砕かれた平和【上】④
章の最後に脚注があります。
教室には、すでに朝の雑談が満ちていた。整然と並ぶ机の列。窓ガラス越しに入り込む冬の冷気が、部屋の隅にうっすらと残っている。
モリタの席は、一番後ろの窓際——いつもの場所だ。喧騒の中で、そこだけがほんのわずかに切り離された“自分だけの空間”のように感じられる。
彼は黙って椅子に腰を下ろし、鞄を横のフックにかける。そのまま窓の外へと視線を投げた。隣の校舎の壁に、朝日がぼんやりと滲んでいる。
ここまで届くクラスのざわめきは、まるで遠くの波音のようだった。思考の岸辺をかすかに撫でるような、浅くて一定の揺らぎ。
——だが、無視できるほど小さな存在ではなかった。
教室を見渡せば、一目で分かる。構成比は明確で、人間と異界人がほぼ均等に混在している。地球出身が六割、異界人が四割。
その中に交わされる“会話”にはどこか歪みがあった。
和やかでも、無邪気でもない。
言葉の端に滲むのは、ねっとりとした悪意。静かに腐敗を進める陰湿さだった。 空気の中で少数派の異界人たちは、孤立し、視界の真ん中から逃れることができずにいた。
「聞こえねーの? それとも、わざと無視してんのかよ」
教室の中央から声が飛ぶ。標的は、クロリカンの少女。
兎型獣人の異界人——人間に近い体格だが、長く柔らかい耳と、ふわふわした尻尾が彼女の出自を物語っていた。彼女は頭を深く垂れ、机を見つめたまま身動き一つしない。手に握られたペンには、今にも折れそうなほど力が込められている。
肩をすくめ、気配を殺すようにして座っていたが——
すでに、周囲には数人の生徒たちが半円を描くように立ち塞がっていた。まるで獲物を囲い込む捕食者のような配置で。
その瞬間、ガンッと金属を引きずるような耳障りな音が響いた。誰かが彼女の机の脚を蹴ったのだ。クラスのざわめきがぴたりと止まる。
クロリカンの少女は肩を震わせ、小さく跳ねるように身を引いた。垂れた耳がさらに伏せられ、口元からは抑えきれないかすかな悲鳴が漏れる。
「おっと、気をつけろよ、うさちゃん」
ひとりの男が冷たい笑みを浮かべて身を乗り出す。その顔には、悪意と侮蔑がべったりと貼りついていた。
「そんなにびくびくしてっと、誤解されちまうぞ?」
教室に、笑い声が弾ける——だが、そこに異界人の声はひとつも混ざっていなかった。
数少ない傍観者も、視線を逸らし、顔をこわばらせている。関われば次は自分が標的にされる——その恐怖が、空気に根を張っていた。
モリタはしばらく無言のまま、その中心を見つめていた。
レオラ・フリートフット——臆病だが、頭の切れる子だった。かつては男子生徒の間で話題になるほど、人気のあった少女。
小さく舌打ちして、モリタは窓の外へと視線を逸らす。何も言わない。何もしない。関わっても、何ひとつ得はない。——戦争が始まってから、この学校も、みんなも、どこか壊れてしまった。
教室のドアが勢いよく開いた。担任の嘉信羅先生が入ってきた。出入口で、ひときわ大きな影が覆った。
現れたのは——鬼族の男、嘉信羅先生。鋭い黄色の眼光が、すぐさまクロリカンの少女を取り囲む生徒たちに突き刺さる。
一歩ごとに、その威圧が教室全体へと染み渡っていった。
角の先で反射する光。
フレームの細い眼鏡。
そして、胸元で輝く〈教育トリフェクタ〉の徽章。
そのすべてが、威圧そのものだった。
教室内の空気が凍りつく。 全員が、彼の足音ひとつにさえ動きを止める。
「……これは、どういう状況だ?」
嘉信羅先生の声が轟いた。 低く、重く、抑えの効いた怒声。
「……規律は、保たれていると信じたいのだが」
クロリカンの少女を囲んでいた一人が振り向く。表情は、あからさまに嘲るような歪み。どこか侮蔑を含んだその目は、嘉信羅先生を正面から見据えている。
彼は数歩前へ出ると、鬼族の長身に届かぬ位置で堂々と立ち止まった。背丈は肩にも届かない。その口元には、薄ら笑いが残っていた。
「俺たち、ただ“愛国的義務”を果たしてただけですけど?」
「それとも、何様のつもりです?
——“イカイジンのクズ”ごときが、ここで何を偉そうに?」
パンッ——空気が裂けた。
次の瞬間、少年の体が吹き飛び、無様に床へ叩きつけられた。先生は、彼の上に静かに立っていた。
眼鏡の奥で光る黄色の瞳が、冷徹な威光を放っている。
「口の利き方に気をつけろ。——民間人」
少年はその場に倒れたまま、全身を震わせていた。先ほどまでの傲慢さは見る影もなく、残骸のように砕け散っていた。取り巻きの生徒たちは、一斉に席へと散っていく。
教室の後ろから、その様子を見ていたモリタの口元が、わずかに引きつる。
(……ざまあみろ)
机の上に置いた指先が、カツカツとリズムを刻む。どこか黒い満足感が胸の奥に漂っていた。
嘉信羅先生は、無言のまま教室内をゆっくりと歩き始める。その一歩ごとに、まるで法廷で叩かれる判決の槌のような重みがあった。
視線を巡らせるたびに、生徒たちは慌てて目を逸らす。肩を強張らせ、額にじんわりと汗を浮かべる者もいた。沈黙はさらに深まり、教室からは雑音も咳払いも完全に消え去っていた。
「席に戻れ」
先生は、頬を押さえたままの少年に低く一言だけ放った。
少年はびくりと震えながら、立ち上がる。よろよろと歩き出す姿からは、先ほどの自信も態度もすっかり消えていた。頬には赤い腫れと共に、小さく血が滲んでいたが、それでも一言の抗議も口にしなかった。目の前の鬼が発する威圧の前では、それすら押し潰されていた。
先生の視線が、次にクロリカンの少女を囲んでいた数人の机へと移る。歩み寄るにつれて、彼らの顔からは血の気が引いていく。先ほどまでの余裕など、もはやどこにもなかった。
「……それが、お前たちの言う“強さ”か」
嘉信羅先生の低い声が、静まり返った空気に鋭く落ちた。
「たった一人の少女を囲み、群れて嗤うだけの連中。
存在している——それだけの理由で、標的にする。
その浅ましい行為が“力”だと、本気で思っているのか?」
「残酷を力と履き違え、嘲笑を支配と見誤り、
——臆病を“勇気”と叫ぶ。
……どこかで見たと思えば、あれだな。“エリーズ”のやり口とそっくりだ」
彼は歩みを止め、ゆっくりと顔を傾ける。
今度は、席に座ったまま傍観していた生徒たちへと視線を送る。視線が一人ひとりに重なるたびに、生徒たちは次々と目を伏せた。
ホロタブに視線を落とし、机に額を近づけ、顔から羞恥の色が消えない。
「そして、君たち——黙って見ていた者たちもだ」
声は低く、静かに。その一語一語が刃のように鋭い。
「聞こえていたはずだ。見ていたはずだ。
それでも、“何もしなかった”。」
重たい沈黙が教室を支配する。その沈黙さえも、彼の裁きの延長のように思えた。
「臆病者だ。全員。
自分を恥じろ。この教室を、そして——君たちが名乗る“連邦”そのものを」
嘉信羅先生は、静かに息を吐き、袖口を整える。
「教えてくれ。“衝動すら制御できない者”が、
どうやって“この連邦に奉仕する”つもりなのか?」
「自分の自尊心を守るために、他人を踏みにじらなければ
満たされない心のどこに、“力”があるというんだ?」
「それは、強さじゃない。——弱さだ」
「弱き者に、“市民”を名乗る資格はない」
彼は眼鏡を指先で押し上げ、ゆっくりと壇上へと上がる。
背丈から落ちる影が、教室全体に沈黙を落とす。声は少しだけ静まった。だが、その響きから鋼の芯は一切消えていなかった。
「“沈黙”の中に、強さはない。
“無関心”の上に、団結は築けない。
……忘れるな」
「——朝の出席を取る」
モリタの視線は、嘉信羅先生に向けられたままだった。
その言葉の激しさや、連邦にありがちな厳罰主義に感銘を受けたわけではない。それでも——胸の奥で何かが静かに芽生えていた。
“秩序”
“強さ”
“団結”
それらを掲げ、貫き、体現している。彼の言葉、視線、そして一歩一歩が、それを裏切ることはなかった。
教室には、いまだ重い沈黙が、霧のようにではなく、実際に肌を這うようだった。
羞恥の感情は、加害者たちだけではなく、教室全体へと伝播していた。それは、モリタの胸にも——鋭く、刺すように残っていた。
毒のようだった。腹の奥に、じわじわと火を点ける毒。
彼の指先が、机の端を軽く叩く。
思考が、今朝の“あの募集官”へと戻っていく。
——臆病者ども。
頭の中で何度も反響する。まるで、自分一人に向けて放たれたかのように。
もし、自分があの場の中心にいたなら——
席を立って、止められただろうか? それとも、他の連中と同じようにホロタブを見つめて、何もせずに座っていただけだったのか?
目線が、教室の一角へと動く。
そこにいたのは、クロリカンの少女。レオラ。
彼女は、いまだ微動だにしていなかった。 垂れた耳。小刻みに震える手。両手を組んだまま、固まったように動かない。
彼は、小さく息を吐いた。
首を横に振る。
——どんな答えを出したところで、自分の中では納得できないだろう。
出席が始まった。
嘉信羅先生の声が、沈黙に満ちた教室をひとつひとつ割っていく。呼ばれた名に対する返答は、どれも短く、緊張感を孕んでいた。
「はい」
「……はい」
それは、重たい空気の中に落とされる小さなひびのようだった。やがて——後列へと視線が向けられる。
「森田龍己」
彼は姿勢を正した。肩にはまだ微かな硬さが残っていたが、声は揺れなかった。
「出席してます、先生」
「……貸していた本は?」
嘉信羅先生の視線が、一瞬だけ鋭くモリタに留まる。
「読み終えたか?」
モリタはわずかに息を止めた。机の縁に添えた指が、ぎゅっと力を込める。
「……まだ、です。ちょうど半分まで」
先生は眼鏡を押し上げながら、淡々とした声で言う。
「そのまま持っていろ。
三日以内に読み切れ。“どう感じたか”を、聞かせてもらう」
「はい、先生」
嘉信羅先生は静かに頷き、ホロスクリーンに視線を戻した。再び出席の確認を続けながら、リストを進めていく。
モリタはゆっくりと息を吐き、背を椅子に預けた。緊張が少しずつ溶けていく。
視線を外へ向けると、雲が分厚くなっていた。校庭に落ちる影が、静かにその色を変えていく。
そのときだった——モリタは“それ”に気づいた。
連邦軍の色——冷たい青灰色に塗られた大型トラックが、校庭に滑り込んでくるのが見えた。エンジンの低いうなりが、窓越しに教室へと届く。荷台から降りてきたのは、全身を戦闘装備で固めた兵士たち。その動きは無駄がなく、研ぎ澄まされた機械のように整然としていた。それぞれがライフルを構え、きっちりとしたフォーメーションで広がっていく。
モリタの眉がわずかに寄る。——軍の人間が学校に来ること自体は、珍しくはない。だが、トラックで? 武装した兵士まで? 胸の奥に、ひっかかりのような違和感が残る。何かが違う。何かがおかしい。
その思考がまとまるよりも早く——コンッ、と教室のドアがノックされた。
はっとして、一斉に生徒たちの視線がドアへ向かう。興味、緊張、不安——様々な感情が空気の中に走る。
嘉信羅先生は壇上で背筋を正し、眼鏡のブリッジを押し上げる。
「入りなさい」
ドアがシュッと音を立てて開くと、そこには一人の連邦軍士官が立っていた。
真っ白な軍服が、教室の蛍光灯の下でまぶしく輝く。その装いは、通常の連邦軍兵士が着用する地味な青灰色の戦闘服とは明らかに異なっていた。
士官は一歩、教室へと足を踏み入れる。磨き上げられた軍靴の踵が床を鋭く打ち鳴らす。
「嘉信羅先生、ですね?」
「はい。御用件をお伺いしましょうか、士官殿」
男は背筋を伸ばし、鋭い敬礼を一つ。その後、腰に下げた革製のポーチから、小さな身分証を取り出す。
「国家保安局¹、小谷 久生」
その動きには、無駄が一切なかった。
嘉信羅先生は身分証を受け取り、手慣れた仕草で開く。中身に目を通しながら、視線を書類と士官の顔の間で行き来させる。眼鏡の奥で、光が鋭く反射した。
「……保安局」
低く、抑えた声に微かな重みが乗る。
教室のあちこちで、囁き声が生まれ始めた。
小谷は無言で頷く。
嘉信羅先生はすぐに応じた。灰色のスーツの胸元に手を伸ばし、自らの身分証を取り出す。〈教育部門〉のバッジが、教室の照明にかすかに光る。
「嘉信羅 伊吹、連邦教育部門・市民指導教官」
二人は数秒間、互いに身分証を確認しながら向かい合ったまま動かない。緊張が教室の空気を飲み込むように広がっていく。
そして——ぴたりと揃った動作で、二人は敬礼を交わす。その動きは完璧で、簡潔で、迷いがなかった。
そこにあったのは、規律と相互の権威に対する敬意。
「本件は、国家保安上の重要事項に関わるものです」
小谷士官の声は、静かに教室全体を貫いた。
「嘉信羅教官、全面的なご協力をお願いしたく」
「……了解しました。全てお任せします、小谷士官」
嘉信羅先生は最後に一礼し、壇上から一歩退いた。それを合図に、士官が前へ進む。鋭い軍靴の音が静寂を突き刺し、全員の視線を惹きつける。
国家保安局の士官——小谷 久生は、壇上に立ち、教室を見渡した。無表情のまま、生徒たち一人ひとりを“査定”するように目を走らせる。その眼差しは、弱さを嗅ぎ取る獣のように鋭い。
特に、教室内に点在する異界人の生徒たちへと視線が向いたとき——そのまなざしは、わずかに長く留まった。姿勢、肩のこわばり、手の震え。それらを、一瞬で見抜き、記録するような目だった。
教室の後方席から、モリタは黙ってそのすべてを観察していた。
軍靴の革が、蛍光灯に照らされ異様に輝いていた。一切の傷も汚れもなく、あまりにも完璧すぎて、どこか現実離れしていた。彼の一歩一歩が、ガラスの上を踏み割るかのように沈黙を砕いていく。
青灰色のドレスパンツの側面に一本走る黒いラインが、真っ白なワイシャツとの対比でより際立つ。無駄な装飾は一切ない。階級章も個人の紋章もない。胸元に縫い込まれているのは、ただ一つ——〈三角と星〉、連邦の象徴。
刺繍は極めて精密で、鋭く、美しく、それでいてどこか冷たい終止符のようだった。金属の光沢ではない。蝋で封を閉じたような、沈黙の“証”だった。
彼の顔には、年季の入った表情の刻みがあった。経験によって削られた輪郭と皺。左目の下には、うっすらとした傷跡が一本。
——何より視線が恐ろしかった。
逃げる心、嘘、敗北——それらを容赦なくふるい落とすような目。何かを“試す”ための視線ではない。“選別”するためのそれだった。
頭に被っているのは、真っ白な制帽。その鋭角なシルエットは、彼の制服と同様、無駄なく切り揃えられている。黒のバイザーは、研ぎ澄まされた黒曜石のように磨かれており、彼が視線を落とすたびに目元を覆い隠す。中央には、やはり〈三角と星〉の紋章が、まっすぐに刺繍されていた。
モリタの背筋を、ひやりと冷たいものが走った。
それでも、彼は目を逸らさなかった。——いや、逸らせなかった。
何か説明のつかない不気味さがあった。
冷静で、礼儀正しく、それでいて狩人のように鋭い。獲物を追う猟犬のような執着を秘めた男。
……この士官は、単に「生徒の様子を見に来た」わけではない。
小谷士官が、わずかに口元を歪めた。まるで顔の筋肉が、感情の真似を試みたかのように。——果たして、それは“笑み”と呼べるものだったのか。
温かみも感情もない。ただ、唇の形だけをなぞったような、鋭く硬質な線だった。
「おはよう、諸君。私は国家保安局の小谷 久生士官です」
「本日は、〈トリフェクタ高等評議会〉および〈地球方面軍指令部〉の権限のもと、ここに来ています」
教室内に、ざわりと小さなざわめきが広がる。
——しかし、それも一瞬で終わった。 嘉信羅先生の一瞥で、空気は凍りついたように静まり返る。
小谷士官は構わず、淡々と続ける。
「西暦2140年1月18日付、連邦執行命令FEO-66に基づき——」
「現在進行中の国家安全保障上の懸念を受け、第一世代および第二世代の異界人民間人全員を、指定された〈安全再定住区域〉に再配置・再居住させることが決定されました」
モリタの呼吸が、一瞬止まった。胃の奥が締めつけられるような重苦しさに襲われる。
教室のあちこちで、異界人の生徒たちが固まっていた。
目を見開き、肩をすくめ、まるで空気そのものが氷に変わったかのように——動けない。
「今後数日のうちに、連邦保安局および地区安全保障部隊の担当者が、各家庭を訪問します」
「対象となる家庭には、必要な指示が伝達され、移送手続きは連邦の監督のもと、効率的かつ迅速に行われます」
「皆さんには当然、協力をお願いする。命令に従う姿勢こそが、連邦が掲げる“団結”と“安全”への忠誠を示すものです」
「……なお、命令への不服従は、断固たる対応の対象となります。抵抗が確認された場合——武力によって“無力化”されます」
その言葉が落ちた瞬間、教室には——まるで酸素が抜けたような、重い沈黙が広がった。
誰も、口を開かない。
静寂が支配する中、教室のドアが音もなく動いた。
連邦軍の兵士たちが、列をなして教室へと足を踏み入れる。装甲服がぶつかり合い、装備の金属音が響く。彼らは無言のまま教室内に展開し、壁際と後方を固める。
各自の視線は、ヘルメットのバイザーに隠されていたが——その沈黙には、まぎれもなく“監視”の気配が滲んでいた。
生徒たちは、ざわりと椅子の上で身じろぎする。異界人の生徒たちは特に、その場で肩をすくめ、思わず身を引いた。
そして、再び小谷士官の声が響く。
「加えて——この命令に反して、異界人をかくまった、あるいは支援したと認定された民間人は、“国家反逆共謀罪”として拘束され、対象者と同様に扱われます」
「従うかどうかは、“選べること”ではありません」
教室のどこかから、小さく、震えるような息が漏れた。
壇上から、嘉信羅先生が一歩前へ出る。その表情に動揺はなく、像のように静かだった。彼は無言のまま、教壇の脇にあったクラス名簿を取り上げ、小谷士官に手渡す。ためらいは一切なかった。そこにあったのは、ただ——任務を完遂する者の目だった。
二人の視線が交差する。
言葉はなかった。それでも、その一瞬には確かな“理解”と“終わり”が込められていた。
小谷士官が、兵士たちへと振り返る。短く、鋭い一言だけを落とす。
「——始めろ」
最初の名前が呼ばれた。
前列に座っていた、犬獣人系の男子生徒が、ぴたりと動きを止めた。
目を見開き、机の縁に添えた手が震えている。
兵士二人が前へ進み、無言のまま腕を掴む。鉄のように固いその手で、彼を強引に引き上げた。椅子がギィ…と音を立て、彼の叫びと泣き声は教室のざわめきに飲まれていった。
次の名前が呼ばれる。そして、その次も。
リオラ・フリートフットは、自分のバッグを抱きしめながら席に座っていた。耳を頭に押しつけるようにしてうずくまり、頬には静かに涙が流れていた。
彼女の腕を、別の兵士が掴む。一言もなく、正確で効率的な動きで、彼女を立たせた。
教室内が、混乱に包まれていく。
兵士たちが動くたびに、嗚咽と抗議の声が広がる——その中を、嘉信羅先生の声が切り裂いた。
「秩序は維持される。規律は崩させない。命令があるまで、席を離れるな」
何人かの異界人は、机にしがみついて泣き叫ぶ。
「お母さん」「帰りたい」「パパ」と、声を上げる者もいた。
一方で、何も言わずに立ち上がり、うつむいたまま前へ進む生徒もいた。
後方の席で——モリタの拳は白く染まり、机の下で震えていた。呼吸は浅く、苦しげに上下する。
そのとき——
別の声が、教室の奥から上がった。
人間の生徒たちだ。彼らは、口々に叫び始めた。
「そうだ! こいつら追い出せ!」
「元いた場所に帰れよ、なあ?」
「裏切り者どもが!」
嘉信羅先生は、ひとり壇上に立ち続けていた。両手を背後で組み、凛とした姿勢のまま。泣き声にも、叫びにも、動揺の色ひとつ見せない。無表情のまま、生徒たちが次々と席から引きずり出される様子を、淡々と見つめていた。
騒乱が教室全体を包む中——ただ一人、乱されることなく“命令”を受け止めていた。
モリタの胃が、きゅっと捻れるような痛みに襲われた。震える手でホロタブを握りしめたまま、引きずられていくドラグーンの少女を目にしたとき——彼の中で、何かが切れた。
……カティア。
彼女は、隣の教室にいる。
椅子が床を引きずる音が教室中に響いた。モリタが立ち上がったのだ。鞄が床に落ち、教室の空気が一瞬凍りつく。彼はそのまま、一直線にドアへと駆け出した。
「モリタ・タツキ、席に戻りなさい」
嘉信羅先生の声が響いた——だが、彼には届かなかった。すでに、姿は教室の外に消えていた。眼鏡を指先で静かに押し上げる。視線が、再び小谷士官と交わる。教室の混乱も、泣き叫ぶ声も、その表情を一切揺らさない。
連邦の命令は明確だった。そこに“感情”の入る余地はない。
モリタは兵士の一人を肩で押しのけ、廊下へと飛び出した。息が荒く、肩で呼吸をしながら、次の教室へと駆け出す。
廊下もまた混乱に満ちていた。他の教室からも異界人の生徒たちが引きずり出され、兵士たちの命令が飛び交う。生徒たちの叫びが、白い無機質な壁にぶつかって反響していた。
……彼女が、いた。
カティアは、廊下の真ん中に膝をついていた。
両手には拘束具がかけられ、うつむいた髪がその表情を隠している。彼女の周囲にも、数人の異界人の生徒たちが同じように並ばされていた。
エメラルドの瞳が、ふとこちらを向いた。目が合った瞬間、彼女の顔がはっと強ばる。
「タツキ……!」
「カティアーーーッ!!」
モリタは声を張り上げ、彼女に向かって走った。
その瞬間——
後頭部に、鋭く、焼けるような衝撃が走った。
視界が一気に傾く。蛍光灯の光が滲んで揺れる。脳が「動け」と叫んでいるのに、体がまったく応じない。頬に触れた床の冷たさだけが、妙に鮮明だった。
暗闇が、ゆっくりと視界を飲み込んでいく。
最後に見たのは、カティアの震える瞳だった。
彼女の口が、自分の名前を呼んでいた。
その声は、遠く、かすかで、届きそうで届かなかった。
……すべてが、闇に落ちた。
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脚注
1)国家保安局(INTERNAL SECURITY BUREAU/ISB)
連邦において、忠誠維持と反体制思想の抑圧を担う執行機関。アーケイン・フロンティア戦争の開戦前から活動を開始し、大規模な監視、拘束、そして“強化尋問”を通じて市民秩序を維持している。
その苛烈な運用方針から、旧時代のKGBやゲシュタポに例えられることもある。
〈高等宰相府〉および〈トリフェクタ評議会〉の直轄下に置かれている。
2025/7/10 - カチャ を カティア に変更しました。ごく小さなこだわりですが、こちらの方が名前の響きが良く感じたためです。




