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アーケイン・フロント  作者: メグメル
プロローグ
1/27

帰郷

作者コメント:

『アーケイン・フロント』を読んでいただき、ありがとうございます!

今回、物語全体の雰囲気や展開に合わせて、プロローグを全面的に改稿しました。より洗練された導入として、世界観やキャラクターに入りやすくなっていると思います。


新しくなったこのプロローグを、楽しんでいただければ嬉しいです!



章の最後に脚注があります。

「戦乱の火は、永遠に消えることなく。

勇者の魂は、幾度でも蘇り。

魔王の影は、再び世を覆うだろう。」


——セラフィエル家 王国預言官アザリオン

第十期の終焉、サイクル799年 ヴェイルフォールの月にて


–––––––

             

          アーケイン・フロンティア戦争、二年目


砕け散った空の蒼白い光の下で、ヴァルキリーが咆哮を上げた。


鋼鉄の翼が雲を切り裂き、大海原に影を落としてゆく。エンジンは女妖(バンシー)のように絶叫し、戦闘機群(ヴァルキリー)が隊列を組んで滑空した——それはまさに天空を切り裂く鋼の群れだった。

機体が突然激しく揺れた。


短く、暴力的に揺れたが、すぐに安定した。滑らかに、冷静に、そして誇らしげに。

貨物室には、第44強襲レンジャー部隊の兵士18名が静寂の中、身を縮めて待機していた。

緊張と沈黙の時。


『降下地点まであと10分』


パイロットの声が通信機からノイズ混じりに響き、静寂を破った。

サイドドアが軋みを上げて開くと、両側の機銃が外にせり出した。射手が、剥き出しの空に向かって姿勢を整える。夜の風が吹き込む——冷たく、湿っていて、濃厚な戦場の匂いを孕んでいた。


『ガナー、スタンバイ完了』


上等兵・木下直人(キノシタナオト)は、向かいに座る兵士から目を離せずにいた。握りしめたライフル¹を持つ指が小刻みに震える。

周囲の仲間たちは無表情のまま座っていたが、揺れる機体に合わせて鎧が小さく鳴っていた。


直人の右隣では、伍長・森田龍己(モリタタツキ)が静かな眼差しで真正面を見据えていた。

彼の片手は手首に結ばれた編み紐に軽く添えられていて、親指が織り込まれた紐の表面と一粒の赤いビーズをゆっくり撫でている。その様子は、遠く曖昧な記憶の欠片にすがっているかに見えた。


向かい側の席に座る兵長・リティエンヌ・デュ・ハナザワ——通称リア——が直人の視線に気づくと、どこかぎこちなくも馴染みのある微笑みを返した。彼女はエンジン音にかき消される声で何かを口にすると、すぐに手元のグレネードランチャーへ視線を戻し、手慣れた仕草で点検を始めた。


直人の視線は、思わず彼女の姿に引きつけられたまま離れない。

彼女が機転が利き、物怖じせず、容姿端麗だから――それだけではない。


リアといると、どれほど混沌とした状況でも、不思議と気持ちが落ち着くのだ。今もこうして、アーマーを纏い、ちらつく機内灯に照らされる彼女の姿には、変わらない安定感があった。まるで、自分を現実に引き留めてくれる重石のように。


物心ついた頃から、リアはずっと自分の日常の一部だった。


子供時代のぎこちない会話も、放課後の部活動も、耐え難い訓練の日々も——


その合間に交わした彼女の素っ気ない指示や、稀に見せる静かな笑顔。そのすべてが、呼吸するように自然に、いつしか自分の胸の中に根付いていた。


さりげなく。


必要不可欠に。


いつも、すぐそばに。


口にしたことはない。言葉にしなくても、きっと伝わっていたのだろう。彼女が気づいていない時に、つい視線が追ってしまう。


それをうまく隠せていないのは、自分でも分かっていた。


モリタも、レイコも——


たぶん彼女自身さえも気づいているかもしれない。

言葉には決してできなかった。


今まさに、降下を告げる青信号が灯ろうとしていた――。

自分にそれを伝えるチャンスが、果たして訪れるのだろうか、と初めて疑問に思った。


「緊張してるの、ナオ?」


低く唸るエンジン音に紛れ、その柔らかな声が張り詰めた空気を切り裂いた。


ナオト上等兵は咄嗟に左へと振り向いた。そこには、戦闘工兵の上等兵・藤原玲子(フジワラレイコ)が目を合わせてきていた。

ヴァルキリーの内部は薄暗かったが、彼女が微笑んでいることくらいははっきりと分かる。


ナオト上等兵は言葉を返さず、小さく固く頷いただけだった。


隣でレイコ上等兵が体勢を軽く崩し、肘を太腿の上に乗せて余裕を見せた。まるで数分後に生死を懸けた降下を控えているとは思えない様子だ。


ヘルメットの下から数本の黒髪がはらりと風に揺れた。


「大丈夫だって」


彼女は、この状況に不釣り合いなほど軽く言った。


「散々訓練したでしょ? 私の近くから離れないで……いい?」


ナオト上等兵はほんの一瞬だけ彼女を見つめて、


「分かってる」と小さく返した。


彼女を必要としているからじゃない。


ただ、そこに彼女がいるからだ——

ずっと彼女を失いたくなかったから。


機内の前方で一人の男が立ち上がり、鋭く慣れた口調で言い放った。


「立て、前を向け」


中尉は怒鳴ることさえしなかった。その必要もなかった。全員が即座に背筋を伸ばし、緊張が限界まで張り詰める。


「任務は把握済みだろう。降下、掃討、制圧する。敵砲を見つけ、無力化しろ。英雄気取りも躊躇いも許さん」


エンジンの唸りに同期するように、ナオト上等兵の心臓が激しく脈打った。

彼らがこれから降り立つのは、他でもない自分たちの故郷だった。その戦場を指して軍は「ゴブリン退治」と呼んでいた。


彼は唾を飲み込んだ。


今もなお、馬鹿げて聞こえた。


雲の向こうにはコンクリートの廃墟が見え始める。

朽ちたビル群、崩れた高速道路——


かつては平和しか知らなかった街の姿。


東京。


ヴァルキリーが再び大きく揺れた。


激しい乱気流が機体を襲った。今までとは比べ物にならないほどの衝撃だった。

窓の外では青白い閃光が空を引き裂いていた。雷でもなければ、照明弾でもない——これは、砲撃だ。


鮮烈なエネルギー弾が雲を貫き、異世界の花火のように流れていく。それは現実離れした美しさを持ちながら、明らかな死を運んでいた。


『司令部は降下エリアはクリアだと言ったぞ!これはただの明かりじゃない!』


副操縦士が怒鳴った。


『沿岸からの対空砲火を受けている!シールドはかろうじて保っているが……回避行動に入るぞ!』


この瞬間、すべてが変わった。


ヴァルキリーは急激に機体を傾け、死が充満した空の中を縫うように飛行した。


青い曳光弾や稲妻のようなエネルギー光線が、呪われたオーロラのように雲を照らし出していた。通信回線はパイロットの叫びや方位の指示、ステータスの確認に溢れ返り、次々とコールサインが途絶えていく。


『降下まで残り3分!』


パイロットが叫んだ。


『踏ん張れよ……全員、生きて降りろ!』


機内に赤いライトが灯り、血のような光が室内を満たした。


中尉が手を掲げた。制服の襟元に輝く銀の階級章が、その不吉な光を反射している。


「総員、立て!」


隊員たちは一斉に立ち上がった。武器を肩にかけ、機体が大きく揺れるなか頭上の手すりに掴まった。遠くでは炎に包まれたヴァルキリーが墜ちていく——まるで星が空からこぼれ落ちるかのように。一機が空中で爆散し、破片が窓を横切った。


ペガサス1だ。


『こちらペガサス1、被弾!メーデー!メーデー!ペガサス1——!』


通信はそこで途絶えた。


中尉は開かれたドアを黙って見つめていた。


ヘルメットの通信スイッチに触れた手が止まり、その場で凍りついたように動かない。

しばらく言葉は出なかった。


「……隊長がやられた」


彼は低く呟き、自分に言い聞かせるように声を張った。


「クソッ……これより俺が指揮を執る!」


ナオト上等兵は、その瞬間に何かが変わったのを感じ取った。

空気が重くなった。言葉の背後に潜む沈黙。


理解したくなかった現実が、ゆっくりと胸を締め付けてくる。これは月面基地でのシミュレーションではない。教官も、リセットボタンも、やり直しも効かない。

本物の戦争に放り込まれたんだ。


中尉は機内を見渡した。表情に張りつめた緊張が滲む。その視線はやがてコックピットの扉へと向かった。


彼は通信スイッチを叩いた。


『パイロット、降下地点は無視だ。可能な限り羽田に近づけ——そこから徒歩で向かう』


「中尉、失礼ですが——LZ-Sの外は完全にキルゾーンです!」


鋭い目つきで振り向き、モリタ伍長が即座に言い放つ。


「遮蔽物がない、丸見えの滑走路ですよ!降りた瞬間に全滅します!」


中尉・中村生駒(ナカムライコマ)は彼を一瞥した。


「考慮はする、伍長。だが、ガラクタの小兵どもが連邦軍の精鋭を撃破できると、本気で考えているのか?」


「しかし、中尉——!」


モリタ伍長が抗議を続けようとしたその時、鋭い眼光で割り込んだのは軍曹・五十嵐優菜(イガラシユウナ)だった。


「まだ自分が英雄のつもりか、モリタ?立場をわきまえろ」


モリタ伍長は歯を食いしばり、握りしめた拳が怒りに震えた。しかし、それ以上何も言わなかった。

ナオト上等兵は静かに息を吐き出した。


それは彼にとって、見慣れた光景だった。モリタ伍長が無茶な命令に反発するたびに、上官がより強硬な姿勢で押し通そうとする。このパターンは、結末の分かりきった古い再放送のようだった。


どの結末も決して良いものではなかった。


言い争いはやがて雑音と化した。


彼の心臓の音だけは収まらなかった。戦の太鼓のように、恐怖や命令よりも大きく頭蓋骨の中に響いている。


刻々と削られる時間。もし、今回が最後だったとしたら——?

それは任務だけでなく、自分自身の命にとっても。


「ナオト……」


彼は考えるより先に振り返っていた。無意識に、本能的に。


レイコ上等兵がいた。ヘルメットを被り、ライフルを構えている。唇には微笑みがあった。こんな状況でも平然としていて——むしろ腹立たしいほどだった。


「もしこれを生き延びたらさ……」


風とエンジンの唸りにかき消されそうなほど小さな声で、彼女は続けた。


「私と、付き合ってくれる?」


世界が一瞬だけ止まった。ナオト上等兵はただ彼女を見つめる。考えたことがないわけじゃない。

ただ——なんて答えればいいのか分からなかった。


「返事は後でいい」


レイコ上等兵が急いで付け加えた。緊張気味の微笑みが、彼女の口元を震わせている。


「だから、それまで絶対死なないでよ?」


『あと10秒——!』


機内灯が緑色に点滅する。凄まじい風が吹き込み、ヴァルキリーが一気に下降した。


――【後で伝えろ……今は、生き延びることだけを考えろ】


そう、心の中で呟いた。


ヴァルキリーのエンジンが咆哮し、ドアが全開になると、荒れ果てた滑走路から巻き上がった砂塵が彼らを迎えた。


『着地!行け!行けッ!』


ナオト上等兵は地面に着くと同時に駆け出した。


周囲では仲間が素早く散開し、射手が空を警戒しながら周辺を固めていく。搭載型オートコイル²が耳をつんざく轟音を放ち、戦場の鼓動が胸を激しく叩く。押し寄せる恐怖を掻き消すように。


真っ先に飛び出したのはイコマ中尉だった。


「フェリックス中隊、続け!連邦のためにッ!」


叫びは戦場に響き渡った。


レンジャーたちが怒号で応え、イコマ中尉の背を追って遮蔽物のない羽田宇宙港の滑走路を突き進む。視界は延々と続く瓦礫と、戦火が残したクレーターだけだった。


唐突に、青い閃光が空を裂いた。


ナオト上等兵が顔を上げる。直後、飛び立とうとしていたヴァルキリーが光に貫かれた。


「速すぎる——!」


雷鳴のような爆発音。衝撃波が空気を切り裂き、火柱と悲鳴が上がった。


あれが、自分たちの帰還手段だった。


輸送艇は空中で折れ曲がり、炎と破片を撒き散らして墜落した。レンジャーの隊列は衝撃に砕け、嵐に巻かれた葉のように散り散りとなった。


さらに閃光が続いた。


頭上のヴァルキリーは次々に火球となり、破片が雨のように降り注ぐ。


聞こえてくる悲鳴は訓練とは違う。ノイズも加工もない、生々しい死の声だった。


体が凍りついた。胃がねじれ、煙とオゾン、焼けたゴムの臭いが肺を焼く。吐き気がこみ上げ、灰色の地面に半ば消化された夕食を吐き出した。


息を整える暇もなく、乱暴に腕を引かれた。


「ナオト、立って!」


リア兵長の声だ。


栗色の髪は乱れ、顔に砂埃がこびりついていた。ヘルメットはどこかに吹き飛ばされたのだろう。頭上で別のヴァルキリーが悲鳴を上げて墜ちるのを聞き、彼女の長い耳が微かに震える。


リア兵長はこの惨状に似合わないほど強い目をしていた。世界を間違えたような、異質な気高さがあった。


「動ける?」


鋭い眼差しでナオト上等兵を確かめ、すぐ背後の煙を振り返った。


彼は震える呼吸のまま頷いた。


「なら行くよ」


リア兵長は彼を引き起こし、短く告げた。


「立ち止まらないで」


彼女の後ろから、レイコ上等兵が駆け寄ってきた。パルスライフルを胸元に抱え、荒い息を吐きながら、ナオト上等兵と周囲を素早く見回す。袖には血の筋が走っていた——彼女自身のものではなさそうだった。


「遅れるな!」


リア兵長ほどの鋭さはないが、切迫感は同じだった。


「姿勢低くして!止まるなよ!」


レンジャーたちは再び前進を始めた。焼け焦げたコンクリートにブーツの音が響き、煙に覆われた羽田宇宙港の残骸へと足を踏み入れる。かつて軌道輸送の要だったこの地も、今は瓦礫と崩落したガントリー、ねじれた鉄骨、粉砕された輸送機が骨のように散乱する無人の墓場に成り果てていた。


「ついて来い!」


イコマ中尉が叫び、ターミナルの外縁部へとさらに踏み込む。


「砲台はこの先のはずだ!」


数分後、到達した地点にあったのは砲台ではなかった。彼らの数はすでに二分隊にも満たず、負傷兵を含めて二十名足らず。


そこにあったのは、宇宙からなら精密なセンサーでも見分けがつかないようなハリボテ——

鉄屑と悪意だけで作られた、まるでカカシのようなものだった。


「……これが“砲台”か?」


イコマ中尉が信じられないような声を漏らし、通信機に手を伸ばす。抑えていた冷静さが、金属と灰の臭いと共に崩れていく。


ナオト上等兵はライフルを下げ、肩で息をしながら黙ってそれを見ていた。


リア兵長とレイコ上等兵でさえ、バイザー越しに不安げな視線を交わしている。


イコマ中尉は苛立ちを隠そうともせず、鋭く振り返った。


「モリタ!」


鋭い声に呼ばれ、モリタ伍長の背筋が固く伸びる。


「お前のチームで東側を偵察しろ。第二砲台は格納庫を抜けた先、200メートル地点だ。ヘリックス中隊の生き残りがいれば、そこと合流しろ」


嫌な命令だった。誰の目にもそう映ったが、モリタ伍長は短く返事した。


「了解」


振り返り、仲間に声をかける。


(ツジ)白銀(シロガネ)、オーサカ——ついてこい」


通り際、ナオト上等兵が彼の目を見て小声で言った。


「死ぬなよ、モリ」


「……そっちこそ。あとで、また会おうぜ」


イコマ中尉はすぐに次の指示へと視線を移した。


「ユウナ」


イコマ中尉が西を指し示す。


「メインターミナルへ突入する。もし何か守る価値が残っているなら、そこだ」


「他の中隊は? 全員で突入するって話だったはずよ」


イコマ中尉は首を振った。


「ギャリ中隊とは連絡が取れない。ヘリックスは断続的にしか反応がない。今動かなければ、ここに取り残されるだけだ」


ユウナ軍曹がヘルメットの横を叩いた。


「聞いたな! スタック組め!」


分隊が二手に分かれ始めるなか、ナオト上等兵は一瞬だけその場に留まる。


離れていくモリタ伍長の背中と、リア兵長・レイコ上等兵と共に動き始める傷だらけの小隊。その狭間で、揺れる煙が空に伸びていく。


風がまた一度吹き抜け、焼けた燃料の匂いに混じって、もっと深く、もっと黒く、明らかに異質な何かが鼻を突いた。


押し込めていた不安が、腹の底で静かに目を覚ます。


それ以上迷う暇もなく、生き残ったレンジャーたちはターミナルの廃墟へ突入した。イコマ中尉とユウナ軍曹を先頭に、交互に展開しながら足を進める。


割れた床にはガラスと瓦礫。


壊れた売店の光が断続的に明滅し、煙の中に揺れる不規則な影を落としていた。


ナオト上等兵はライフルを構え、全身の神経を張り詰めたまま前を睨む。


イコマ中尉の命令で、部隊は数人ずつの小隊に分かれてターミナル内部を掃討する。4人、多くて8人。まるで迷宮のような構造だった。


——その時。


金属が擦れる鋭い音が煙の中から響いた。耳障りで、やけに近い。


赤い光が闇の奥からにじむ。ぎざぎざの影が飛び出した。


イゴールだ。


小柄で、前屈みの人型。鋼材とむき出しのセラミック関節で作られた粗末な機械の骸。

本来「目」があるべき場所には、赤い双眼が不気味に明滅している。


錆びた鉄槍を両手に構え、じりじりと距離を詰めてきた。


一体だけなら、脅威でも何でもないはずだった。


「接敵!前方!」


イコマ中尉の怒声が響いた。


直後、青い閃光がカービン³の銃口から迸る。


ライフルから放たれたパルスが、イゴールの胴体を貫いた。


電磁の火花が走り、コアが焼き切れる。機体は力なく崩れ落ち、四肢が一度だけ痙攣してから、静かになった。粗末な鉄槍が転がり、床に当たって音を立てる。


『……汗かくまでもねえな』


誰かがチャンネル越しにぼやいた。


——ノイズ。


通信が乱れ、チャンネルがざらつく。


鋭い破裂音が続けて二発。どこか遠く、煙と金属に呑まれた奥から銃声が響く。反響が複雑に絡み合い、位置はまったく掴めない。


悲鳴が走った。


さらに二つ。


立て続けに、鋭く、痛々しく。


闇が、動く。


天井の梁から。 割れた床の隙間。崩れた売店、階段、吹き飛んだ天井の向こう——

湧き出る。


数十、いや——数百。


巣を突かれた蟲のように、イゴールが一斉に這い出してくる。炉のように光る双眼を輝かせ、異常な速さで動きながら、コンクリートと鉄骨を叩き、金属音を撒き散らす。


武器を振り下ろし、擦らせながら、群れとなって襲いかかる。


「伏せろ——奇襲ッ!!」


リア兵長の声が響いた。


間に合わない。


レンジャーたちが一斉に射撃を開始した。

パルスライフルの光が闇を切り裂き、チャージコイルの唸りが悲鳴をかき消していく。


前列のイゴールは波のように崩れ落ちた。

だが、一体倒すごとに、三体が現れる。


イコマ中尉がカービンを振り回しながら、無数の敵に向けて乱射する。


「隊列を——再整備——ッがあッ!!」


その声が、叫びに変わった。


天井から飛び降りた一体が、槍を前に突き出しながら落下し、中尉の胸を一撃で貫いた。次の瞬間、イゴールたちが一斉に彼の身体に群がり、血に飢えたように突き刺し、引き裂く。


「中尉がやられたッ!!」


「嘘……いや、いやだ!!」


ユウナ軍曹が遮蔽から飛び出し、腕を伸ばした。


「退け!離脱しろ!フォールバッ——ッ」


叫びは短剣によって中断された。


イゴールの一体が突進し、軍曹の太腿に剣を突き刺した。 悲鳴と同時に至近距離から二発撃ち込む——

一発は外れた。

銃が手から滑り落ち、踵を引きずりながら、闇の奥へと引き込まれていく。 悲鳴はすぐには止まらなかった。


ナオト上等兵が瞬きをする。 視界の端で、仲間たちが倒れていく。 囲まれ、断たれ、鋼鉄の波に呑み込まれていく。


空気が揺らいだ。 青白い光線が閃き、廊下という廊下を死の壁に変えていく。


イゴールの群れは止まらない。


まだ来る。


通信に、バチバチと割れるようなノイズが走った。 混乱の中、微かに聞こえる声があった。


『——中尉!こちらモリタ!砲台はない!』


銃撃音を背に、伍長の声が鋭く飛ぶ。


『繰り返す、これは偽物だ!罠だ!砲は——ここにはない!接敵中、複数だ!』


直後、通信の向こうで誰かの悲鳴が爆ぜた。


ナオト上等兵が通信に応答する。


「中尉は死んだ、モリ!軍曹も……全滅寸前だ!こっちは壊滅してる!」


『ナオか?』


「ああ!こっちは……地獄だ!」


モリタ伍長は一瞬も迷わなかった。


『LZ-Sまで撤退しろ!今すぐ動け!こちらで援護する!行け!!』


言葉が届き切る前に、崩れたゲートの向こうから、さらなるイゴールの群れが押し寄せてきた。


「下がれ!後退!」


リア兵長が叫び、ナオト上等兵の肩を突いて押し出す。同時に、至近のイゴールへ連射を叩き込み、崩れた自販機ごと吹き飛ばした。


短く息を吐きながら、彼女はライフルを下に下ろし、ポンプアクション式グレネードランチャーの下部を握り直す。手袋越しの指がポーチへ突っ込み、黄色の先端がついた30mm弾を三発、迷いなく取り出した。


熟練した装填手のように、指の間に一本ずつ器用に挟んでいる。


オリーブドラブの薬莢には黒いステンシル文字。


PROJ 30mm HEDP M340A1


迷いのない動きで、彼女は一発、二発、三発と装填ポートに滑り込ませていく。最後にグリップを引いて、カチン、ガシャッと確実に装填動作を完了させた。


その音が、パルスライフルの残響を突き破るように響く。


「グレネード投下!」


ドンッ


榴弾が砕けた柱の向こうを弧を描いて飛び、群れの中心に突き刺さる——


ドォンッ!!


爆風が廊下を照らす。


金属の悲鳴が響き、イゴールの骨格が吹き飛ぶ。溶けた鋼鉄とセラミックの破片が宙を舞い、赤い眼光が次々に消えていった。


リア兵長は無駄のない動作で再装填しながら、再び構え直す。


「もう一発——急げ!」


「止まるな、今すぐ動け!」


二発目が廊下を突き抜ける。


再び爆発。 金属の屑と死体を吹き飛ばしながら、進路が開けた。


彼らは走った。

砕けた床を蹴り、背後に煙の尾を引きながら。


レイコ上等兵が殿に回り、パルスライフルを呼吸を乱しながら銃を構える。


「早く行け!こっちは任せ——」


刃が、脇腹の奥にめり込む。


ナオト上等兵が振り向く。その目が見開かれる。煙の中から、イゴールの一体が低く滑り込んでくる。

刃は、彼女の肋骨の下にねじ込まれていた。


レイコ上等兵の口が開く。声は出ない。ただひとつ、雷鳴に呑まれる吐息が漏れた。

次の刃が刺さる。その次も。


あらゆる方向から突き立つ金属の凶器。彼女の身体は、鋼の手足と悲鳴の波に埋もれていった。


「やめろッ——レイコッ!!」


ナオト上等兵が駆け出そうとした——


リア兵長が腕を掴み、無理やり引き戻す。


「無理だ!もう——!」


視界が歪む。足音が響く。 悲鳴が煙と火の中に消えていく。彼らは出口を突破した。煙とパルスの閃光に包まれた、燃える夜の空へ。


モリタ伍長のチームはすでに陣を張り、銃撃で援護していた。


……ナオト上等兵は一度だけ振り返った。


崩れたターミナルのフレームの向こう。咆哮する群れの奥——


そこにいた。


一体の巨影。


黒く、装甲に覆われ、傷ひとつない。


戦場には似つかわしくなかった。 命令を下すことも、武器を振るうこともない。

だが、群れは自然とそれに道を開け、従っていた。


立ち姿。


歩き方。


刃の構え方。


すべてが、妙に見覚えのあるものだった。


……いや、見覚えがあるというより、心が拒絶している感覚だった。


それは、こちらへ歩いてくる。


背筋が凍る。


時間がない。


ナオト上等兵が振り返ると、リア兵長はすでに先を駆けていた。 突破口は狭まりつつある。イゴールが押し寄せてくる。


もう二人は通れない。


——どちらか一人しか、生きて出られない。


――【……レイコを、助けられなかった。】


今度こそ、繰り返させはしない。


行かせるべきは…… 彼女だ。


それ以外の選択肢はなかった。


戦争は、誰の中にも怪物を見つける。


――【……こんな終わり、最初からわかってたら——】


乾いた笑みを浮かべ、身体をひねる。


――【俺は……何か、変えられただろうか?】


「来いよ……クソッタレどもがァ!!」


ライフルを構え、引き金を引く。 青白い電弧が空を裂き、鋼鉄の肉体を貫いた。

金属の悲鳴が響く。


一体が突破してくる。速い。


槍が唸る。


身を捻っていなす。すぐに回り込み——

下部グレネードを撃ち込む。


爆風がイゴールの身体をバラバラに引き裂いた。


向き直る。撃つ。装填——そしてまた撃つ。


それは、ただ死に抗うための動きだった。


“それ”が近づいてくる。


――【もし分かってたら……】


――【あいつは、気づいてくれてたのかな】


ナオト上等兵は狙いを定める。


一発。


それだけ。


黒い騎士の姿が煙の中に浮かび上がる。一瞬——ほんの、一拍の間だけ、狙える。

迷いはなかった。


引き金を——


閃光。青の一撃。


ライフルが手から滑り落ちる。


直撃だった。


装甲を貫かれ、肩から背中へと焼け抜ける。 腕がぶら下がるように力を失い、足元が崩れる。


立っていた。


ほんの数秒。


それだけでいい。


ヘルメットが落ちた。ストラップは焼き切れていた。


血が装甲の継ぎ目から滴る。


前方。


煙の向こう。


彼女の姿が見えた。


リア兵長が——到達していた。モリタ伍長たちがその隣で、突破口を必死に守っている。


彼女が振り返る。


目が合う。


理解が追いつき——

絶望が走った。


唇を血で濡らしながら、かすかに笑った。


「とどいた、ぜ……」


彼は崩れ落ちた。


……


「ナオトォォォォッ!!」



———————————————————————————————

脚注


(1) EG-41/i(エレクトロマグネティッシェ・ゲヴェーア41)

連邦軍の標準装備である電磁ライフル。 10×24mm DUX(劣化ウラン炸裂弾)を使用し、鋼鉄製のシールドや強固な外骨格装甲を貫通してから爆発する設計になっている。

左側面装填式の50発マガジンを備え、アンダーバレルの換装オプションとしてポンプアクション式フレシェット・ショットガンまたは30x71mmグレネードランチャーを装着可能。

型番末尾の「i」は「Infanterieインファントリー」を意味し、本モデルが前線歩兵部隊向けであることを示している。


(2) EMG-38(エレクトロマグネティッシェ・マシーネン・ゲヴェーア38)

電磁式汎用オートコイル――従来の実弾式機関銃の進化形。

《ヘビーパルスライフル》の異名を持ち、12×28mm DUX弾を発射する。

その圧倒的な運動エネルギーと爆発力により、敵兵を粉砕する強力な兵器である。

しかし、その超高速連射時に発生する耳をつんざくような金属音が特徴的であり、

その甲高い音から、日本兵の間では「ゼミ」の愛称で呼ばれている。


(3) EG-41/k(エレクトロマグネティッシェ・ゲヴェーア41 クルツ)

EG-41/i パルスライフルのコンパクトモデルであり、主に下士官(NCO)向けに支給される。

近接戦闘用に特化しており、発射速度は毎分1,000発(RPM)に達し、標準型の歩兵モデルを大きく上回る。しかし、アンダーバレルの換装機能が排除されており、モジュール性は低下している。

「k」は「Kurz(短い)」を意味し、このモデルが短銃身バージョンであることを示す。

— 2025年7月23日:プロローグ改稿・再構成・リライト完了

— 2025年8月7日:テンポや流れを軽く調整しました

— 2025年8月9日:ノダの名前をオーサカに変えました。

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