礼節よさらば➀
章の最後に脚注があります。
冬の冷気が肌を裂くように鋭く突き刺さる。
一人の男が雪の中を足早に進んでいた。手には木箱。厚手の手袋越しに、指先がそれをしっかりと捉えている。踏みしめるたび、雪を砕く音が静寂の中に規則正しく響いた。
佐渡島・大佐渡山地の初雪から、すでに数週間。峻険な山肌は一面の白に覆われ、粗末な兵舎や監視塔、有刺鉄線の柵が雪に埋もれて息を潜めていた。冷たさと地形がすべてを包み込み、外界の目を寄せつけない。
それでも、辺りには確かな美しさが漂っていた。
N15コミュニティセンターの完成を待たずして、「異界人」と呼ばれる者たち――およそ三百名が本土から送られてきたのは、2140年1月18日の夜。
敷地は約80ヘクタール。急ごしらえで切り開かれた土地には、古い登山道の名残がところどころに残り、低木がわずかに顔を出している。警備員用のテントが数張。フェンスは二重構造で、その外周には無骨な監視塔がいくつか立っていた。
三百人の中には、地球生まれの人間も少数いた。
――連邦の分類では「反逆者」。
兵舎の前で男は足を止めた。吐く息が白く、速く、短い。木箱を持ち替え、手袋越しに拳で扉を軽く叩く。乾いた音が、壁に鈍く響いた。
やがて扉がきいと音を立てて開く。
顔を覗かせたのは、二十代前半の若者。どこか安心したような、それでいて少し茶目っ気を帯びた笑みが浮かんでいた。
「おっ、来たか。」
扉の脇に身を引きながら、声に笑みを滲ませる。
「手に入ったのか、ナオト?」
木下直人もまた、ここに送られてきた「反逆者」のひとり。
「イチゴジャムにビスケット、それとラノベ三冊。バッチリだぞ、もり先輩。……あ、あけおめ。」
にっと笑って、木下直人は軽やかに兵舎へと足を踏み入れた。
モリタは小さく微笑み、
「あけましておめでとう。」と静かに返す。
――アーケイン・フロンティア戦争の開戦から、一年と二ヶ月が経過していた。
階段の縁でナオトがブーツを鳴らすと、雪の塊がどさりと床板に落ちた。
モリタは黙って手を差し出し、木箱を受け取ってストーブの近くへと運ぶ。そこには他の数人が身を寄せ合いながら、かすかな灯りとわずかな熱を分け合っていた。
『収容予定、八千人のキャンプか……』
コートと帽子についた雪を払いつつ、ナオトは内心で呟く。
『最初よりはマシだけど……これが自国民への仕打ちかよ、連邦さんよ』
彼らがこの地に送られてきた当初、完成していた兵舎はわずか五棟だった。それぞれが六つのユニットに分かれ、仕切りは薄く断熱材もない。凍てつく寒さを防ぐにはあまりにも頼りない作りだった。
一つのユニットには、家族あるいは五〜八人の小集団が押し込まれる。与えられたのは、最低限の寝床とストーブのみ。隣のすすり泣き、くぐもった口論、誰かの苛立ちが壁越しに伝わってくる。
ユニットの中には、金属製のフレームに六つのマットレス。流しも風呂もない。ただ、天井から下がる裸電球が一つ、弱々しく明かりを揺らしているだけだ。小さな強化ガラスの窓が四つ、外の景色をわずかに映す。カーテンは贅沢品だった。
「これで全員? あいつらは?」
ストーブに近づきながら、ナオトが首を傾げる。
「藤原のおっさんと娘は、3Cの娯楽棟に行ったってさ。」
木箱を開けながら、モリタが応える。
「今夜は俺たちだけだ。立ってないで、さっさと座れ。」
ナオトは肩をすくめたまま、コートを脱がずにいた。容赦ない冷気の中で、それを脱ぐという選択肢は最初からなかった。
帽子を壁のフック――といっても、プレハブの壁に打ち込まれた釘一本だ――に引っ掛け、手袋は脇の木箱の上に置く。そして視線をストーブのまわりへ向ける。静まり返った室内を、そっと見渡した。
カティアはストーブのすぐそばに座っていた。長い黒髪はゆるく編み込まれ、片肩にかかっている。湾曲した角の縁には霜がこびりつき、尾は脚に巻きつけるようにして体温を逃さぬようにしていた。背中に畳んだ翼が時折、小さく震える。
いつもどおり、彼女はモリタの近くに身を寄せていた。目は弱々しい炎にじっと向けられ、意識の半分はどこか遠くにあるかのようだった。手をかざしながら、かすかに指先を震わせている。
モリタはストーブの脇でしゃがみ込み、黙々と木箱の中身を整理していた。炎の明かりが彼の顔を照らし、揺れる影が頬に落ちる。
十九歳――カティアと並んで、この場では最年長のはずだった。けれど、ナオトの目には、それ以上に老け込んで見える。落ち着いていて、頼りがいがあって、肝心なときにはいつも言葉を選んで場を和ませてくれる。
……それが妙に癪だった。認めたくはなかったが。
そして――リアがいた。
仲間の中で、ナオトがいちばん長く知っているのは彼女だった。男勝りのハーフエルフ。内に秘めた芯の強さで人を惹きつける一方で、鋭い皮肉でナオトの浅はかさをあっさりと断ち切る。それが彼女のスタイルだった。
でも、ナオトには分かっている。
その静かな笑顔の裏に、どうしようもない悲しみと痛みが、いつも静かに潜んでいることを。
『今日はどうだ、副隊長』
そう思いながら、ナオトはリアの隣に膝をついた。ちらりと目だけで彼女を見る。
リアの視線は、モリタの動きを追っていた。けれど、その瞳の奥に浮かぶやわらかさに、ナオトは居心地の悪さを覚える。
『……まぁ、いいけどさ』
自分の視線を逸らしながら、ナオトはそっと息をつく。
『たまには、こっち見てくれよな……』
到着から一週間が過ぎた頃、あの知らせが届いた――家族の誰一人として、東京を脱出できていなかった。安否確認もされていないという。
あの夜、リアの泣き声が今でも耳に残っている。弟と妹の名前を叫び続け、声がかれるまで取り乱していた。何度も、何度も。
しまいには、どうにかして東京に戻ろうと、本気で脱走を計画しはじめた。無謀で、現実味のない行動。
それを止めたのは、モリタだった――そして、ナオト自身の必死な説得だった。
「はいはい、ジャムとビスケットな。」
モリタがそう言いながら、小瓶の真っ赤なジャムと、ビスケットサンドのパックを差し出す。
カティアがそれを受け取り、じっと確かめるように手の中でジャムの瓶を回した。ふわりと笑みが浮かぶ。
「ストロベリージャム……なんて久しぶり。」
その小さな瓶を、丁寧にリアへと手渡す。
リアは静かに受け取り、指先でラベルの文字をなぞりながら、かすかに笑みを浮かべた。
「今じゃ、贅沢品みたいなもんだね。」
「どうやって手に入れたの?」
「キャンプのPX¹からの“ご褒美”ってやつ。」
ナオトが壁にもたれながら肩をすくめる。
視線の先では、モリタが相変わらず無言で他の物資を仕分けていた。
「ま、最低限の対価ってとこかな。俺の働きにしては。」
モリタは顔を上げなかったが、口元の端がわずかに動いた。
「何もないよりは、マシだろ。」
「それは言えてるな……」
カティアがふっと笑い、背筋を伸ばしながら軽く腕を伸ばす。
「あなたたち二人が、ここでどれだけ頑張ってるか分かってるわよ。ジャムとビスケットの件だけじゃなくてね。キャンプがここまで回ってるのは、間違いなくあなたたちのおかげ。」
「それはどうも、アシスタントナース殿。」
モリタがそっと視線を向けながら、軽口を返す。
「調子に乗らないでね?」
カティアはいたずらっぽく目を細めた。
「次、人手が足りなくなったら、医務室で働いてもらうから。」
ナオトはくくっと笑いながら、手をストーブにかざした。かすかな熱がじんわりと手のひらに伝わる――このキャンプで数少ない“救い”のひとつだ。あとは医務室のベッドか、2B区画の食堂で出される温かい食事くらい。
「それは楽しみだな。」
沈黙を破るようにナオトが口を開く。
「モリ先輩が傷の手当てしてる姿、想像できる? ちょっと擦りむいただけでシリンジピストル²構えてきそう。」
「お前の“診察態度”よりはマシだろ。」
モリタは間髪入れずに切り返した。
「応急処置くらいは心得てる。」
「へえ? そうなの?」
カティアが目を細め、冗談っぽくからかう。
「……まあ、それなりに。」
モリタは肩をすくめる。
「2A区画の副補佐なんて、楽な役目じゃない。藤原のおっさんなんか、通訳なしじゃ何もできないし。」
そう言いながら、木箱の中を漁っていたモリタが、一冊のラノベを取り出す。そして、舌打ち。
「チッ、これもう読んだやつだ。もうちょい新しいのないのかよ。」
「私はまだ読んでない。」
リアがすぐに反応する。
モリタは軽く肩をすくめて、そのままラノベをリアに渡した。
「ありがと……」
リアは受け取った本の表紙をなぞりながら呟く。
「交代の合間に読むのにちょうどいいかも。食堂での仕事、結構時間空くし。」
ナオトは小さく息をつきながら、その様子を横目でそっと盗み見る。
――食堂。
一年前は鉄骨のフレームだけの骨組みで、床板も半ば、屋根も壁もない状態だった。
それでも人が増え続け、軍用レーションだけでひと月も耐えねばならなかった。
「……ストーブ、まだ壊れてないか?」
ナオトの思考を断ち切るように、モリタが尋ねる。
リアは小さくうなずいた。
「意外と平気。マルチ燃料式って、ほんと頑丈。」
手にした本をぱたぱたと掌に叩きつつ、
「でも、材料が常にギリギリじゃ意味ないよね。さて、明日のランチは何でしょう?」
モリタが笑い、ナオトもそれに続く。カティアはあきれたように目を転がした。
「サバ?」
「ビンゴ。」
「これで……六ヶ月連続よ?」
カティアはため息をつきながら、眉間をつまむ。
「サバが嫌いってわけじゃないけど、このペースだとカタツムリでもトンネルウィーバーでも構わないくらい。」
ナオトが吹き出す。
「屋根すらなかった頃、思い出してみ?」
リアが鼻を鳴らす。
「……あれは、忘れたくても忘れられないわ。」
ナオトは小さく笑うが、その記憶には苦味が混ざっていた。
あの頃、使えた設備はストーブ³一台だけだった。即席で組まれた作業台に無理やりボルト止めされたそれが、キャンプ全体の胃袋を支えていた。八千人を収容予定の場所にしては、笑えるくらい脆弱なインフラ。
料理担当も、大半が志願した収容者たちだった。最初の一週間は、拾い集めた毛布にくるまりながら、冷たい床の上で寝ていた。
「……まだマシよ。共同シャワーよりは。」
カティアがぽつりとつぶやき、体を少し後ろに預けた。
「まだ凍ってんのか?」
モリタが眉を上げる。
リアは瓶のスチールキャップをひねって開け、香りを確かめたあと、カティアにビスケットを渡すよう手で合図した。
「少なくとも、毎朝バケツの氷を砕く作業から解放されたわ。春になるまでは地獄だったけど……」
そう言って、彼女も体を少し後ろに倒す。
「フェッドの技術屋たち? あいつら、個人的には英雄だと思ってる。」
ナオトは静かに首を振った。思い出したくもない、あの最初の数週間を。
このキャンプは、AからEまでのブロックに分けられている。
各ブロックには十四棟の兵舎、食堂、娯楽棟、そして共用の水回り施設が割り当てられていた。
最初の朝、ナオトは目を覚ましてすぐに思い知らされた。
貯水タンクは分厚い氷に覆われ、外壁に沿って這わせたプラスチック製の配管は寒さでひび割れていた。
共同シャワーは? 凍結して使い物にならず。
唯一動いていた洗面台も、まともに機能していなかった。
水の確保――それが新たな「戦い」になるまで、時間はかからなかった。
最初のうちは、警備兵の指示で毎朝氷を砕く作業が日課になった。
道具がなければ、古いブーツや素手で叩き割るしかない。どうにかかき集めた水はバレル缶で運ぶが、放っておけば夜にはまた凍る。
凍らせないようにするには、とにかく“動かす”しかない。
使い続け、循環させる。その合間にも、彼らは新たな兵舎を建て、既存の施設を補修しながら、限られた資材を一つ一つつなぎ合わせてキャンプを拡張していった。
そして数週間後、戦闘工兵部隊が到着し、状況がようやく動き出した。
配管は地中深くに埋め直され、簡易の断熱材が追加された。
食堂近くには、集中式の加熱式貯水タンクも設置される。
それでも、最低限――凍結を防ぐには“ギリギリ”の仕様だったが、それだけでも大きな進歩だった。
もちろん、完璧にはほど遠い。
水は依然として配給制で、気温が下がりすぎれば配管はあっさり凍る。
シャワーはぬるいのが関の山で、出遅れれば氷水で洗う羽目になる。
どのブロックにも、それぞれの“苦労”がある。
彼らの所属する2A区画では、延々と支給されるサバ缶が最大の“悩み”だった。
それでも――人は、慣れる。
2141年。新しい年が始まっても、この暮らしは何一つ変わらなかった。
ナオトは足を伸ばしながら、苦笑まじりに首を振った。
「さ……こうして“寒さ対策”だけで一日の半分潰してんの、バカみたいじゃね?」
モリタが木箱から顔を上げ、口元を緩める。
「奇遇だな。俺もちょうど同じこと考えてた。」
カティアが袖口の擦り切れた布をさすりながら、ため息をつく。
「それでも、バケツで水運ぶよりはマシよ。」
「確かにね……」
リアが本のページをめくりながら、鼻歌交じりに応える。
「もっとひどい状況、いくらでもある。」
「サバ風味の水とか?」
ナオトの言葉に、カティアが呻くように声を漏らし、呆れ顔を向けた。
その視線にリアが静かにうなずき、無言で本を閉じて立ち上がる。
自分のベッドから枕をひとつつかむと――
勢いよく、ナオトめがけて投げつけた。
------------------------------------------------------
脚注
1) PX(POST EXCHANGE/物資支給所)
軍の駐屯地などに設置される売店。N15コミュニティセンターのPXは収容者の手で運営されており、機能的には簡易なコンビニに近い。取り扱う品物は外の世界では普通でも、キャンプ内では“贅沢品”とされていた。
2) 35式注射ピストル
従来の注射器や点滴を置き換えるために軍用として開発された携行型医療器具。特にエルデウ投与に最適化されており、戦地など迅速な処置が求められる環境で使用される。
3) MFS-72 多燃料業務用調理ストーブ
過酷な環境下でも安定して稼働する大型ストーブ。モジュール構造と高い耐久性を備え、地球上の僻地はもちろん、未開拓惑星など物資供給が限られた環境でも使用される。開拓民や遠征拠点では欠かせない存在。
2025/7/10 - カチャをカティアに変更しました。ごく小さなこだわりですが、こちらの方が名前の響きが良く感じたためです。




