悪魔の逆鱗
顔を真っ赤にして意識を手放したアルヴィスが、腕の中にいる。
芝生の上に力なく落ちた零れ落ちた手を拾い上げると、手袋越しでもはっきりとわかるほど冷たい。
体は熱く火照っており、じっとりと汗ばんでいるのがわかった。
肌に張り付いた衣服越しに、柔らかな感触を手のひらに感じながら、アルバートは周囲に鋭く視線を走らせた。
「大佐。数名を除き、全員を取り押さえました」
正面からバルトレイが歩み寄り、立ち止まって敬礼する。
指示があるまで待てと、庭園の低木や迷路のように入り組んだ茂みの物陰に待機していた部下たちが完璧に仕事をこなしている。
「本部で話を聞く。死なれては困るからな。丁重に輸送しろ。口の中に異物がないか確認し、何か噛ませておけ」
「はっ」
短く応じて、バルトレイは背を向けながら的確に指示を飛ばしていく。その音を耳に入れながら、視線を下ろすと、顎の下に絹のような感触が伝わった。
「う」
額に玉のような汗が浮かび、輪郭の曲線に沿って静かに流れ落ちていく。
浅く繰り返される呼吸は、熱を孕んでいた。
「アルヴィス」
呼びかけても応じる気配はなく、苦しげに眉を寄せている。
彼女から受け取ったはずの小瓶をいつの間にか落としていることに気づき、見回せば、左足の横に転がっていた。
小瓶には蓋がされており、中には透明な液体が入ったままだった。液体が減っていないことから、未開封であることがわかる。
(原因はアレではなさそうだな)
「寒い…」
小さな呟きが耳朶をかすめ、アルヴィスが身じろぎする。
暖が取れるものなど身近にはない。
取り敢えず、突然気を失った原因が瓶の中身ではないとわかってほっと嘆息すれば、腕の中の小さな物体が、眠っているとは思えないほどの俊敏さでジャケットを引き寄せた。
陽の香りに交じる植物の匂い。
柔らかで温かい髪の一筋が鼻先に触れた。
服に長い皺が入り、熱い体温が伝わってきて驚いて目を見張る。
灰緑の瞳は固く閉じられていて、まつ毛の先端が微かに揺れている。
「おい」
油断していたとはいえ、予想外の行動に、気が付けば自分の体が彼女の顔近くに引き寄せられていた。
どうやら彼女は自分を掛け布の一部だと勘違いしている可能性がある。
呼びかけても応じる様子もなく、ただ体を丸めるようにして縮こまっている様子が目に留まり、どうしたものかと肩を落とす。
「しょうがない…」
二度目だな、と独り言ちながら、しがみ付いているアルヴィスの指をジャケットから引きはがそうと手を重ねた時だった。
「う…寒い…。リタ…、マリー、寒い…」
温かさを求めるように、すり、とアルヴィスの頬が強く胸元に押し当てられる。ジャケットを握り締めていたはずの指先がゆるやかに外れ、彷徨うように今度はシャツに延ばされた。
「…………」
乱れた髪の一筋が朱色に染まる頬に張り付き、呼吸がやや粗くなっていることに気づく。
半開きの唇からうめき声が漏れ、眉間にさらに深い皺が寄った。
「まったく」
無理矢理引きはがすのも哀れだと柄にもなく同情してしまい、諦めてそのままにすれば、調子に乗るようにさらに深く顔をすり寄せてきた。シャツ越しに触れている指先は冷たく、頬は熱い。
片手が塞がっているので仕方なく、手袋を口で食んで取り外し、額に当ててやる。自分の方が体温が低いので、触れたところが幾分か冷えて気持ち良かったのだろう。
少しばかりほっとした表情が見えて肩を落とした。
それにしても、これはどうしたことだろう、と指先を熱を取り去るように彼女の頬に移動させながら考える。
指先で額の汗をぬぐってやるようにすれば、小さな唇から吐息が漏れた。
くたりと力なく寄りかかっている彼女へ目を向ければ、顎から首筋に幾重にも髪が張り付いているのが見える。ずいぶんと気持ち悪そうだ。
爪の先を使ってゆっくりと取り払ってやれば、びくりと彼女の体が震えたことに驚き、わずかに手を引っ込める。
それでもなぜかそのままにしておけず、指の腹で辿るように払えば、今度は自分から逃れるように両手に力を込めて、押し返すように身じろぎをする。
「動くな」
それがなんとなく面白くなくて、逆に引き寄せるように腕に力を込た。すればますます、暴れようとするので、回していた左手でしっかりと肩口を固定し、右手を膝裏の下に回して抱きかかえるような格好で立ち上がる。
急な体勢の変化に驚いて、落とされまいと再びしがみ付いて来たアルヴィスの横顔を見下ろせば、一度だけ、眠りから覚めるようにぼんやりと開かれた灰緑の相貌と視線がかち合う。
突如、胸の中心から不快感とは全く別物の、痺れるような感覚が末端を駆け巡る。
「………?」
ほんの僅かだけ薄く開いた唇が、間違いなく自分の名前を呼んだ気がして息を呑む。
だが、惜しいことに瞳はすぐに閉じられ、再び浅い呼吸が繰り返される。
形容しがたい感覚にアルバートは首を傾げたが、僅かばかりの逡巡の後、思い当たるものを見出したような複雑そうな表情をして、再びアルヴィスを丁寧に抱き直した。
慌てて駆け寄ってくるエヴァンス達を黙殺し、彼女の看護を願い出た病原菌をうっとおしく追い払いながら、アルバートはラスフォード邸を後にした。
なお、鬼畜悪魔大佐として恐れられる彼が、軍本部の医務室まで誰にも渡さず、お姫様抱っこのままで手づから令嬢を運び込んだという話は、忖度という名のかん口令が敷かれ、この話題は下士官たちの間で「悪魔の逆鱗」と呼ばれるようになったという。




