服従の色➀
アーケイン・フロンティア戦争――開戦から一年と四ヶ月が過ぎていた。
冬の終わりが見え始めた頃だった。
報せが届いたのは、サイレンも演説もない、ただ紙とインクによってだった。夜明けには、各住区の掲示板前に人だかりができていた。張り詰めた冷気の中で吐く息は白く濁り、新しく貼られた白紙に視線が集まっていた。赤いインクが、紙面から滲み出るようにして鋭く訴えかけていた。
それは朝のラッパよりもずっと騒々しく、まるでバンシーの叫びのようだった。
木下直人は顎に力を入れたまま、その場に立っていた。周囲では、いつも通りの囁き声が鳥のさえずりのように舞っている――同じ音の連なり、同じ止まないノイズ。
ポスターは、大量印刷された安物の白ラミネート。だが、伝えるべき内容は一目瞭然だった。
三人の人物が中央に並んでいた。横一列に、同じ高さで、同じ重みで描かれている。誇りと希望を同時に宿した構図は、どこか神聖な雰囲気すら漂わせていた。
スターグレーの制服に身を包んだドラグーンのフロンティア兵は、遠くの“安定”という幻想をじっと見据えていた。
隣には、連邦武装軍の戦闘服を着たエルフ。毅然と立つその姿は、不屈そのものだった。
その背後――ヘルメットを被った人間の兵士が、口を開けて何かを叫んでいる。
隣に立てと、呼びかけるように。
ポスター上部には、星間共通語の赤い太字スローガンが踊っていた。意味はわからない。ただのノイズだ。 だがその下には、見慣れた漢字の筆致がはっきりと意思を刻んでいた。
義務を果たせ! 今すぐ志願せよ!
奉仕した者に連邦市民権を与える!
さらにその下、小さな黒字が追い打ちをかけていた。
異界人、反逆者、志願者よ——
未来を掴め!
SECURITY IN SERVICE
ナオトは動かなかった。動く必要もなかった。視線だけを掲示板の隣へ向ける。
そこに立つモリタを、目を細めてじっと見据えた。
「……なんだよ、モリ……これ。」
モリタのため息は長く、乾いていた。まるで“また当たったか”と言いたげな疲れた吐息。
「前に言ってただろ。“でかいのが来る気がする”って。」
ナオトは、ゆっくりとうなずいた。
「――これが、それだ。」
ざわめきが広がっていく。広場には次々と人が流れ込み、その集まりに惹かれたのか、あるいは重苦しい沈黙そのものに引き寄せられたのか――ナオトにはわからなかった。
一歩後ろに退いた時には、男女も、ヒトも、イカイジンも、ただ集まっているというより、まるで、その場から動くことを許されていないかのようだった。
あのポスターはただ機会を提示したのではない。この区画にいるすべてのイカイジン、反逆者たちに対し、挑戦状を叩きつけているのだ。
それを救いと見る者もいた。罠だと信じる者もいた。
赤い鋭角な文字を目で追いながら、唇をわずかに動かしていた。背の高いティーフリングの男が鼻を鳴らし、何か苦々しい言葉を母語で呟きながら背を向ける。少し離れたところでは、ドワーフたちが固まって低く軋む言語で囁き合っていた。その中心にいる古参のグルンヴァルトはまるで取り立て人のように手を広げていた。
ほとんどのイカイジンは口を開かず、ただ立ち尽くして、ポスターを繰り返し読み返す。 何度も見直せば意味が変わる気がするのか。
「……噂、本当だったんだね。」
横から声がした。
ナオトが振り向くと、レイコが腰に手を当て、ポスターをじっと見つめていた。
「知ってたのか?」
静かに首を縦に振った。
「グルンヴァルトがずっと言ってたでしょ。ここ数週間、“何かでかいこと”が来るって。連邦がイカイジンや反逆者に入隊の機会を与えるって。旗のために奉仕して、血を流して忠誠を示せ、とかそんな感じ。」
ナオトの眉間に深く皺が寄った。
「あれだけのことをやらかした後で……正気か?」
「そうかもね」
レイコは小さく首を傾け、話を続ける。
「でも、それだけじゃないよ。志願した人は誰かを推薦できるんだって。家族でも友達でも、自分の選んだ相手を。本人が入隊すれば、その人に釈放のチャンスが与えられる。経歴を帳消しにして、市民権を再取得する機会がある――昔みたいにね。」
ナオトは瞬きをして、彼女の顔を見た。
まさか、レイコが――彼女が、この話を喜んでいるように感じるなんて、きっと自分の勘違いだ。だがその声には、奇妙に軽い響きがあった。ほとんど楽観的で、言葉の重さと釣り合わないほどの軽やかさだった。
彼女がポスターを見る視線――真剣で、どこか考え込んでいて、一瞬だけ微笑みそうなその表情を見ていると、ナオトの胸は奇妙に締め付けられた。周囲に溢れる、遠く苦々しい目つきとは違う表情だった。
いや。全員がそうとは限らない。
注意して見れば、ナオトにもその亀裂が見え始めていた。
苦い感情を鎧のように纏い、腕組みをし、眉間に皺を寄せて、低くに怒りを煮詰めている者たちがそこにいるのだ。
だが他の者は、前のめりになっていた。静かな渇望のような眼差しで、文章を追っている。
エルフの一団が集まり、互いに視線を交わしていた。その目には希望が、いや、むしろ安堵のような光さえ浮かんでいる。まるで、密かに望んでいた何かが、そのポスターの言葉によって裏付けられたかのように。
すぐ近くでは、ドライアドの少女が水晶のネックレスを握りしめていた。彼女の顔に微かな笑みが浮かび、やがて足取りも軽やかに、どこか力強さを帯びながらその場を後にした。
一方、古参のグルンヴァルトは――案の定というべきか――早速、新たな賭けで利益を掻き集めていた。周囲のドワーフたちは負けを取り返そうとするかのように、何かを信じる理由を欲しがっているようにも見えた。
彼らはただ読んでいるわけじゃない。
計っているのだ。
ふいに、レイコの沈黙の中に老フジワラの声が重なって聞こえた気がした。
『連邦は、信頼を求めたりしない。奴らは自らの手でそれを勝ち取るのだ――それが、奴らにふさわしかろうとなかろうとな。』
ナオトは唾を飲み込んだ。
「……本気で、これで解決すると思ってるのか?志願したら全部チャラになると?」
レイコはわずかに首を傾け、浮かべていた微笑が微かに陰りが差した。
「別に全部が解決しなくてもいいんだよ」
彼女の声が、少し柔らかくなる。
「ただ……扉を開けるだけでも、意味あるんじゃない?」
彼女は再びナオトに視線を向けた。少しだけ、いつもより長く。だがナオトがそれに応えないでいると、再びポスターへ目を戻した。
「まあ、別に関係ないけどね」
彼女は慌てて付け加え、軽く肩をすくめた。
ナオトは彼女の視線を追った。その言葉が、なぜか彼の顎を硬く締めさせる。
扉――彼女はそう言った。
たぶんそうだ。ただ、それだけの話だ。
だからこそ怖いのかもしれない。すでにそこを通ろうとしている奴らがいるということが。
ナオトはもう一度、レイコを見た。
彼女はそれ以上何も言わなかったし、必要もなかった。
さっき浮かべた微笑はもう消えていた。代わりに、もっと静かで、揺らぎのない何かがそこにあった。口に出さないまま、迷いのない静けさが、彼女の中の覚悟を物語っていた。それは、どこかモリタを思い出させた。
そんなレイコの冷静さを、ナオトはどうしても受け入れがたかった。
二人の姿が現れた。
モリタが歩きながら手を払っている。あのポスターを掲示板に貼ったのは彼だった。おそらくは老フジワラの指示によるものだろう。自ら歩いて来て、掲げて、誰かが質問する前に素早く身を引いたに違いなかった。
カティアがそっとモリタの隣を歩いてきた。その視線は、徐々に膨れ上がる群衆を警戒しつつ、鋭く観察している。尻尾が一度だけ揺れ、背中の翼がピクリと動いたあと、彼女はそれをさらにきつく身体に寄せた。
ポスターには一度も視線を向けなかった。
「……とうとう来ちまったか」
ナオトたちのそばで立ち止まりながら、モリタがほとんど独り言のように呟いた。
「募集と、それに伴う色々が。」
ナオトが彼を振り返る。
「意外そうだな?」
モリタは小さく首を横に振る。
「意外じゃない。ただ……現実になったのを見届けてるだけさ。」
少しの間、彼は黙り込んだ。その沈黙の間に、何かを考えをまとめているようだった。
「お前の親父さんの予想通りだな、レイコ」
彼はようやく言った。視線は掲示板に貼られたポスターに一瞥をくれたまま。
「あいつらは必ず乗ってくるって……この状況を見ていると、たぶん正しかったんだろう。」
モリタが深く息を吸い込んだ。
「お前らも気づいてるだろ。あいつらがどれだけ早く順応するか。俺たちもそうだが……このキャンプで毎日を過ごすために、いつの間にか適応してしまう。」
彼は再び短い間を空けて、鼻からゆっくりと息を吐き出した。
「あいつらはもう、誰かに許可をもらうつもりなんかない。そんな段階はとっくに終わってる。」
わずかに群衆を指し示すような仕草を見せた。
「この機会を前にしたら……あいつらは躊躇しない。過去にされた仕打ちを忘れたわけじゃない。ただ、生き残ると決めてるだけだ。そのために信頼が必要なら――」
声が低く落ちた。
「――たとえ血を流してでも払うだろうさ。」
「そんなの、おかしいわ」
カティアが静かな声で割り込むように言った。そのまま僅かにモリタへ近づく。彼女の姿勢には緊張が滲んでいた。敵意ではなく――どちらかというと守るような、寄り添うような態度だった。
「誰だって、自分の存在を証明するために血を流すなんて、おかしいよ。」
モリタはすぐには答えなかった。
視線が群衆をさまよう。希望を宿した目、苦々しさに染まる顔、その狭間で揺れる瞳――。
「……俺だって、そうあるべきとは思わないさ」
彼はようやく口を開いた。
「でも、あいつらはやるだろうな。」
カティアの手が動く。最初、彼女は何も言わなかった。だがナオトは、彼女の指がそっとモリタの袖に触れたのを見逃さなかった。掴むのでも引くのでもなく――ただ、かすかな接触だった。
二人の間の空気が微かに緊張した。
「後で、ね?」
彼女は、モリタだけに聞こえるように、そっと囁いた。
モリタは静かに息を吐いた。それでも、彼の姿勢からは僅かに力が抜けていた。胸の奥で絡まっていた何かが、ほんの少しほどけた気がした。
彼はそこから離れようとはしなかった。
カティアはレイコ、ナオトと順に視線を向け、最後にもう一度ポスターを見つめた。
「リアに知らせないと」
彼女は静かな、抑えられた声で呟いた。
「今日、戻るはずだから。」
ナオトは瞬きをした。
「あぁ……そうか。もう三日経ったんだな?」
レイコが眉間に軽く皺を寄せ、頷いた。
「……うん。そろそろだね。」
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