服従の色⑤
章の最後に脚注があります。
演説が終わると、割れんばかりの拍手と歓声が広場を満たした。
司令官はゆっくりと手を上げてその歓声を静める。自信に満ちた、どこか嘲笑じみた笑みを浮かべていた。
制服の裾を整えながら壇を降りると、待機していた警備兵の列に消えていった。
入れ替わりに壇上に登ったのは、別の高官だった。小柄な体に、同じく連邦ブルーの制服を隙なく着こなしている。
その男が静かに口を開いた。熱狂が残る広場の空気を切り裂くような、事務的な口調だった。
「志願者は直ちに登録デスクへ向かうように。募集要項に基づき、各人には二種類の書類が渡される」
男は手首の小型端末——ナオトがもう一年近く目にしていなかったオムニリンクを操作した。精密な動作で指を滑らせ、指示を送ると、一台のドローンが彼の隣で静止した。
空中に鮮やかなホログラムが映し出され、手続きが整然とした光の線で示される。
「一つ目の書類は『市民権取得事前申請書』だ。E-01、E-02、E-03の全フォームを熟読し、必要事項を漏れなく記入すること。収容時に与えられた個人番号も必ず明記するように」
ドローンがかすかに音を立て、次の映像へと切り替わった。
「二つ目は『条件付き恩赦命令書(CE-01)』だ。
家族または知人から一名を選び、その人物の経歴を抹消、条件付きの釈放と民間人としての身分回復が認められる」
高官はそこで一呼吸置き、言葉が群衆に染み渡るのを待った。
「以上の条件を承諾する者は、速やかに自分のブロックごとに整列するように。順次、登録手続きを開始する。署名を終えた者には識別バンドと暫定市民証¹が配布される。
参加しない者、または参加資格のない年齢の者は、この時点で解散して構わない」
高官が壇上を降りると、投影を終えたドローンが後を追うように飛び去った。
人波の中にざわめきが走った。一瞬のあいだ、誰も動こうとしない。
だがやがて、年齢の満たない者や年を重ねすぎた者、あるいは最初から何の期待も抱いていなかった者たちが、静かに人混みを離れていった。
残った者は無言で、それでも覚悟を決めたように、整然と登録用のトラックへと足を進める。その中に、リアの姿があった。彼女は迷いなく前を見据え、誰も呼び止める間もなく列の中へ溶け込んでいった。
ナオトは動けずにいた。
少し前方ではモリタが立ち尽くしている。その手はまだカティヤと繋がれたままだ。リアとは違い、モリタはためらっていた。ただそこに立ち、静かに指を絡ませたまま、行き交う群衆を見送っている。
カティヤが静かに視線を上げると、モリタは彼女を短く抱き寄せた。言葉はなく、別れ際に彼は手首に結ばれたあの髪紐を見つめ、再び彼女の瞳を見つめた。
ふたりの間に交わされたものは、どんな演説やスローガンよりも重く、そして静かだった。
やがてモリタは彼女の手を離し、振り返ることなく列に歩み出した。
ナオトのほうへ顔を向けたレイコの瞳が明るく輝いていた。その眩しさがナオトの胸を痛ませる。
「なかなかいい演説だったね」
彼女の口元が軽く笑みを浮かべる。
「ほら、行こ。早めに行けば書類もすぐに終わるよ」
「ああ……そうだな……」
だが、レイコはすでに足早に歩き出している。一秒たりとも無駄にできないとでも言うように。
ナオトはその背中を見送った。小柄な彼女の姿は瞬く間に制服と無数の熱気に飲まれ、群衆に溶けていった。
胸が重かった。自分の返事が、ひどく空虚に感じられた。
群衆を見渡す。キャンプ中から集まった、ろくに名前も知らない異界人や反逆者たち。
皆が、同じ目をしている。それがもう、理解できなかった。
ナオトがレイコの後を追おうと一歩踏み出した瞬間だった——
「ナオト」
——誰かの手が、静かに彼の腕を掴んだ。
振り向くと、そこには見慣れた擦り切れた服装の藤原おっさんが立っていた。目元には、いつもの疲れ切った優しさが漂っている。
おっさんは何も言わずに群衆を見つめていた。その目が、やがて登録所に向かうレイコの小さな背中を見つける。そして、静かにナオトの方へ向き直った。
「お前も、志願するのか?」
ナオトは渇いた喉に唾を飲んだ。
「ああ……まあ、そうですね」
視線をそらし、無理に冗談めかして答える。
「だって、みんな行くし……なんとなく、そうするしかない空気ってあるじゃないですか」
おっさんはしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
ナオトがよく知る笑いだった。レイコが何か隠し事をするたびに見せる、あのすべて見抜いたような穏やかな苦笑だ。
「じゃあ、なぜだ?」
静かな問いだった。
「お前が本心じゃないと分かってるのに、どうしてその列に並ぼうとしてる?」
ナオトは何か答えようとして、口を開いた。だが、言葉は出なかった。
気づけば、周りの人たちを見渡していた。
視線が群衆を滑っていく。
カティヤは短くなった髪に手を添えて、書類に署名するモリタを見送っていた。
レイコはすでに列の中ほどで、自分より少し年上の誰かと屈託なく話して笑っている。
彼らの少し先にリアがいた。いつもの冷静な決意を保ったまま、自分の番を静かに待っている。その姿は、最初からこうなることを知っていたかのようだった。
ナオトには言葉が浮かばなかった。
「俺は年を取りすぎた」
藤原おっさんがぽつりと言った。
「それに戦えるような人間でもなかった。会社が連邦に接収された時も、俺は社員たちが拘束されるのを、ただ見てることしかできなかった。抵抗したときにはもう遅かったんだ。それで俺もレイコも、ここに連れてこられた」
おっさんは疲れたようにため息をついた。
「今また……大事なものが連れて行かれるのを、見届けるしかないのか」
もう一度レイコに目をやってから、おっさんはナオトの方を見た。
「もし、お前が行くのなら……」
言葉は静かだが、迷いはなかった。
「一つ、頼んでもいいか?」
ナオトは瞬きをした。 意外だった。頼られるなんて、そうそうあることじゃない。
誰かに頼られるなんて、そうそうあることじゃなかった。ましてや、藤原のおっさんのような人からなんて。
A2ブロックでも一目置かれる存在で、何か頼みごとがあれば、決まってモリタの方へ行くはずだ。
一瞬、断ろうと口を開きかけた。「俺じゃない」って言おうとした。けれど、目の前の藤原の眼差しに触れた瞬間――その言葉は引っ込んだ。
「……レイコのこと、頼む」
静かな声だった。
「自分では気づいてないみたいだが、あの子、よくお前のことを話してる」
そのまま、ナオトの顔を見つめる。
余計な言葉はなく、ただ、まっすぐに、こちらの心を探るような視線だった。
一拍の沈黙。だが、その一瞬に、重みがあった。
「……お前、悪い奴じゃなさそうだ」
おっさんは静かに息を吐いた。
「レイコは俺の一人娘だ。強がってるが、昔から妙なところで無茶をする。危なっかしいんだ」
表情は変わらず穏やかだったが、肩の力は抜けなかった。
それでも、その言葉は確かだった。
「だから……守ってやってくれ。無事に連れて帰ってきてほしい」
ナオトはその場に立ち尽くしたまま、胸の奥がじんわりと重くなるのを感じていた。
自分が“その役”にふさわしいとは思えなかった。
そもそも、自分が「いい人間」かどうかすら分からない。
けれど、ふと視線を移すと、書類にサインしているリアの姿が目に入った。
何の迷いもなく、ためらいもなく、ただ一筆。当たり前のように、すべてを受け入れて進んでいく姿だった。
世界はもう動き始めている。
ぼんやりしていれば、置いていかれるだけだ。ここで考えていても、答えなんて見つかりはしないのかもしれない。きっと答えは――歩き出した先にある。
ナオトはゆっくりと息を吸い、藤原のおっさんの方を見た。
「……できるだけ、やってみますよ」
口元がゆるみ、少しだけ笑った。でも、その笑顔は目元には届かなかった。
「ほら、今さら放っとけないですし」
おっさんも、どこか寂しげに、それでも穏やかに微笑んで、こくりと頷いた。群衆の中へとゆっくり姿を消していった。
冷たい風が広場を吹き抜け、ナオトの指先を刺す。
もう、言葉は残っていなかった。
列は刻一刻と伸びていく。
ナオトは深く息を吸い――
その列へと足を踏み出した。
順番が来たとき、ナオトは用紙を読まずにサインした。そこに何が書いてあるかなんて、どうでもよかった。重要なのは、もう皆が進み始めていたこと。
何より怖かったのは、自分だけが立ち止まっていることだった。誓約は午後五時すぎに執り行われた。
冷え込む空に向かって、数千の声が一斉に響き渡る。
頭上ではドローンがホバリングしながら、連邦の旗を鮮やかに投影していた。 あの映像は、数週間もすれば、どこかの募集ホログラムに使い回されるだろう。
午後六時には、宣伝車が轟音と共にキャンプを後にした。
八千人の居住者のうち、六千人以上の名が記録された。男も、女も、異界人も、地球生まれも。
そして三日後――
彼らを回収しに、ヴァルキュレ²がやって来た。
最終便がルナ基地へと輸送されるまで、約一か月を要した。
……
後になって、あの日の誓いの言葉をナオトはうまく思い出せなかった。
あの誓いは、数週間の出来事の中に埋もれて、他の無数の言葉と混ざり合っていた。
自分が「CE-01」に誰の名前を書いたかすら、記憶にない。
あるいは、何も書かずに提出したのかもしれない。けれど、それでもまだ覚えていることがあった。
確かに、心に残っているものが。
リアの揺るがぬ覚悟。
カティアとモリタの揺るぎない絆。
レイコの、あの飾り気のない無邪気な笑顔。
そして、N15コミュニティセンターで過ごした日々。
どんな戦場の記憶よりも鮮やかで――どんな勝利よりも愛おしい時間だった。
連邦が信念を求めていたかなんて、今となってはどうでもいい。
あいつらが欲しかったのは、ただ一つ。
誓約書の、一番下の「署名欄」だけだった。
* * *
それから四か月後、訓練は終了し、彼らは新設された第44突撃遊撃師団に配属された。
さらに三か月後。
地球軌道に第二・第五連合艦隊が展開。
何を差し出したのかを理解する間もなく、彼らは歴史を揺るがす作戦の渦中に投げ込まれた。
――
アーケイン・フロンティア戦争、二年目。
【サンライズ作戦】。
【東京解放戦】。
___________________________________
脚注
1) 暫定市民証
トライフェクタの軍務・科学・教育いずれかの部門へ入隊・入局した志願者に与えられる仮の身分証明書。民間人から市民候補への身分変更を証明するものであり、正式な市民権は、E-01、E-02、E-03各フォームに記載された服務契約を満了した後に付与される。
2)UD-14〈ヴァルキューレ〉多用途強襲艇
連邦星軍が運用する主力の降下艇であり、ドロップシップ設計における金字塔とされている。軌道上の星軍強襲艦から地表へ、最大24名の兵員と物資・特殊装備を同時に輸送可能。
武装は、機首下部に全周旋回式の30mmレールキャノン(回転式)、上部機体に110mmロケットポッド、さらに大気圏内での戦闘支援を目的とした側面銃座(左舷・右舷)を備える。
輸送能力と火力支援を両立した、多目的な航空プラットフォームであり、軽攻撃機としても運用される。
作者コメント:
ここまで『アーケイン・フロント』を読んでくださり、ありがとうございます!
今回のエピソードをもって「開戦前編」は完結となります。
来週は短いお休みをいただくかもしれませんが、次回からはいよいよ――
「東京解放編」が始まります。
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どうぞお楽しみに!




