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アーケイン・フロント  作者: メグメル
【模範市民編】第二章: 砕かれた平和【上】
12/37

砕かれた平和【上】⑤

章の最後に脚注があります。

世界は、断片的に戻ってきた。格子窓から差し込む、ちらつく光。機械油と錆の混ざった匂い。外から聞こえる、微かな話し声——モリタの頭がずきずきと痛む。意識は、霧の奥から必死に這い出そうとしていた。


ゆっくりと瞼を開けた瞬間、手首を締め付ける冷たい鋼の感触が現実へと引き戻す。


自分は——硬い木製のベンチに座っていた。背もたれの金属が、背中にじんわりと冷たさを伝えてくる。

周囲を見渡せば、そこには見慣れた顔。クラスメイトたちが小さな集団で身を寄せ合い、息を殺して座っていた。手を握りしめる者、虚ろな目で遠くを見つめる者——沈黙の中に、微かな震えが混ざっていた。

その沈黙を割るように、柔らかく旋律のような声が流れる。言葉の端々が鋭く、水のように滑らか——《星間語》の響きだった。


《……分けられると思う……?》 《……妹は……まだあそこに……》 《……聖母フレイヤよ、どうか……》


モリタの眉がぴくりと動いた。聞き取れる単語は限られていた。日常的に使うこともなかったから、完璧ではない。けれど、その声の震えだけは、痛いほどに伝わってくる。不安と恐怖。それは彼自身の胸にある感情と寸分違わなかった。


すぐ隣で、カティアは黙ったまま自分の手を見つめている。手首には、彼と同じ拘束具。黒髪が顔の半分を隠し、翼は体に巻きつくように閉じられ、尾は足元に巻きついて震えていた。


「……カティア……」


モリタの声は掠れていた。喉が焼けるように痛み、言葉を出すのがやっとだった。


その声に、彼女の肩がぴくりと揺れる。ゆっくりと視線をこちらに向けた。一瞬だけ、彼女の顔に安堵の色が浮かぶ。すぐに疲労の陰がそれを追い払った。


「……タツキ……起きたんだね」


モリタは少し体を動かし、手錠がカティアリと音を立てた。


「……何が、起きた……? 大丈夫か……?」


カティアは小さく頷いた。表情には、まだ不安の色が濃く残っていた。


「……あなたが廊下で倒れた後、すぐに連れて行かれたの。私たち全員、このトラックに詰め込まれて……」


声が、わずかに震える。


「まだ……学校の敷地内よ」


モリタは窓へ視線を向ける。格子越しに、ぼんやりと軍服の影が見える。外からは命令を叫ぶような低い声が、金属の壁を通して聞こえてくる。トラックは——動いていない。まだ、ここは学校だった。


隅には、ドライアドの少女。胸元には青く輝く小さな結晶を抱え、その淡い光が震える指先を照らしていた。手首には細い蔦。その葉は呼吸のたびに、しおれるように垂れている。


少女の口から漏れる声は、繊細で旋律のようだった。柔らかく流れ、時折、鋭く舌を鳴らすような音が混ざる。


その向かいでは、若いエルフの少年が祈るように肩を震わせていた。儀式のような、あるいは歌のような口調で——モリタは、かすかに聞き取れる単語を拾っていく。


《……守って……お願い……》 《……永遠の光よ……導いて……》


カティアの隣では、小さなドワーフの少女がすすり泣いていた。隣の生徒が何かを囁く。


モリタはそっと体を傾け、低く、慎重に——たどたどしい《星間語》で口を開いた。


《……落ち着いて……大丈夫……》


ドワーフの少女がぴたりと動きを止める。潤んだ瞳が、恐怖と戸惑いに揺れながら彼を見つめていた。

その隣のドラグーンの少年も、驚いたように顔を上げる。その表情には、戸惑いと——ほのかな安堵。


《……あなた……わたしたちの言葉……わかるの……?》


その問いも、星間語だった。少年の声はかすかに震え、ゆっくりと発音されていた。まるで、モリタが途中で“置いていかれない”ようにするかのように。


モリタは一瞬だけ口ごもる。慣れない発音に舌をもつれさせながら、なんとか返す。


《……すこし。学校で……交流プログラム……》


カティアを見て、短く言った。


《彼女も……少しだけ、勉強した》


ドラグーンの少年の肩が、すっと落ちる。緊張が和らいだのだろう。ドワーフの少女も、小さく鼻をすすりながら頷いた。


《……わたしたち……どこに連れていかれるの……?》


近くにいたドライアドの少女が、小さく囁いた。消え入りそうなほどか細い声だった。

モリタは首を横に振った。


《……わからない。まだ……学校。待ってる》


ドライアドの少女は、結晶をさらに強く胸に抱きしめた。唇を結び、うつむく。


カティアの視線は、ずっとモリタに向けられていた。その瞳には、驚きと微かな感心の色があった。

しばらくの沈黙の後、彼女はそっと口を開く。金属の冷たさに包まれた車内には、あまりにも不釣り合いな、優しい響きだった。


《……上達したのね》


モリタは頷いた。手錠の冷たさが、現実を引き戻す。


《……まだ……足りない。でも……少しは……伝わる》


カティアの尾の先が、わずかに揺れた。唇がかすかに上がる。それは、この場所でなければ、きっと“笑顔”と呼べたかもしれない。


《……うれしい》


二人の会話は、そこでいったん途切れた。再び、静かな祈りの声と押し殺した嗚咽だけが空気を支配する。何かを“計画”する余地も、“逃げる”という希望もなかった。ただ、待つだけ。次の瞬間を。次の命令を。そして、自分たちを待ち受ける“なにか”を。


砂利を踏む音が、外から近づいてくる。会話が止み、息が止まり、空気がぴたりと凍った。


ガチャリ——トラック後方の扉が外れ、鈍い金属音と共に開かれる。眩しい光が容赦なく車内を貫いた。モリタは思わず目を細める。


影が二つ、入口に現れる。先に入ってきたのはナオトだった。足元はふらつき、片手で脇腹を押さえている。頬には青黒い痣が浮かび、顔色は悪い。


琥珀色の目が車内を素早く走査し、モリタとカティアに止まる。


リアが続く。目は鋭く全体を見渡していた。冷静に見えたが、奥には微かな不安が揺れている。


「ナオト……? リア……?」


モリタの声は掠れていた。信じられないものを見た驚きが、滲んでいる。


「……こんなところで会うとはな。志願したって言ったら……信じるか?」


ナオトは頬の痣を引きつらせながら、無理やり笑みを作り、カティアの向かいに腰を下ろす。

リアもその隣に座り、目には疲れの色があった。


「それ、ちょっと違うわよ。志願したのはアイツだけ。私は巻き込まれたの」


モリタは眉を上げ、二人を見比べた。微かに笑うでも、呆れるでもない、乾いたユーモアの色が目に宿る。


「……バカども。何があったか、聞かせてもらおうか」


リアが息を吐き、口元を引き結ぶ。


「兵士の一人が、私を引きずり出そうとしたの」


「で、拳で挨拶したと?」


「見事な一撃だったわよ。顎に肘、手首に前腕で叩き落とした。倒れはしなかったけど、次は躊躇ってた」


モリタの視線がリアとナオトを行き来する。……おかしい。殴ったはずのリアに傷はなく、髪も乱れていない。なのにナオトは……。


「……じゃあ、アイツの顔はどうなってんの?」


ナオトは肩をすくめかけ、動きを止めた。リアはもう一度ため息をつく。


「……そこで“志願”よ。代わりに殴られるって選択をね」


モリタはまばたきした。


「つまり、リアがぶん殴って……ナオトが殴られたってことか?」


「そ。騎士道精神って、まだ生きてたんだな。ただし、めっちゃ痛ぇけどな」


モリタは小さく息を吐いた。笑いかけたが、手錠の冷たさが現実を引き戻す。カティアに視線をやると、彼女の唇には仮面のような笑みが浮かんでいた。


「で……これからどうなるんだ?」


声が低くなる。ナオトの笑みが消え、リアは目を伏せた。


「待つしか……ない、かな。わかんないよ、モリ……」


その声に、剣道部副主将だった面影はない。


「……ハジメやアリス……家族……無事だといいけど……」


トラックの隅、エルフの少年が耳を立て、呟いた。


《……戻ってきた……外にいる……聞こえる》


足音が近づく。軍靴が砂利を踏み、金具が揺れる。幌越しに黒い影が揺れ、光の中に輪郭が浮かぶ。


「止まれッ! そこのお前ッ!!」


怒声が鋭く響いた。


モリタは反射的に身を乗り出す。視界の端に映ったのは、一人の異界人の少年。狐の尻尾が恐怖に震えていた。砂利の敷かれた駐車区画を、息も絶え絶えに走っている。


「止まれ!」


低めの兵士が構えに入る。アサルトライフル¹の銃口が、ぴたりと少年に向けられている。


——パァン!


銃声が響いた。銃口から炎が弾け、薬莢が空中で回転しながら弧を描くように飛び、カラン……と乾いた音を立てて砂利の上に落ちる。


弾は少年の足元、わずか数センチ先の地面に炸裂した。砂利と土埃が舞い上がり、彼の顔にかかる。少年はその場で凍りついた。片足が宙に浮いたまま、腕が揺れ、肩が上下する。


「動くな」


兵士の声は落ち着いていた。銃口は彼に向けられたまま、まったくぶれない。


「ゆっくり後ろに歩け。変な真似はするな。次は、外さない」


少年の肩が震える。しばらく硬直していたが、やがて背を丸め、足元を見ながら少しずつ後退を始めた。尻尾は地面に垂れ下がり、敗北の意を体で示すように、動きは鈍く、小さく。


モリタは息を呑んだ。手錠のかかった両手でベンチの縁を握る指先が、真っ白になっている。トラックの外で起きている出来事が、どこか現実離れして見えた。感情の入り込む余地もない、機械的で無慈悲な空間。ほんの一瞬の躊躇が——命取りになる。


兵士は銃を下ろさなかった。少年が列に戻り、他の兵に連行されるまで、スコープ越しに動きを見届けていた。そしてようやく、アサルトライフルを肩から外し、胸元で抱えるように構え直す。


「列を崩すな。頭を下げてろ。二度言わせるな」


一瞬、辺りに静寂が戻る。


だが次の瞬間、それは打ち破られる。


ISBの将校が建物から飛び出してきた。両脇を兵に挟まれながら、鋭い足音を鳴らして一直線に兵士の元へ向かう。手袋をはめた手が、次々とジェスチャーを繰り出す。指先はトラックへ、そして未処理の生徒たちの列へと鋭く突きつけられる。


兵士は直立不動のまま、ライフルを胸に抱え、バイザー越しに視線を上げる。微動だにしない。頷き一つ。視線が動き、空気が一瞬だけ震えた。


会話は短く、軍隊式。意志だけが、簡潔に交わされる。


最後に交わされたのは敬礼。


将校は踵を返し、再びトラックと軍靴の波に消えていく。兵士はその場で回れ右し、鋭い声で次の命令を飛ばした。


無駄がない。迷いもない。声は冷たく、動きは正確。兵たちはその指示に即座に反応し、音を立てて散っていく。拘束の確認、装備の点検、遅れているイカイジンの生徒たちへの促し。どの動きにも、一分の隙もない。


振り返る生徒たちの視線が、トラックの中のモリタと交差する。


その目は、冷え切っていた。諦めたように、どこかで全てを理解していた。


彼女の視線を、モリタは見逃さなかった。バイザーのわずかな動き、駐車区画を横切る視線の軌跡。その体格からは想像できないほどの圧があった。一つ一つの動作に計算された鋭さがあり、頭の角度すら、まるで獲物を狙う猛禽のようだった。


ぴたりと、動きが止まった。


バイザーがわずかに傾く。光が反射し、その縁を鋭く縁取った。


……こちらを見ている。


背筋を何か冷たいものが這い上がっていく。水よりも鋭く、毒のように神経を麻痺させる感覚だった。息が詰まり、身体が固まる。見てはいけない。視線を逸らせ。けれど——できない。


彼女の視線は、幌の隙間越しに、モリタを正確に捉えていた。沈黙が空気を押し潰すように広がる。他の音が聞こえなくなるほどの、濃密な静寂。


——気づいている。なぜかわからないが、確実に。


ゆっくりと、まるで虫眼鏡で観察するかのように、頭がわずかに傾けられる。たったそれだけで、空気が軋む。


足音が鳴る。砂利を踏みしめる音。一歩、二歩、三歩——そのたびに、モリタの胸が締め付けられるようだった。


……向かってくる。


「嫌な予感しかしねぇ……」


モリタが小さく呟くと、緊張が他の生徒たちにも伝わった。カティアの尻尾が脚に巻きつくように縮こまり、リアの耳はぴたりと伏せられた。栗色の鋭い瞳がモリタを一瞥し、すぐに幌の方へと戻る。ナオトも身をすくめ、声がうわずった。


「マジかよ……」


足音が止まった。すぐ外。


一瞬、重く息を呑むような静寂。


——バサッ。


幌が勢いよく捲られる。外の光が車内を刺すように照らし出し、生徒たちは反射的に目を細める。開け放たれた隙間に、兵士の姿がシルエットのように浮かび上がった。


短身の彼女。背後から差し込む光に縁取られ、全ての影を背負ったように見えた。


視界が慣れ始めた頃、モリタの目に彼女のヘルメットが映った。最新型の連邦製。滑らかな外殻には、細かな擦り傷が走っていた——手入れを怠った痕ではなく、日々の任務に刻まれた歴史のような跡。


両側には丸い連邦ラウンデルが白く描かれている。塗装はくっきりとしていながら、どこか風化した雰囲気を漂わせていた。忘れ去られた時代の軍装を思わせる意匠だった。


バイザーは顔の上半分を覆うように装着され、眉の上から下まぶたの辺りまでぴたりと張られていた。その透明なレンズ越しに覗くのは、深い茶色の瞳。警戒心と観察力に満ち、経験に裏打ちされた鋭さが滲んでいる。完全に擦り切れてはいない。まだ、"信じようとする目" だった。


バイザーの下、唇は引き結ばれ、顎のラインは静かに緊張していた。厳しくも柔らかくもない、ただ静かに統率された表情。若さの残る輪郭に、年齢以上の成熟が刻まれていた。


彼女は一歩、中へ足を踏み入れる。


背丈は小柄。多くの兵士の胸や肩にも届かない。その体格には不釣り合いなほど、空気を変える圧があった。アーマーは磨かれ、傷と凹みに歴戦の証を宿している。左肩には階級章——上向きの二本の山型と、その下に桜の刻印。


ライフルは胸元で構えられたまま。脅しではない。ただ、警告。いざという時には、確実に応じるという構え。


頭がわずかに傾く。そのごく自然な動きにすら、計算と意図が含まれていた。


彼女の視線が教室内を舐めるように巡る。どの視線も、どの間も、どの沈黙にも意味がある。探っている。見ている。ただ眺めているのではない——測っている。


光の反射の中で、モリタはその視線をはっきりと感じた。まるで自分だけが見抜かれているかのような、重たい視線。


——彼女が動いた。


金属の床を打つブーツの音は、ひとつひとつが重かった。無駄のない足取り。その視線は一瞬たりとも生徒たちから逸れず、誰の小さな動きも見逃さない。


彼女はトラックの奥、わずかな空きスペースへ向かった。大人ひとりがなんとか腰を下ろせる程度の幅しかない。最大二十人乗りのこの車両に、二十一人目が乗るには不格好で不便な場所だ。だが、彼女は迷いなくそこに座った。


ヘルメットを脱ぎ、床に置く。そのまま即席の座面として使うように、丁寧に位置を整える。


髪がふわりと揺れた。短めのボブカット。柔らかく揃えられた毛先が頬をなぞり、長めの前髪が額にかかる。整えられているが、無骨ではない。清潔で、きちんとしていて、それでいて少しだけ風に揺れるような、自然さがあった。


彼女は何も言わなかった。しばらくの間、沈黙を選ぶ。


胸元に構えたライフルを軽く抱えたまま、生徒たちをゆっくりと見渡す。視線は柔らかくも鋭い。警戒というより、確認。目を合わせた者には、目を逸らす猶予が与えられていた。


ようやく、彼女は口を開いた。


「——よし。私の名前は富田紫苑(トミタシオン)。第109機動対応大隊所属の伍長。この車両は私が預かるから、今のうちに覚えときな」


声は芯のある響きを持っていた。軍人らしい堅さの中に、不思議と温度があった。冷たくも、優しくもない。だが、どこか「電気の通った部屋」にいるような、頼れる安定感があった。


誰も、すぐには返事をしなかった。つい先ほどまでの緊張が、空気に張り付いたままだったからだ。

トミタ伍長は再び視線を一巡させたあと、軽く前屈みになり、膝に肘を乗せながら銃の位置を調整した。


「怖いのはわかってる——それは当然のことだ」


トミタ伍長の声が、淀んだ車内の空気を鋭く裂いた。


「ついさっきまで教室にいたのに、突然引きずり出されて、こんなトラックに詰め込まれた。怖くないわけがない。イカイジンだろうと人間だろうと、関係ない」


言葉を切った沈黙が、車内をじわりと満たす。その間すらも、言葉として機能していた。


「でも、よく聞いてくれ。私に答えられる範囲で、質問には全部答える。嘘はつかない。誤魔化しもしない。——必要のない損害は、絶対に起こさせない」


モリタは、背筋にじわりと冷たい感触が走るのを感じた。視線が、明らかに自分に向けられている。厳しさでもなく、非難でもない。けれど、確かに見られている。内側にある、自分でもまだ掴みきれない何かを——見透かされていた。


視線は静かに流れ、通路の反対側にいるナオトのほうへと向けられた。ナオトの笑みがわずかに引きつる。肩がこわばり、握られた拳が微かに震えた。それでも彼は、目を逸らさずにいた。


トミタは留まらず、再び車内全体へと目を巡らせた。ひとりひとりを見つめる。正面から見返す者も、俯く者も、息を殺す者も——全てを観察するように。


「……さあ、聞きたいことがあるなら、遠慮なく聞きなさい」


かすかな囁きが、重苦しい沈黙の中に波紋のように広がる。誰もが声を潜めていたが、それでも言葉は消せなかった。


モリタは左に目をやる。視線の先、カティアと目が合った。彼女の瞳には明確な不安が滲んでいる。呼吸はゆっくりで、制御されていたが、決して落ち着いてはいなかった。


リアは依然としてトミタ伍長を睨むように見据えていた。耳は緊張にぴんと立ち、姿勢も硬直している。体全体が、今にも跳ねそうなバネのようだった。


その時、トラックの奥から、おずおずとした声が日本語で響いた。例の、水晶のネックレスを抱えていたドライアドの少女だった。


「どこに……連れて行かれるんですか?」


トミタ伍長が、わずかに肩を落とし、慎重に言葉を選ぶ。


「今は、東京中央駅へ向かってる。そこで処理を受けて、問題がなければ家族と合流するはずだ。……途中で怒鳴り声や、訳の分からない光景があるかもしれない。でも、信じて。連邦は“旧世界”の過ちを、もう繰り返さない」


兵士たちの声が車外から漏れ、布一枚越しに空気を裂いた。直後、幌の隙間に影が落ち、ヘルメット姿の兵士が顔を覗かせる。視線をトミタに向け、彼女はそれに親指を立てて応える。兵士は頷き、再び外へと引っ込んだ。


すぐに、トラックが重々しい振動とともに動き出す。金属床を通してエンジン音が骨に響き、タイヤが砂利を噛む。車体がわずかに揺れながら、ゆっくりと校門を越えていく。


その時だった。


最初は遠く、次第にはっきりと——声が届いた。


「さっさと帰れよ!」


「やっと片付いたな!」


「消え失せろ、化け物ども!」


罵声が、鋭利な刃のように幌を突き破って突き刺さる。その毒は空気に溶け、肌を斬りつけ、精神をすり減らす。モリタは胸が締め付けられるように痛んだ。


——同じ星で生まれても、意味なんてなかったんだな。


そんな皮肉だけが、冷たく彼の胸に残った。


生徒たちは誰もが、さらに体を縮こまらせていた。


カティアはモリタの側へと身を寄せていたが、手錠に阻まれて動きは限られている。


ゆっくりと胸が上下し、呼吸は整えられていたが、肩の震えがその冷静さの仮面を裏切っていた。


リアの鋭い目は、足元の金属床を睨むように見つめたまま微動だにしない。肩は強張り、拳は膝の上で白く染まりそうなほど強く握り締められていた。


ナオトの軽口はとうに消えていた。顎を引き、唇を一直線に結んだまま、まっすぐ前を見つめている。

普段のあの軽やかな自信は、今はもうどこにもなかった。ただ重苦しい沈黙だけが、そこにあった。


外の罵声がようやく遠のく。トラックの速度が上がり、校門を越えて学校の敷地を離れていく。

あの声も、あの景色も、そして"それまでの生活"もすべて、背後に置いて行かれた。


トミタ伍長は無言で座っていた。


手袋越しにそっと髪へ触れ、何か言いかけたように唇を開きかけて、すぐに止めた。

視線が一瞬、モリタをかすめたあと、生徒たちの列へと移る。


「……時々、思うんだ。連邦は、この先……いったい何になるのかって」


その声には、ごく一瞬だけ、疲労とも後悔ともつかぬ揺らぎが滲んでいた。


だがそれはすぐに消え、トミタ伍長は背筋を正し、胸元のライフルの位置を再調整しながら、表情を再び引き締めた。


「——まあいい。次は東京中央駅に着く。聞きたいことがあれば、今のうちに」


生徒たちが、お互いに視線を交わす。不安と戸惑いが入り混じる中、ようやく声を上げたのは、トラックの中央あたりにいたフェリニッド族の少年だった。


手錠のかかった手を膝の上でぎゅっと握りしめながら、かすれる声で口を開く。


「……か、家族が……そこにいなかったら、どうなるんですか……?」


声の終わりは掠れ、わずかに震えていた。


モリタの胸に、何かがぎゅっと締め付けられるような痛みが走る。

あの少年の不安は、他人事ではなかった。


父親と衝突していたとはいえ、母のことは大切に思っていた。


——今、自分がどこにいるのか知ったら、あの人は何を思うだろう。


トミタ伍長の表情が、わずかに和らぐ。


鋭さの残る視線はそのままに、声には柔らかい温度が宿った。


「もしそうなった場合でも、大丈夫。保護措置が取られる。決して、見捨てるようなことはしない。連邦にはそのための手順があるし、私がそれを守らせる。少なくとも、それは約束する」


少年は小さく頷いたが、肩の震えは止まらなかった。


沈黙の中、今度はもう少し前の座席から声が上がる。


話したのはドラグーン族の少年で、角の形はカティアと違い、どこか雄牛を思わせる曲線を描いていた。

日本語にはまだ不慣れなようで、言葉の節々で舌がもつれそうになりながら、ゆっくりと質問を投げかけた。


「……もし、かぞくが……トリフェクタの一員だったら……? ちち……星軍に……います」


トミタの唇がわずかに持ち上がる。


冗談のような、それでも否定しない程度の小さな笑みが浮かんだ。


「……そうか、そりゃすごいな」


座っていたヘルメットの位置を少し整えながら、彼女は続ける。


「なら安心しな。処理が終わったら、所属記録をもとに家族への確認はされる。もし家族が現役、もしくは登録された元軍人なら、連絡は取れるはずだ。保証人としての扱いにもなる」


少年はかすかに頷き、座席に身を引いた。尻尾の先が小さく揺れたのが見えた。


モリタは目を細めながら、目の前の兵士をじっと見つめた。心の中では、言葉にならない感情が絡みついていた。


それに気づいたのは、トミタ伍長のほうだった。


大きくは動かず、それでも鋭く、茶色の瞳がモリタを射抜く。


「そこの……ボサボサ頭。ドラグーンの女の子の隣の、お前だよ」


彼女の声が、トラックの低いうなりを裂いて響く。 唇の端が、ほんの少しだけ持ち上がった。頭をわずかに傾けながら、今度は彼女がモリタを観察する番だった。


モリタは息を呑みかけ、けれど視線を逸らさなかった。かわりに息を整え、金属壁にもたれかかるように姿勢を崩す。視線が一度だけカティアへと流れ、再び伍長の顔に戻る。


「……知ってたんですか?」


トミタ伍長が片眉を持ち上げ、わずかに唇を引く。


「何を、かな?」


「彼女が……その、カティアが……ドラグーンだってこと」


トミタ伍長の視線がほんの少しだけカティアに流れる。彼女の翼が微かに動き、その視線に応じた。


「当たり前でしょ。ドラグーンとドラゴナイトを見分けられないような馬鹿じゃない」


軽く首を傾けた彼女の顔から、笑みが消える。表情は引き締まり、声にはもう揺らぎがなかった。


「でも話題を逸らしてるわね。今は彼女じゃないでしょ? “君”の番。質問はある?」


モリタは唇を引き結び、息をのむ。


「……いえ。ありません、伍長」


わずかな間、トミタ伍長はモリタをじっと見つめていた。それからふっと、くすりと笑った。鉄と油に満ちたこの閉鎖された空間には、あまりにも場違いな、どこか温かい音だった。


「面白い子ね、君って」


かすかな笑みが、唇の端に戻る。


「でも覚えておきな。もし私が“問題”を起こしたいタイプだったら……今頃、あんたは身をもって知ってるはずよ」


声にこそ柔らかさは混じったが、その芯には相変わらずの権威があった。


「そこのあんたと、その向かいにいる坊や——二人とも、自分の意思でここに乗ったんでしょう? ……まあ、こうなった経緯について、全員が納得してたわけじゃないわ。正直言って、国家保安局のあの男ですら、あまり乗り気じゃなかった。でも、命令は命令。だからせめて、それを“誰が実行するか”を選べるなら、私がやる。それが最善なんだから。……理解できた?」


モリタは何も言わなかった。ただ頷く。視線は逸らさず、トミタ伍長を真っ直ぐ見据えた。その表情には、さっきまでの緊張ではなく、もっと静かで深い何かが宿っていた。背中を金属の壁に預け、視線が一瞬だけ自分の手錠に落ちたあと、再び彼女の顔へと戻る。


他の兵士たちとは、明らかに違った。目を合わせようともしない者たち。命令だけを無感情に叫ぶ者たち。そしてあの国家保安局の男——冷酷で計算された支配の体現。そのどれでもなかった。

信頼とは違う。けれど、敬意なら……彼女には、それがあった。


トミタ伍長は体をずらし、背後の冷たい金属壁にもたれかかった。


「——少しでも休みな。長い道のりじゃないけど、せめて気持ちだけでも楽にしな」


エンジンの低い振動が、彼女の落ち着いた声と重なり、車内を静かに包み込んでいく。



今は、それで十分だった。

___________________________________


脚注


1)M8A3〈グレイヴ〉6.8×51mm通常弾アサルトライフル

連邦軍の標準制式カービン銃。後にEG-41シリーズ〈パルスライフル〉に置き換えられることとなる。

2025/7/10 - カチャ を カティア に変更しました。ごく小さなこだわりですが、こちらの方が名前の響きが良く感じたためです。

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