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アーケイン・フロント  作者: メグメル
【模範市民編】第四章:礼節よさらば
19/37

礼節よさらば②

章の最後に脚注があります。

朝の食事が配られる前――キャンプの一日は、自然と動き出す。


それは、ラッパの音でもなければ、警備兵の号令でも、しつこい目覚まし時計のけたたましいアラームでもない。


ただ一枚の紙切れ――中庭と共同シャワーに面した各兵舎の壁に、無造作にピンで留められた、食事スケジュール表。そこにすべてが書かれている。


朝食は午前七時から九時まで。逃せば、次は昼まで何もない。


最初に出て行ったのはモリタだった。


彼と行動を共にするのは、同じユニットの二つのマットレスを占める藤原親子。モリタは、2A区画の副補佐として――物資の調整、苦情処理、通訳、設備点検、秩序維持といった“やりたくない仕事すべて”を一手に引き受けていた。


始業は朝五時。終わるのは、夜九時を過ぎることもある。


次に出ていったのはリア。


共同食堂での仕事がある彼女は、毎朝早くから厨房に入り、調理補助と配膳をこなす。配給される米の量は限られており、献立には毎日のようにサバ缶が使われていた。2A区画がそうなったのは、事務的な手違いか、それともただの無関心か。理由はどうあれ、リアにとってはありがたいことだった。体を動かしていれば、余計なことを考えずに済むからだ。


カティアのスケジュールは読みにくい。


キャンプ内の医務室はひとつだけ。それも、警備兵たちの管理区域――管理棟の一角にある。医療スタッフは少なく、シフトは長い。彼女は数少ない医療知識を持つ収容者のひとりとして、栄養失調や凍傷、作業中の外傷、時にはマナ離脱症候群¹の処置まで任されていた。


患者がいなくなる日は、ない。


――そして、ナオト。


彼の朝は、モリタやリアほど厳密なスケジュールではなかった。だが、決して気ままなわけでもない。

ドアを押し開けると、再利用された館内放送のスピーカーから、どこか間の抜けた電子チャイムが鳴った。本土で何千回も耳にした、あの陽気なジングル。


中は――まあ、“マシ”程度の暖かさだった。外よりはマシ。でもそれだけ。それでも、人が集まるには十分だった。することがなければ、つい居座ってしまう。


ナオトが最初に向かったのは、PX――もどきだ。


内部はちゃんとした売店に見える。実際、収容者が運営しており、物資は地元の流通から届いている。石鹸、乾物、文房具、煙草、チョコレート、スナック、たまにインスタントコーヒーのパックも並ぶ。

見た目は、普通のコンビニそのもの。


……値札を見るまでは。


収容者にも労働報酬は出る。だが、それでは最低限の必需品すら買えない。実警備兵と役人たち。配給なんか気にする必要もない奴らだ。


「おはようさん。」


聞き慣れた声に振り向くと、そこにいたのは福田(フクダ)さん。PXの運営補佐を務める連邦任命の人間。すでに棚卸しを始めていて、煙草のパックをロック付きの缶に移しながら数を数えていた。色あせた青と白のジャケットが、ますます場違いに見える。


「あれ、衛生用品か?」


ナオトが顎でカウンターの箱を示す。


福田は眉を上げ、箱をずらして側面のマークを見せた。


「さっき届いた。」


短く呻いてから、手元のクリップボードをめくる。


「二週間遅れ……まあ、届いただけマシか。悪いけど、奥に運んどいてくれ。それと、リスト確認してくれる? また石鹸の数、ごまかされてる気がする。」


ナオトは肩を回しながら、箱を棚の奥へと運ぶ。


いつも通り――古いスピーカーに取り付けられたラジオから、FedNewsの音声が流れていた。時折ノイズに混じりながらも、内容は聞き取れる程度には届いている。


「――ルミナラIIからの戦略的撤退が継続中。インペリウム軍との一年に及ぶ交戦を経て、テラン指令部は全残存人員および重要資源の避難完了を確認。防衛戦力をソル宙域へ再編成する必要性を挙げています。民間人の移送は現在も続行中であり、難民船および軌道上ステーションはすでに満員状態。市民には資源管理と戦時配給ガイドラインの厳守が求められ、市民候補者は動員支援として兵役、もしくは指定補助任務への協力を推奨。今後数週間以内に、食糧・エネルギー・資材の節約に関する追加通達が発表される予定です――」


ナオトはゆっくりと息を吐きながら、箱を棚の最下段に置いた。


戦略的撤退。


今じゃ、それが“撤退”の言い換えらしい。


ナオトは、数少ない“情報通”の立場にある。PXは情報の集積地だ。ニュースは、ガードたちの会話から直接耳に入る。合理日報(ゴウリニッポウ)²の記者たちですら、ここまでは追いつけない。


ある意味では、“星間共通語”の発音が壊滅的だったのも幸いだった。PXの仕事を得られたのも、地球生まれのガードや役人に“少しだけ”信用されたのも、それが理由。


「一年で、もう二つか……」


福田がぼそりと漏らす。


目線はまだクリップボードに落ちたまま。煙草の在庫を数える時と同じ調子で、ペンを走らせている。カチッと音を立ててボールペンを閉じ、カウンターの上に放った。


「戦線が崩れるたび、都合のいい言い換えが増えていく。最初は“戦術的遅延”、次が“前線調整”。今じゃ、惑星ごと手放しても“戦略的撤退”だ。」


ナオトは手袋の埃を払い、立ち上がる。


「地球が落ちる頃には、“一時的な後退”とか言ってそうだな。」


「冗談でも言うなよ、坊や。」


福田が苦く笑いながら、手元のクリップボードを手のひらに叩きつけた。

ラジオに目をやり、福田は肩をすくめた。


「長期配給制への移行に備えろ――だとよ。エンゲルス・プライムが俺らの背中刺す直前にも、同じこと言ってたな。最初からインペリウムにウェルカムマット敷いてた連中だろ。それで俺たちが締め上げられる? 馬鹿らしいにも程がある。」


「寄生虫どもが……あんな星、とっくにガラス化しときゃよかったんだよ。」


クリップボードを握る手に力が入る。


「共産主義者と社会主義者に政権なんか任せてみろ。国でも星でも、全部地面に叩きつけて終わりだ。」

ナオトが鼻で笑い、頭を振った。


「でもまあ、自分たちで焼け野原にしてくれたのは助かったろ? 連邦が手を出す前に、戦争と飢饉で勝手に沈んでった。」


「だよな。」


福田は鼻から荒い息を吐いた。


「何十年も“自主管理”とか言って家族ごっこしてた連中だぞ。俺たちがあの星くれてやったのに、あっという間に軍閥が割拠して、飢饉が来たら食い物争って喧嘩三昧。まともに動けた試しがねぇ。」


カウンターを指先で強く叩く。


「で、戦争が始まった。ルミナラIIからの撤退を見計らって、裏切りやがった。まるで“革命”だって顔して、星まるごとインペリウムに差し出しやがった。」


福田は鼻を鳴らし、唯一の従業員に視線を向ける。


ナオトは肩をすくめ、それ以上喋れと無言で促した。


「軍閥は片っ端から粛清されて、残りは奴隷だ。ある警備兵が言ってた――いまじゃ奴ら、自分の星を掘ってんだとよ。資源掘って、あのエリー共に献上してんの。自称“革命戦士”様がな。」


福田の口元が、冷笑で歪む。


「ざまぁみろだ。自分の無能で飢えて、尻に火がついたら敵に媚び売って、今じゃ骨が見えるまで働かされてる。手を差し伸べた側に噛みついた罰だ。」


ナオトは鼻で息を吐き、袖の埃を軽く払った。福田の愚痴が空気に沈んでいくのを、黙って聞いていた。

否定はしない。少なくとも、完全には。


エンゲルス・プライムは自壊した。軌道爆撃より徹底的に、内側から。裏切りも驚きではなかった。誰もが「時間の問題」だと分かっていた。


今、奴らはその代償を払っている。


どこか痛快な気もする。それと同時に、心の奥でずっと何かが引っかかっている。――それが、自分にできる“すべて”なのか。


PXで働き、箱を運び、警備兵たちの“伝聞戦争”に耳を傾けるだけ。自分が「報せる側」ではなく「待つ側」でしかないという現実。


ナオトは、あの連中とは違う。自滅しておいて他人を責め、残飯に縋るような真似はしていない。

……けど、自分にはそれを否定できるだけの何かがあるのか。


『ここよりはマシだ』


そう思った瞬間、苛立ちが湧き上がった。


ナオトは志願したかった。東京が陥ちた、あの夜から。すべてを失った瞬間から。けれど、収容者にその選択肢はない。


市民じゃない。民間人ですらない。


反逆者。この社会において、それはエンゲルス・プライムの裏切り者と同じ分類だ。

顎に力が入り、拳がじわりと握られていく。


福田はそんな内面など意に介さず、カウンターにクリップボードを叩きつけ、親指で奥を指した。


「ちょっと納品見てくる。戻ったとき制服着てなかったら承知しねぇからな、坊や。」


ナオトは舌打ちをひとつ漏らす。


「……はいはい。」


肩を回しながら、ナオトは備品庫へと向かった。


支給された制服――胸元と袖に不均一な青と白のストライプが走る、色褪せたシャツ――は、部屋の隅にあるロッカーにかけられている。鍵はついていない。福田曰く、「雇われに鍵はいらない」そうだ。何かをくすねる奴がいれば、すぐ見つかるように。


かつては巨大企業の象徴だったこのデザインも、今や旧時代の遺物だ。それでも連邦の市民や民間人には今も使われている。時代が変わっても、ブランドだけは生き残ったらしい。


ナオトはため息をつきながら、制服に袖を通した。


今日も、恐らくは静かな一日になる。


それでも、数時間でもカウンターの裏に立っていれば、余計なことを考えずに済むかもしれない。

……かもしれない。


「――主要都市の大半を喪失したにもかかわらず、連邦軍は依然として鉄鬼族の脅威に対し果敢な抵抗を続けています。要衝の奪還を目指した協調的反攻作戦が展開されており、地下拠点に潜む敵性勢力の排除も順調に進行中です。地上部隊の軍事行動を支援すべく、東アジア戦線では“釜山の奇策”および“上海反攻作戦”が、ベオグラード包囲突破の戦果を継ぐ形で実施されており、局所的な抵抗運動との連携が強化されています。報告によれば、インプの地球支配は当初の予想よりも不安定な模様で――」


カウンターにもたれながら、ナオトはぼんやりとラジオに耳を傾けていた。FedNews特有の、いつも通りの口調。


敗北ではなく「戦略的再配置」、停滞ではなく「好転の兆し」――あくまでも連邦が“掌握している”という体裁を崩さず、報せを積み上げていく。


だが今回は、それだけではなかった。


勢いがあった。


「――FAR-01宙域においては、第3統合艦隊の迅速な帰還により地上部隊の戦力が強化され、第1・第3・第6軌道海兵連隊が現地作戦に参加しています。テラン指令部は今後数か月以内に第2および第5統合艦隊が本星防衛とFAR-03宙域奪還作戦の主軸を担うと発表しました。高評議会は“サンフランシスコ”や“ポートランド”³のような事態を再び許してはならないと強調しています。」


胸の奥に小さな違和感が芽生える。


ナオトは静かに息を吐き、そのざらついた感覚を振り払おうとした。

どこかで、FAR-03を統括する評議会の方が、少なくとも命を賭ける覚悟を持っているのでは――そんな皮肉混じりの感謝すら浮かんでくる。


今回は、都市を“守ろう”とする意志が、まだある。


「――連邦本土に戦火が及んだ今、高評議会は戦線の早期奪還を目指し、地上部隊への火力と装備支援の強化を検討中です。OKHディフェンス・インダストリーズ⁴のトップエンジニアおよび兵器技術者は、新型歩兵装備の試験を完了しており、今後数か月以内に実戦配備が予定されています。現時点での正式発表は、テラン指令部より未だ出されておらず――」


ドアベルが鳴った。


「おい、木下。」


福田の声が前方から響く。ナオトが振り返ると、例のごとくクリップボード片手に福田が入ってきた。すでにページをめくりながら、彼は顔をほとんど上げずに呟く。


「補給。いつもの場所に物資運んどけ。」


ペンをカチリと鳴らし、ナオトに一歩前に出るよう促して、クリップボードとペンを手渡してくる。


「食堂、医務室、それと3E区画の隣の倉庫。ラバ⁵を使え。今度は丁寧に運転しろよ。司令官に睨まれるのはごめんだ。」


ナオトが口を開くより早く、福田はクリップボード越しに鋭い視線を投げてきた。


「言い訳は聞かん。」


彼はペンを放し、カウンターの奥へと手を伸ばす。


「この前は俺のせいじゃ――」


「はいはい、ぬかるみに前輪取られたとか、道に飛び出してきた奴が悪いとか、そういう話だろ?」


福田は舌打ちしながら、鍵を手に取った。


「ラバの積み込みまでやらせてねぇだけ感謝しろっての。」


鍵をジャラジャラと音を立てて、ナオトの目の前に揺らす。


「文句は後で聞く。今は動け、坊や。」


ナオトは無駄に時間をかけなかった。かけられなかった。 給料は微々たるものだが、ここでは一クレジットですら貴重だ。 鍵を受け取り、壁のフックからコートを引っ掴んで外へと踏み出した。


「ラバ」は、いつもの場所にあった――PX裏の簡易整備小屋だ。


嫌というほど聞かされた説明を思い出す。ずんぐりした装甲車両。軍人や開拓民には“頼れる相棒”として愛用されているらしい。


ただし、ナオト自身を除いて。


運転自体は楽しいが、ナオトがハンドルを握ると決まって何かが起きる。以前は走行中にトレーラーの留め金が外れ、その月の米の配給量が半減した。あの時の住人たちからの静かな怒りの視線を、ナオトはまだ忘れていない。


車体後部には、福田が積み込んだらしい荷物がすでに満載されていた。クリップボードのリストを手に取り、素早く確認する。いつもの通り――米、肉の配給分、機械部品。肉のパックには番号付きのタグが貼られ、それぞれ指定された食堂に運ばれるようになっている。これだけあれば、一ヶ月は持つだろう。


「よし……。」


ナオトは運転席に乗り込み、鍵を口にくわえながら両手をこすり合わせて温める。イグニッションスイッチはいつも通り頑固だ。ラバは寒さに弱い――特に、今日のような日は。


「頼むから機嫌直せよ、ポンコツ。」


鍵を回す。


エンジンが咳き込むように一度震え――

ぐずるように震えたあと――

止まった。


ナオトは苛立った顔で、再び鍵を回した。


もう一度、エンジンが弱々しく震え、息切れしたように掠れた音を立てる。それから――ようやく、低く唸るような音を響かせてエンジンが目覚めた。


ナオトは安堵の息を吐き、擦り切れたシートに深く沈み込んだ。車体から伝わる規則的な振動が心地いい。 知らず、顔に笑みが浮かび、彼は小さく拳を掲げてガッツポーズを決めた。


慎重にラバをギアに入れ、ゆっくりとスロットルを押し込む。最初の目的地――2A区画の食堂に向けて車体が転がり始めた。


陽はすでに地平線を越えている。


――長い朝になりそうだ。


昼食の時間まで、あと二時間しかない。


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脚注


1) マナ離脱症候群/MANA WITHDRAWAL SYNDROME(MWS)

第一世代イカイジンや、生来魔力適性を持つ者が長期間マナのない環境――特に地球のような“ゼロ・マナ環境”で発症する症状。疲労、頭痛、筋力低下、認知障害、術式の発動失敗などが見られ、重症の場合は震え、幻覚、マナ回路の崩壊による致死に至ることもある。治療には制御下でのマナ接触、合成補助剤、適応療法などが用いられる。


2) 合理日報(ゴウリニッポウ)

N15コミュニティセンターで発行される“公式”新聞・掲示板。3C区画のタイフリング、キサラギ・ヴェイルを中心とする若い記者チームが企画・運営している。名称は連邦がキャンプ設置を「合理的かつ必要な措置」と正当化する姿勢への皮肉を込めたもの。日本語と星間共通語で発行されるが、配布前には必ず連邦の検閲が入る。


3) サンフランシスコおよびポートランドへの砲撃(封鎖プロトコル・ゼータ・ヌル)

鉄鬼族による第一次侵攻で、両市の防衛線が崩壊し、州兵二個大隊が壊滅した直後、FAR-01評議会は即時決断を下した。救援も撤退もなく、ただ軌道上からの動力弾道砲撃によって都市そのものを“封鎖”――完全消去した。


公式には「封じ込め措置」とされている。


4) OKHディフェンス・インダストリーズ

統一戦争の終結時にドイツのH&K社、ロシアのカラシニコフ社、北米のコルト社が合併し、誕生した連邦最大手の兵器製造複合企業。アーケイン・フロンティア戦争勃発以降は、電磁式歩兵兵器の開発に注力している。


5) KF-150「ミューリ」

独語で「ラバ」の意。旧式のケッテンクラートを元に開発された小型履帯式輸送車両。小型ながら最大牽引容量は1.5トンに達し、優れた汎用性から連邦軍や開拓民にとって欠かせない存在となっている。悪路での機動性に秀で、大型車両が苦戦する地形でも活躍する。

2025/7/10 - カチャをカティアに変更しました。ごく小さなこだわりですが、こちらの方が名前の響きが良く感じたためです。

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