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アーケイン・フロント  作者: メグメル
【模範市民編】第一章:ある日の日常
2/29

ある日の日常➀

章の最後に脚注があります。

膨張時代、最後の年――西暦2062年。


火星の静かな赤い砂の下で、探査隊は忘れ去られた異星の遺物を発見した。

それは正体不明の朽ちた宇宙船――遥か昔に遺棄された残骸だった。


この驚愕の発見は瞬く間に世界へ広まり、「地球外生命は存在するのか?」という太古からの疑問に答えを与え、同時に人類の知識の限界をも揺るがした。


人類は新たな時代へと突入する。


「フロンティア時代」――果てしなき宇宙の探査、理解、そして支配を求め、

未知を切り開くことに取り憑かれた新時代。

それは人類の儚き境界を超え、さらなる高みを目指す探究と征服の時代であった。


その船――「コロンブス」と名付けられた異星の遺物は、国際的な異星学者と軍事技術者チームによって調査された。

全長1キロメートルに及ぶこの巨大な船は、その航行記録から、異星文明の偵察艦、もしくは探査船の残骸であると推測された。


驚くべきことに、航行システム、推進装置、データストレージなどの大半の機能が今なお維持されていた。 それはまるで単なる機械的構造を超えた何かによって支えられているかのようであった。


船内の各コンソールには、奇妙な象形文字のような紋様が刻まれており、かすかに発光しながら脈動していた。 それはあたかも、船そのものが未だに"生きている"かのような錯覚を与えるものだった。


動力源がとうに死んでいるにも関わらず、船の機構には何か未知のエネルギーが潜んでいるように思えた。 この遺物が単なる技術の産物ではない、別の何かであることを暗示するかのように。


「コロンブス」内部の甲板、廊下、そしてブリッジには、かつてこの船で星々を旅した乗組員たちの遺骸が無造作に散乱していた。 それは、船の最後の瞬間を物語ると同時に、彼らが何者であったのかを垣間見せるものだった。


学者や医師、科学者と思われる者たち。

大型トラックほどの巨体を誇る者もいれば、人間の青年ほどの背丈の者もいた。

一部の頭蓋には角が突き出し、他の遺体には背中に折りたたまれた翼や、1メートル近い尾が残されていた。


だが、彼ら全員に共通していたのは、その驚くほど人間に似た姿だった。

二足歩行の生命体――確かに「ヒト」に近い形を持ちながらも、決定的に異質な存在。


だが、この調査で乗組員たちの背筋を凍らせた発見は、さらに衝撃的なものだった。

異星の遺骸に混じり、操作コンソールに覆いかぶさるように横たわる、それは――間違いなく「人間」の骨だった。


不気味なほど完全な形で残され、あまりにも見慣れたその骨格。

異星の乗組員たちの遺骸と並ぶように散乱し、

まるで彼らと共にここで生き、共に航海していたかのように。

それは、本来「人類」が存在するはずのない場所――

決して足を踏み入れるべきではなかった空間にあった。


「……そして、その発見が"統一戦争"の引き金になったんだよな?」


教室内に、うんざりしたようなため息や、興味半分のくすくす笑いが広がった。生徒たちが互いに視線を交わし、囁き合うことで、単調な授業の雰囲気が和らぎ、冬服の織り目から忍び込む秋の冷気さえも少しだけ薄らいでいく。


その一瞬――生徒四十人の視線が教室の隅へと集まった。

窓際の最後列、ナイフのように鋭い耳を持つ少女――エルフ――が、静かに座っていた。


「相変わらず熱心だな。」


教師は誇らしげに微笑みながら言った。


「嬉しいよ――というわけで、次のポイントに移ろうか。」


そう言って黒板の前を歩きながら、指先でスイッチを入れる。その瞬間、指導棒の先からホログラムが展開され、教室の天井全体に映像が投影された。


映し出されたのは、静止画、デジタル再現、そして統一戦争の出来事を再現した記録映像。


「まさしくその通りだよ、花沢(はなざわ)さん。」


教師は生徒の発言に応じながら、ホログラムの内容を指し示す。


「この発見によって、地球国家群と火星ドミニオンの間の微妙な均衡が、一気に崩れることになった。 旧秩序(オールド・オーダー)¹の指導者たちは、発見された遺物に対してそれぞれの"正当な権利"を主張し始めた。そして、この問題をさらに悪化させた最大の要因が、調査チームの構成だった。何しろ、発見したのは主要国家すべての代表者たちだったからね。」


「加えて、コロンブスの船内で見つかったのは異星人の遺体だけではなかった――人類のものとしか思えない骨が、異星人たちと同じ空間に横たわっていたんだ。これが示す事実が何を意味するのか、当時の政治家や指導者たちが看過できるはずもない。国際社会は激しく動揺し、それぞれがこの発見を利用しようとした。」


「この瞬間こそが、統一戦争――人類が単一の旗の下に統合されるまでの熾烈な戦争が始まるきっかけとなったのだ。」


教師は教壇を行き来しながら話を続けた。その動きに合わせるように、ホログラムが展開される。


「2067年3月に本格的に始まり、2072年12月に終結したこの戦争——あるいは、一連の戦争——は、まさに混乱そのものだった。いわば、政治的な駆け引きの応酬とでも言おうか。『千年続いた秩序』が、ここで崩れ去ったのだ。」


教師の声は静かだが、教室の空気は張り詰めていた。


「各国は互いを引き裂き、かつての同盟も条約も無意味となった。『旧世界秩序』の列強は、次なる覇権を握るために争い続けた。 人類の歴史を変革するであろう、この未知の技術の独占権を巡ってな。」


彼は教壇の前で足を止め、教鞭を持ち上げる。そしてボタンを押すと、映像が一変した。

戦場の記録とデジタル再現の映像が消え、新たなホログラムが浮かび上がる。


そこには、淡い青の背景に、中央へと配置された純白の地球。

その両側には翼が広がり、背後には一羽の鷲がそのすべてを背負っている。

さらに、その地球の上には、五つの星を刻んだ白い三角形が重なっていた。


教師は微笑みながら両腕を広げた。

誰もが見慣れた、その象徴的な紋章——太陽系統一連邦の旗。


彼は一瞬だけ言葉を切り、学生たちにその光景を焼き付ける時間を与えた。

そして、歴史の転換点を告げるように、ゆっくりと語った。


「……こうして、太陽系統一連邦が『創設』されたのだ。」


太陽系統一連邦 (UNIFIED FEDERATION OF SOL/UFS)、あるいは単に「連邦」と呼ばれるこの国家は、惑星と植民地の集合体であり、安全保障・繁栄・探求という共通の目標のもとに結束した組織である。


統一戦争の灰燼から生まれたこの理念は、かつての国境や対立を超越し、分断された国家と散在する植民地をひとつの目的のもとに統合することを目指していた。


「それは人類が新たな時代を求めた、集団としての答えだった。」


教師は指示棒を軽く叩き、ホログラムが切り替わる。

地球、火星、軌道植民地に広がる都市の姿が次々と映し出される。


「分裂と競争を繰り返す国家の枠組みではなく、統一と共存の力で築かれる未来。」


「連邦は、我々の過去の教訓と傷跡の上に成り立っている。だからこそ、遥かなる未来を見据え、限界を超えて挑戦できるのだ。」


彼の視線が教室をゆっくりと巡る。

その瞳は、生徒一人ひとりの表情を確かめるかのように、静かに止まる。


「考えてみなさい。連邦がなければ、人類はいまだに古い対立に囚われ、孤立し、脆弱なままだったかもしれない。」


教師の声は穏やかになったが、その言葉には揺るぎない確信が滲んでいた。


「我々の団結こそが盾であり、目的であり、未来を切り拓く力なのだ。それが連邦の誓いである――強さとは、単一の国家から生まれるのではない。我々すべてがひとつに結束することで生まれるのだ。」

彼の視線がふと窓際の席へと向けられる。


そこに座る少女の耳が微かにピクリと動いた。

それは彼女が興奮を抑えきれない証――栗色の瞳は好奇心に輝き、ノートと教師の間を忙しなく行き来する。


まるで彼の言葉を一つ残らず吸収しようとするかのように。


「……さて、三つの理念――我々が『トライフェクタ』と呼ぶ、連邦の礎となった原則は何だったかな、花沢さん?」


歴史・社会の授業において、リティエンヌ・デュ・花沢ほど熱心な生徒はいなかった。


「トライフェクタ」


彼女は自信を持って口を開き、その瞳には誇りが宿っていた。


「それは、連邦の科学・教育・防衛の三つの柱によって築かれました。」


彼女の声は落ち着き、言葉は淀みなく流れ出す。


「科学部門は、進歩・研究・発見を使命としています。

加盟者は知識の限界を押し広げることを奨励されており――

新技術の開発や、マナ²豊富な世界――すなわち『異世界』の解明、

さらには連邦領内における 正式市民 と 一般市民 の生活向上に貢献することを目的としています。」


彼女は一度言葉を切り、教師の方を見た。教師は静かに頷き、続けるよう促した。


「教育部門は、次世代を育み、未来へとつなげることを目的としています。私たちの歴史を正しく受け継ぎ、未来を築くための基盤をつくる。そして、連邦の一員としての価値、犠牲、理想を理解し、それを次の世代へと受け渡していくのが、この部門の使命です。」


彼女の声は自信に満ち、淀みがない。


「そして、防衛部門。連邦の"最前線"であり、"最後の砦"です。内外の脅威から市民を守り、平和を維持するために存在します。この部門なしには、既知の宙域を超えて進出することも、あるいは、領域外に潜む"脅威"に立ち向かうこともできなかったでしょう。」


その瞬間、微かな囁きが聞こえた。


「……つまり、お前の種族のことか? 異界人(いかいじん)³。」


リアの耳が、ぴくりと震えた。 その反応に気づいた者は、おそらく彼女自身だけだった。


小さな、小さな囁き。だが、それは確かに"痛み"として刻まれた。他の誰にも聞こえないほどの声量。 だが、リアには、はっきりと届いた。


指先が、わずかにノートの端を押し込む。紙がかすかに鳴る音が、唯一の抵抗だった。

反応するな。感情を出すな。


静かに息を整え、視線をノートへ落とす。表情を崩さず、ただ淡々と。


ここではない。絶対に。


リアは静かに息を整え、その言葉を頭から押しやった。 これまで何度も聞いてきた。 これからも聞くことになるだろう。

だが、ここで取り乱すわけにはいかない。


彼女はわずかに微笑んだ。 自覚のある、少しぎこちない笑み。

それでも、努めて平静を保ちながら言葉を紡いだ。


「この三つの柱が、連邦を支え、強くし、前へと進ませるのです。 どんな未来が来ても、それに立ち向かえるように。」


教師は軽く頷き、口元に微笑を浮かべた。


「模範的な答えだな、花澤。」


だが、そこで彼の表情は少し変わった。

彼はゆっくりと教壇を離れ、教室を見渡すと、再びリアへと視線を戻す。


「しかし、君自身はどう思う?」


一拍の間を置き、言葉を続けた。


「本当に、トライフェクタは私たちを強くしていると思うか?

――今もなお、そう信じているか?」


リアは口を開きかけたが、言葉が詰まった。

まただ――教室のざわめきに紛れて、微かに聞こえる囁き声。前の列、横の席、周囲のあちこちから、じわじわと広がっていく。


「典型的な異界人ね…結局、私たちの真似ばかり。」


別の声が静かに続いた。嘲るような、冷たい囁き。


「ただ目立ちたいだけでしょ。」


リアの指がノートをぎゅっと握りしめる。

準備していた返事が、するりと頭から抜け落ちた。

耳がわずかに震えたが、それ以外は何も変わらない。けれど、胸の奥でじわりと広がるあの痛みが、いつものように重くのしかかる。


「……わ、わかりません……」


教師は表情を崩さず、薄く微笑んだ。


「そうでしょうね。」


教室内に、小さな笑い声が散らばった。

最初はひそやかに、それが次第に連鎖し、広がっていく。くすくすと交わされる視線、含み笑い。そこに漂うのは、獲物を見つけた者たちの残酷な期待。


リアは視線を落とし、ノートの端を強く握りしめた。

白くなった指先に気づく余裕もない。ただ、笑い声が絡みつくように広がり、囁き声と視線の重みが、全身を押さえつけていくのを感じるだけだった。


しかし、嘲笑が広がり始めたその瞬間――


教師は手を挙げ、教室全体を鋭く見渡すと、向かいの席であからさまに薄笑いを浮かべていた生徒を指さした。


「それで、霧島さん。ずいぶん楽しそうでしたね。」


「では聞きましょう。あなたは トライフェクタ の力を信じていますか? それが我々を結束させる理由を説明できますか?」


不意を突かれた霧島は、口を開きかけては閉じ、しどろもどろになりながら言葉を探した。

だが、答えは見つからない。


教師の笑みがわずかに歪む。

そして今度は視線を移し、教室の最後列――リアの隣の席を指さした。


「では、木下くん。君はどうですか? トライフェクタ の力を信じますか?」


ナオトはハッとしたように姿勢を正し、眠気を振り払うように軽く瞬きをした。

琥珀色の瞳が左へと滑り、頼みの綱であるエルフの少女を探す。


――助け舟を出してくれないか?


そんな期待を込めた視線だったが、リアは控えめに肩をすくめた。

確信というよりも、ナオトを安心させるための仕草に見えた。


彼は小さく息を吐きながら、椅子の上で姿勢を変える。

無造作に乱れた暗褐色の髪が、どこか計算されたようで、それでいて洗練されていない――そんな印象を与えながら、彼の不安げな表情をわずかに隠していた。


今日は、群衆の一部にはなれない。

教室の視線が一斉に集まり、その重圧がひしひしと押し寄せる。


指先が机の上で落ち着きなくリズムを刻む。

しばしの沈黙のあと、ついにナオトは口を開いた。


「トライフェクタ の強さは、その共通の目標にあります」


慎重に言葉を選びながら、彼は続けた。


「科学、教育、防衛の三つの分野が協力し合うことで、数十年前には考えられなかった成果を生み出しました。たとえば、FTL (超光速) 航行を可能にしたホーキング・リアクター⁴の開発――

惑星や衛星コロニーの設立――

そして、コロンブス号の元運用者である エリュシア神聖帝国 との初めての接触です。」


教師の目がナオトを捉えたまま、微動だにしない。

その表情は冷静――しかし、その静けさの奥には 確固たる信念 が宿っていた。


ナオトは息を整え、なんとか言葉を続ける。


「これらの成果だけを見ても、トライフェクタ が証明してきたことは明らかです……」

「三つの分野が協力しなければ、どれも成し遂げられなかった。」


だが、口にすればするほど、不安が膨らんでいく。

周囲の視線が重く感じられた。


「その……だからこそ、今では交流プログラム⁵があるわけで……」

「帝国との協力で、異界人を連邦社会に迎え入れる。これは トライフェクタ の団結と強さの証明で――」


言いながら、教師を見上げる。

背中にじわりと冷や汗が滲む。


「……ですよね?」


教師はわずかに首を傾げた。


「――君は トライフェクタ の強さは統一にあると言いましたね、木下くん。」


静かだが、どこか鋭さのある声だった。


「そして 交流プログラム、異界人の受け入れ、連邦の成果を語った。」


「そ、そうです……」


教師は軽く息を吐くと、少し身を乗り出した。


「では――考えてみましょう。」

「それらの制度を 支えているものは何か? 」


言葉が、一瞬で空気を張り詰めさせる。


「トライフェクタ は、ただの理念ではない。」

「それを実現し、維持し続けるための 仕組み があるからこそ、連邦は繁栄しているのです。」


ナオトは息を詰まらせた。

その目が、まるで研究対象を観察する学者のように冷静で、それでいて揺るぎない確信に満ちている。


「三つの分野が互いに結びつくことで、理論上は均衡が保たれる。」

「だが――均衡は放っておいて維持されるものではない。」


ナオトの喉がひくりと動く。

視線が教室を彷徨う――助けを求めて。

だが、誰一人として手を差し伸べない。


教師は静かにクラス全体を見渡した。


そして、最後に 冷ややかに言い放つ。


「……まったく。」

「この程度の認識しかない者たちが、未来を担うというのか?」


教師はゆっくりと教室を見渡し、言葉を落とした。


「君たちは、誰一人として本当に理解していないのではないか? あるいは、考えたことすらないのかもしれないな。」


その言葉が静かに響き、教室のざわめきは徐々に消えていく。ナオトは無意識に姿勢を変えた。さっきまでの自分の答えが、教師の言葉の重みの前で浅はかに感じられる。


「トライフェクタ を支えているのは、その恩恵を受ける者ではない。それを築き上げ、支え続ける者たちだ。奉仕し、犠牲を払い、連邦の市民としての資格を勝ち取る者たちだ。」

「市民権は、生まれながらに与えられるものではない。それは勝ち取るものだ。そして、君たちが称賛する トライフェクタの強さ も、その偉業も――すべて、この原則を理解し、受け入れた者たちの犠牲の上に成り立っている。」


教師はゆっくりと歩き出し、列の間を静かに歩いていく。


「今週の初め、旧秩序 の政府について議論したな。なぜそれが崩壊したのか。理想がなかったからではない。責任を強制できなかったからだ。」

「個人の責任は、すなわち集団の責任だ。 民主主義の失敗、ひいては 旧秩序 の崩壊は、"犠牲を知らぬ者" に権力を与えたことに起因する。」


教師は指導棒を持ち上げ、ホログラフィック・スライドを示した。

画面には20世紀末から21世紀にかけての映像が映し出され、教師の言葉に合わせるように流れていく。


「彼らは、すべての個人が等しく社会の存続と繁栄に貢献すると "思い込んだ"。」

「何も与えぬ者に、すべてを決める権利を与えた。結果はどうなった? 戦争、分裂、そして崩壊だ。」


その瞬間、教師はふと動きを止めた。

教室の中、上がった手のひらが目に留まる。


「……大田さん?」


教室の中央付近に座っていた少女が、わずかに前のめりになる。慎重に言葉を選びながら、恐る恐る問いかけた。


「あの……統一戦争の退役軍人たちは、クーデターで政権を奪ったんですよね? 平和的な統一ではなかったって……父が言っていました。」


教師の表情は変わらない。だが、その目が鋭く光を帯びる。

肩の力を抜くようにわずかに体勢を変え、皮肉げな笑みを浮かべると、手に持った指導棒を軽く腰に打ちつける。


「……ほう? 実に興味深い解釈ですね、大田さん。」

「ひとつ聞かせてください。あなたの お父上 のご職業は?」


「……弁護士です。先生。」


教師はゆっくりと頷き、それから静かに笑った。その微かな笑い声が、静まり返った教室に響く。手のひらに指導棒を軽く打ちつけながら、一拍置いて口を開いた。


「……弁護士、ですか。立派な職業ですね。疑いの余地はありません。彼はきっと、"原則" ではなく、"解釈" に基づいて議論することに長けているのでしょう。」


その視線が大田へと向けられる。その目は鋭いが、どこか冷静さを保っていた。


「誤解しないでほしい、大田さん。お父上を個人的に批判するつもりはありません。きっと優秀な方でしょう。ですが……彼は、こう説明してくれましたか?」

「なぜ、彼のような弁護士が 連邦では投票権を持たないのか。」


その瞬間、教室の空気が張り詰めた。ざわ……と小さな囁きが広がり、視線が一斉に大田へと向かう。最初に「疑問を投げかけた」彼女へ。


ナオトはわずかに眉をひそめ、リアの耳がピクリと動く。教師の言葉の中に含まれた、微かな "棘" を聞き取ったかのように。


教師は静かに片手を上げると、教室のざわめきを止め、最前列のある生徒を指さす。


「……田村くん。」


「え、えっと……」 指名された田村は、一瞬戸惑いながらも、視線を彷徨わせたあと、恐る恐る答えた。


「……弁護士は トライフェクタ に仕えていないから、ですよね? 弁護士は 公共階層(ブリック・ストラタム)⁶に属していて……一般市民は 防衛や連邦の発展に貢献していないことが多い から……投票権が与えられない、って……?」


教師の唇がわずかに歪み、苦笑とも皮肉ともつかない微笑が浮かぶ。その視線は揺るぐことなく、生徒を見据えたまま言い放つ。


「違う。答えになっていない。」


教師は歩を進め、列の間へと近づく。その存在の重みが、教室全体に静かに圧し掛かる。

「政治的権限とは、報酬ではない。ただ与えられるものでもない。"与えられたもの" に価値はない。」

「そして、それは単なる "直接的な貢献" の問題でもない。確かに、弁護士、商人、その他多くの者が連邦にとって貴重な役割を担っている。それは疑いようがない。」


教師の声が静かに教室に響く。


「しかし、正式市民 とは、職業や技能の問題ではない。それは "犠牲" の問題だ。連邦の存続と繁栄が、個人の欲望や快適さよりも優先されることを、"行動" をもって示せるかどうか。それが、正式市民権の本質である。」


彼の目が細められ、言葉に鋭さが宿る。


「トライフェクタ――科学、教育、防衛の各部門は、単に "奉仕" するために存在するのではない。それは、この社会の基盤そのものを守るためにある。」

「その一員となる者は理解している。彼らの人生も、時間も、努力も――すべてが "個人のもの" ではなく、国家共同体 (ボディ・ポリティック) に属するのだということを。」


教師は再び大田へと向き直る。


「君の父上は、連邦の創設が暴力によって成されたと主張するかもしれない。それに関しては、ある意味で正しいのかもしれない――大いなる変革には、常に大いなる代償が伴う。」

「だが、考えてみるといい。もし、すべてを捧げてでも連邦の存続を守ろうとした者たちがいなかったとしたら、今の連邦は存在しただろうか?"快適さ" と "無関与" を選んだ者たちに、果たしてこの国家を築くことができたのか?」


教室は静まり返った。教師の言葉の重みが、分厚い幕のように生徒たちを覆い尽くす。


ナオトは頭の横をかきながら、完全に自信を失った表情を浮かべる。一方、リアはそっと視線をノートへと落とした。誰も何も言わず、ただ空気だけが重く張り詰める。


――カーン……コーン……カーン……コーン……


鐘の音が静寂を破るように鳴り響いた。


「――だからこそ、弁護士をはじめとする者たちは、投票権を持たないのです。」


教師は静かだが、揺るぎない声でそう締めくくった。


「連邦の未来を形作る権利は、特権や議論によって得られるものではない。それは、奉仕と犠牲によって勝ち取るものだ。 そして君たち、若き学徒の務めは、"学ぶこと" にある。」

「さて……課題の話に移ろうか。」


教室中から、落胆と諦めの混ざったようなうめき声が上がる。しかし、この教師に "同情" という言葉は存在しない。


「レポートを書いてもらう。」


軽く片手を挙げると、教師は教室のざわめきを静めた。


「今日の議論を振り返り、次回の授業で自分の考えを発表してもらう。特に――正式市民と一般市民の間に "道徳的な違い" があるのか、ないのか。それを、自分なりの言葉で説明しなさい。」


再び、教室内に不満げなうめき声が広がる。教師は教壇の端に指導棒を軽く打ちつけた。その乾いた音が、教室全体に響き渡る。それはまるで、"この場を支配する者が誰か" を静かに示すような音だった。


「期限は三日だ。」教師はそう付け加え、軽く頷いて学級委員に合図を送る。


生徒たちは一斉に立ち上がり、挨拶の声が教室に響き渡る。授業は正式に終了した。教師は教材を片腕に抱え、教室の扉へと向かう。


扉を開ける前に、最後の一瞥を教室へと向ける。その表情は、何を考えているのか読み取れない。


「それでは、良い一日を。」


静かにそう告げると、廊下へと足を踏み出し、背後で扉が閉まる。


教師の足音が遠ざかるにつれ、教室内のため息と椅子のきしむ音、紙をめくる音が広がる。


「三日? マジかよ……」


誰かがぼやくように呟き、椅子にもたれかかる。


「歴史と社会って、楽な科目じゃなかったのかよ……」


別の生徒が続けると、教室内に小さな笑いと共感の空気が広がっていった。

ナオトは机に突っ伏し、腕を枕にしてぼやくように呟いた。


嘉信羅(かしんら)先生、マジで容赦ねえよな……レポート三日で仕上げろって? そんな簡単に答えが出るわけないだろ。」


「そんなに難しくないと思うけど……」リアはぼそっと言った。その声には、迷いが滲んでいた。ノートから顔を上げると、教室内のざわめきに目を向ける。


「私も全部わかってるわけじゃないけど……モリ先輩 が『嘉信羅(かしんら)先生ってさ、たまにすげえイラッとくるんだよな』って言ってたの、なんとなくわかる気がする……。」


ナオトは椅子にもたれかかり、短く笑った。


「考えが足りてないって思わされるんだよな。鬼族だからもっと威圧感あるのかと思ったけど……ただひたすら厳しいだけっていうか。」


彼は小さく肩をすくめ、苦笑する。


「多分、宿題も根性試しの一環 くらいに思ってんじゃないの……。」


リアの視線が一瞬だけナオトに向けられた後、指先がノートの表紙をなぞる。


「鬼族だろうと、先生は先生でしょ。それに……正直、私は彼の授業、結構好きかも。」


ナオトはニヤリと笑い、机に肘をついて身を乗り出す。


「へぇ……なるほどね。じゃあ、それがリアの計画ってわけ? 将来は教師になって、俺みたいな可哀想な生徒をいじめるつもり?」


リアは横目でじろりとナオトを見た。


「そんなんじゃ……いや、まあ、そうかもしれないけど……でも、そんな単純な話じゃないの!」


どこか呆れたような、でも少し楽しげな口調で言いながら、手に持っていたペンをノートの端でトントンと軽く叩く。


「教師になるまでの審査がどれだけ厳しいか、知ってるでしょ? 学位を取って資格を得るだけでも大変なのに、もしそれが "こっち生まれ" じゃなかったら?」


「ましてや、嘉信羅(かしんら)先生みたいな異世界からの移民 だったら……?」


リアはナオトをちらりと見て、かすかに口元をほころばせた。


「私、生まれはこっちだからね。地球。嘉信羅(かしんら)先生がここまで来るのに何を経験したのか……私には想像もつかないよ。」


「ふぅん……そうか……。」


ナオトは頭の後ろに手を回し、椅子にもたれながらぼんやりと天井を見上げる。


「奉仕と犠牲、ね……。」


教室内には変わらぬざわめきが広がっていた。生徒たちはそれぞれ荷物をまとめ、今日の課題についてあれこれ話し合っている。ナオトの視線は窓の外へと流れ、午後の陽射しが木々の隙間から差し込むのをただ眺めていた。


――ガラッ。


鋭い音とともに教室の扉が開く。


担任が悠然と教室へ足を踏み入れると、そのただ一瞥だけで教室に広がっていた雑然とした空気が一気に落ち着いた。生徒たちは帰り支度を進めながらも、自然と静まり返る。それでも、紙をめくる音や鞄のジッパーを閉める音が、微かな残響となって続いていた。


ナオトは椅子にもたれ直し、静かに息を吐く。


担任の言葉が教室を流れ、淡々と帰りの会が進んでいく。廊下からは、他のクラスの生徒たちの声や足音が微かに響いていた。それはまるで、この学校の生活がどんな思索や迷いにも関係なく、ただ前へと進んでいくことを思い知らせるかのようだった。


最後の挨拶とともに、教室が生徒たちの足音に包まれる。


ナオトはただ少しだけ、その場に残った。

何か言葉にならないものが、心の奥で影のように揺れていた。


――こうして、一日が終わる。

------------------------------------------------------


脚注


(1) 旧秩序 (オールド・オーダー)

19世紀初頭から21世紀末にかけて人類を支配した政府、国家、及び政治制度を指す。

かつては民主主義統治の最高峰と称えられたが、21世紀末には腐敗と非効率が深刻化し、

人々の政治への幻滅を招いた。


(2) マナ

連邦の科学者たちを未だ困惑させる神秘的なエネルギー源。魔法の根源となる存在であり、超自然的な能力を可能にする力。その多くは、エリュシア神聖帝国領で生まれた者たちに先天的に備わっている。

また、マナ濃度の高い惑星では、「マナ粒子」と呼ばれる微細な成分が酸素分子に結合していることが観測されており、帝国出身者はこれによって自然回復を得ることができる。


(3) 異界人(いかいじん)

連邦内で一般的に使われる呼称であり、神秘的かつ魔法的な性質を持つ「異世界」から移住してきた者たちを指す。

主に亜人デミヒューマン、獣の特徴を持つ種族、または幻想的な血統を引く者たちが該当する。

彼らは一般的な人類とは異なる異質な身体的特徴を持ち、さらにマナへの親和性が非常に高い傾向がある。

そのため、連邦の人類にとっては理解しがたく、畏敬と警戒の対象となることも多い。


(4) ホーキング・リアクター

スティーヴン・ホーキングの名を冠した超光速(FTL)航行装置。 コロンブスのFTLエンジンを逆行解析して開発されたもので、連邦の星艦に搭載され、ワームホールを生成することで高速な恒星間移動を可能にする。

この反応炉は、動力源としての役割と、時空操作装置としての機能を兼ね備えており、精製された蒼閃晶を用いてワームホールの安定性を維持し、遠方の惑星への通行を可能にする。


(5) 連邦‐帝国交流プログラム

2088年の初接触の1年後、トライフェクタの教育部門を代表するチェ・ジフンと、

エリュシア神聖帝国のジークフリート2世国王により提案された。

本プログラムは、帝国の技術近代化を促進すると同時に、連邦に対して魔法知識へのアクセスを提供することを目的とする。

民間交流は一定の成果を収めたものの、学術・技術分野における交換は期待を大きく下回り、

両文明間の圧倒的な格差を浮き彫りにする結果となった。


(6) 公共階層 (パブリック・ストラタム)

連邦における非投票権者階級であり、 科学・教育・防衛の「トライフェクタ」に属さない市民を指す。

労働者、民間企業の従業員、独立系メディア関係者、芸能人、フリーランサー、実業家、金融・企業・商業分野の従事者などが該当する。

基本的な権利と経済的自由は保障されているが、政治的影響力は「トライフェクタ」所属者に限られる。

その代わり、公共階層の市民は国家奉仕の義務を負わないため、民間経済の追求に専念でき、より多くの経済的機会や個人資産を享受する傾向がある。


こんにちは、メグメルです。


『アーケイン・フロント』 レコン1➀ を読んでくださり、ありがとうございます!

これはレコン1の第1部になります。物語はまだ始まったばかりで、先はまだまだ長いですが……ここまでどうでしたか?


さて、更新スケジュールについて少し変更があります。


隔週更新から週刊更新へ変更しました!

これからは毎週金曜日に新しい章を投稿していきます。

また、各章を短く分割し、より読みやすい形でお届けすることにしました。


ぜひ感想やコメントをお寄せください!

皆さんのフィードバックが、執筆の励みになります!


それでは、次回の更新でお会いしましょう。


更新ペースを隔週から週刊(金曜更新)に変更しました。

各章を短くし、より読みやすいサイズでお届けします。


ぜひ感想やコメントをお寄せください!

皆さんのフィードバックが、これからの執筆の大きな励みになります。


それでは、次回の更新でお会いしましょう。

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