80.暗闇の底へ
風が頬を鋭く切り裂き、熱い痛みが瞬時に駆け抜ける。
何が起きたのか反応するより先に体にのしかかっていた圧力がすっと消え去り、少しばかり体の自由が戻る。
咄嗟に目を固く瞑ってしまったのか、目を開ける暇もなく聞き慣れない声が届く。
「アルヴィス!」
「くそっ」
名前を呼ぶ声に続いて頭上から自らの失態を後悔するような舌打ちが聞こえる。
見上げればオースティンが憎々し気に相貌を歪めて一点を睨みつけている。
その視線の先を追いかけるように目を動かせば、黒い塊が大きく動いたのが見えた。
光った、と思えば、遅れて痛みを耐えるような声が耳朶を打つ。
次いで視界に映ったのは光を受けて鈍く光るガラスの小瓶だった。
瓶は重力に引かれ、左横にゆっくりと落ちていく。
反射的に手を伸ばし、回転するように左方向に転がる。芝生の感触が体のあちこちを刺すが、瓶を手から逃さないように必死に握りしめた。
芝生の上を回転したアルヴィスの体は、黒い塊にしたたかにぶつかった。視界が揺れ、状況がつかめないままあちこちから様々な怒号が響き渡る。爆発とは異なるが、もっと小規模で小さな乾いた音が、離れた場所から幾度も聞こえ始めた。
脅威は去ったのか、と顔を上げようとすれば、頭上から声が響いた。
「無事か」
―――アルバードの声だ。
不思議と耳によく馴染む声に応じようと頷きかけた時、アルヴィスは目を剥いた。
「わっ」
アルバートの大きな手が背中と芝生の間に入り込み、腰に添えられる格好で無理矢理抱き起されたからだ。
「怪我は」
不機嫌そうな声が再びすぐ近くから響き、身を竦ませる。まるで悪戯を叱る父親のようなぶっきらぼうな言い方に、どう返してよいものかと悩んでいると、手の中の質感にハッと顔を上げる。
「これを」
自分が持っているより彼が持っていた方が安全だろうと、アルヴィスは何とか気力を総動員して両手で握りしめたままになっている瓶を差し出す。指先はすっかり冷たくなっていて、恐怖からか小刻みに震えていた。
真っ黒な軍服に包まれたその人物の姿が、背後からの強い光に照らされて真っ黒な一つの塊のように見える。
けれどその暗闇の中にあっても、紅玉のように美しい瞳がはっきりとこちらを捉えているのがわかった。焦燥を帯び、しかしどこか安堵を含んだ表情でアルヴィスを見つめている。
怒っているわけではないし不機嫌というわけでもない、初めて見る表情に心臓が大きく跳ねる。
思わず顔を背けたアルヴィスの姿に、アルバートはやや驚いたように目を見張る。そしてその頬に走る一筋の赤い線の存在を認めて、驚いたように息を詰めた。
「え?」
アルバートの手が、アルヴィスの頬にゆっくりと触れる。
まるで繊細なガラス細工を触るかのように、慎重に。
人差し指が輪郭を辿るように頬をかすめる。
「どうか、しました、か?」
見上げれば、ハッと我に返ったような表情のアルバートの瞳とかち合う。
途端にアルバートの眉間に深い皺が寄り、顔には明らかに不機嫌な表情が浮かび上がった。かなり怒っているのか、凄絶な微笑みすら浮かべている。
何をどう返してよいものかと逡巡すると、手の中から瓶が取り払われ、座りやすいように引き起こされる。
寄り添って座るような格好で途方に暮れていると、突如すぐ耳元で鋭い声が響いた。
あまりの剣幕に体が一瞬で硬直する。
「捕らえろ!絶対に殺すな!そいつからは、よく話を聞いておく必要があるからな」
その声が耳の奥で反響する間に、視界が急速に霞み始めた。
気が緩んだ瞬間を待っていたとばかりに。
まるで磨りガラスで視界を覆われたかのように、すべてがぼやけていく。
深い呼吸を試みても、空気は浅く、肺に届かない。
体がどこか重く、逆に冷たさを感じていくのがわかる。
全身に熱が滲み出すような感覚がありながら、末端がどんどん冷えていき、手足がしびれていくのを感じる。
心のどこかで「瓶の蓋は開いていないはず」と冷静に思うが、その考えさえも遠くなる。
目の前の景色が歪んでいき、アルヴィスは力なく揺れる視界の中で、必死にアルバートの顔を捉えようとする。
「アルヴィス!」
繰り返し名前を呼ばれ、その声がかろうじて意識の底に届く。
けれどすぐに耳鳴りがしはじめ、聞こえていたはずの音が細く薄く、淡く、鈍く消えていく。
力を入れることも叶わず、パサリと芝の上に落ちた手を誰かが強く引き寄せて握りしめた。
視界がより暗く狭まり、言葉や感覚が遠くなる中で、ついに意識が闇の中に溶け込んでいった。




