を通り過ぎると、リアの視線は自然と壁に飾られた青と金の旗に引き寄せられた。等間隔に掲げられたその旗には、トライフェクタの教育部門の紋章 が描かれている。
開かれた書物の上に燃え上がる炎――その周囲を囲むのは、極限まで簡素化された月桂冠。
まさに、連邦が掲げる理想の象徴だった。
リアの視線はしばらくその場に留まっていた。しかし、馴染みのある声が彼女の意識を引き戻し、職員室 の扉が軋む音とともに開かれた。
そこから現れたのは、腰まで届く漆黒の髪を持つ少女。 艶やかな黒髪は、ちょうどその背にある革の翼の下に流れ落ちていた。彼女の動きは流れるようでありながら、一つ一つに確かな意図を感じさせる。その腕には、丁寧に整理された資料が収められたフォルダが抱えられていた。
その後ろから、一人の教師が歩み出る。
扉のすぐ外で足を止めると、翡翠色の爬虫類の尾が緩やかに揺れた。
彼女は軽やかに振り返り、教師に丁寧な一礼を送る。その左耳のすぐ下、王冠のように頭を飾る湾曲した角のそばには、細く編まれた三つ編みが揺れていた。
そこには、廊下の光を受けて淡く輝く赤いビーズが結ばれている。それは彼女の気品と優雅さを引き立て、彼女の動きに合わせるように柔らかく揺れた。
「ご指導、ありがとうございます、先生。」
「推薦の件、真剣に考えさせていただきます。」
「お前は優秀な生徒だ、カティア。」教師は穏やかに言った。
「医学の道は、お前の規律と才能にぴったりだ。東京連邦科学学院 に願書を出すことは考えたか? あそこは、挑戦に立ち向かえる人材を常に求めている。そして、お前の可能性を知る私からすれば――連邦にとっても、お前のような人材が加わることは大きな幸運だ。」
「医学はただ適性があるというだけでなく……お前が本当に輝ける場所 だと思うよ。」
カティアの翡翠色の瞳が、わずかに優しく和らぐ。
「先生がそう言ってくださるのは、とても光栄です。」
「ありがとうございます。」
カティアの尾が優雅に揺れ、静かに彼女の思考を映し出すようだった。腕に抱えたフォルダを整えながら、完全に廊下へと踏み出す。その動きに合わせるように、蝙蝠のような翼がわずかに動く。まるで、閉じ込められていた場所からそっと伸びをするかのように。
その微かな動きに、通りすがる生徒の何人かが目を留めた。しかし、カティアは気にも留めず、視線を廊下へと滑らせる。
そして、リアとナオトの姿を見つけると、唇が楽しげに弧を描いた。
「あら、リア! ナオ!」
声には柔らかな笑みが滲み、彼女は二人との距離を軽やかに詰めていく。
首を少しかしげると、髪が肩にふわりと流れ、編み込まれた赤いビーズが光を反射し、かすかに煌めく。
「職員室の前でうろうろして……先生を探してるの?」
「それとも、反乱でも企んでる?」
リアはクスリと笑い、安堵の息をついた。
「どっちでもないですよ、カティア先輩。ただ通りかかっただけです。」
「先輩こそ、何をしていたんですか?」
「私?」
カティアは考えるように繰り返し、腕に抱えたフォルダを軽く胸に押し当てながら位置を整えた。翼がわずかに広がり、廊下の端にそっと触れる。視線を手元の書類に落としながら、嬉しそうに口を開く。
「今、進路相談を終えたところなの! でね、先生が私に東京連邦科学学院を勧めてくれたんだって! 信じられる?」
「東科よ? あの東科よ! 最高峰のエリートが集まるあの大学に、私が入るかもしれないなんて!」
驚きと喜びの入り混じった笑い声を漏らし、カティアは翼を軽くはためかせる。
「しかも、医学部の話まで出たの! 連邦の科学部門への直通ルートになる専攻よ! なんか……夢みたいで、まだ実感が湧かない……!」
フォルダをぎゅっと胸に抱きしめると、彼女の瞳が宝石のように輝き、リアとナオトを見つめる。
「ねぇ、私、白衣とか似合うと思う?」
カティアが話す間、リアの視線は、彼女が胸元に抱えたフォルダへと向かっていた。
そのまま、ふとした拍子に視線が滑り、カティアの豊かな胸の曲線に一瞬引き寄せられる。無意識のうちに目が留まり、さらに折りたたまれた翼、そして長くしなやかな尾へと移る。
ハッとして、リアは急いで視線をそらし、小さくぼそっと呟いた。
「……モリ先輩、なんでこんな人を落とせたの……?」
カティアはドラグーン³だった。竜の血を引くイカイジンの中でも、驚くほど人間に近い存在。
「リアちゃん、どうかしたの?」
カティアは瞬きをしながら、興味深げに宝石のような瞳を細める。唇にはいたずらっぽい笑みが浮かび、ほんの少し身を乗り出すと、声をひそめて囁いた。
「あら……今、モリくんのことを話していたのかしら?」
「な、何も! 何も言ってないです!」
リアは慌てて否定し、耳をピクピクと動かしながら、ぎゅっと鞄のストラップを握りしめる。視線をそらしながら、必死に話題を変えようとした。
「そ、それより……先輩はこれから帰るんですか?」
そんなやりとりを見ていたナオトが、くつくつと笑いながら口を挟む。
「どうせ次はモリ先輩に会いに行くんだろ? 違うか?」
カティアはふんわりとした微笑みを浮かべると、クイズ番組のベルを真似るような調子で、軽やかに言った。
「ピンポーン♪ 正解よ、ナオくん。さすがね!」
「それで、付き合ってくれる? それとも二人でどこか冒険にでも行くつもり?」
「先輩とモリ先輩のことを知ってれば、そりゃすぐわかりますよ、カティア先輩。」
ナオトは気まずそうに頭をかきながら、苦笑した。
「でも、お誘いありがとうございます。俺たちは今日は早めに帰って……えーっと、嘉信羅先生の宿題について考える予定です。な、リア?」
エルフの少女は、珍しく静かだったが、不意に瞬きをし、ピンと背筋を伸ばした。
瞳が鋭くなり、耳がピクリと動く。そこには、ふとした閃きと興奮の色が宿っていた。
「……やっぱり、私たちも会いに行くわ。」
「え、ちょっ……俺たちは――」
「予定変更よ。」
リアはきっぱりと言い切り、鞄のストラップを整えながら、すでに歩き始めていた。その声は落ち着いていたが、反論の余地を一切与えない空気を纏っていた。
「ほら、ナオト。ついでに宿題のことも聞きに行きましょ。」
「先輩、モリ先輩はどこにいるって言ってました?」
カティアは首を少しかしげながら、宝石のような瞳に遊び心を宿した。
「図書館か、中庭かしら……でも、彼のことをよく知ってるでしょう?」
「さて、どこにいると思う?」
「図書館。」
リアは迷うことなく答えた。
「いや、たぶんもう家に帰ったんじゃね?」
ナオトは軽く横を向き、得意げな笑みを浮かべながら冗談めかして言う。しかし、リアが軽く咳払いすると、その自信は一瞬で揺らぐ。
「……いや、その……中庭かも?」
「その、静かで、考え事とか……読書とか、する場所……とか……?」
カティアはクスリと微笑み、腕のフォルダを軽く抱え直す。
「二人とも、なかなかいい推理ね……でも、もし賭けるなら、どっちも違うわ。」
ナオトが眉をひそめる。
「どっちも違う? じゃあ、どこだよ?」
カティアは顎に指を当て、少し考えるふりをしながら、にっこり微笑んだ。
そして、楽しげに天井を指さした。
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脚注
1) 大統一後の剣道
旧秩序時代に禁止されていた、より攻撃的かつ軍事的な剣道の流派を復興させたもの。
特に、連邦武装軍士官学校における軍務適性の準備武術として位置付けられている。
試合では、精度・規律・制御された攻撃性が重視される。
2) 星間語
「異世界」における共通語であり、帝国領内で広く使用されている言語。
連邦の言語学者たちは、この言語が理論上の「アダム語」と驚くほどの類似性を持つことを指摘している。
アダム語は、最古の創世言語の一つと考えられている。
その旋律的な抑揚と独特なリズムを持つ発音は、さらに深い言語的ルーツを示唆しており、古代ラテン語の響きを色濃く残している。
3) ドラグーン (DRAGOON)
異世界に存在する竜人種の一種。ドラグーンは、その生理構造が極めて人間に近いことが特徴であり、頭部の角、尾、翼、そして宝石のように輝く瞳によって識別される。
一般的に温厚な性格を持ち、平和主義的な傾向が強い。戦闘よりも外交や共存を重視し、対立を避ける姿勢を取ることが多い。
その適応能力の高さから、エリュシア神聖帝国 内外を問わず、他社会への統合が比較的容易であるとされている。
2025/7/10 - カチャ を カティア に変更しました。ごく小さなこだわりですが、こちらの方が名前の響きが良く感じたためです。