79.善悪の彼岸4
アルヴィスは手のひらを握り締め、唇を噛んだ後、顔を上げてオースティンを睨みつけた。
「そんなことの為に、薬草を育てているんじゃないわ」
真っすぐ見返しながら、アルヴィスは一歩彼に向けて足をすすめる。
オースティンの言い分は正しいのかもしれない。
エヴァンスの診療所にはいつだって、貴族のように満足に医療を受けられないたくさんの人々が訪れる。薬代が払えないからと、処方した薬を受け取らない人もいる。
子供が飲みやすいようにと調整して処方するルネカのシロップは、一部の金銭的に豊かな商人や貴族が独占していて、庶民にはとても手に入らない。
そのおかげで、毎年たくさんの子供たちが「命を救うために必要な薬を」、諦めなければならない。
それが歯がゆくてルネカを個人的に買い集め、様々に工夫し、試作品として作り続けてきた。
―――社交界?
そんなものエヴァンスの言葉を借りれば、クソくらえだ。
自分の居場所はあんな場所ではない。もっと大切な場所がある。
だけど、そういうものを恨んでは生きられない。自分が生まれて与えられた環境は他の貴族の令嬢と比べて、外から見れば恵まれたものではなかったのだろう。
けれど、それでも「恵まれたのだ」と思えるようなことは、これまでの人生の中でたくさん見つかった。それこそ探せばいくらでも。
早くに両親を亡くし、祖母に育てられ、その祖母すらなくし、親なしの孤児の子爵令嬢と面と向かって言われたこともあった。その分、屋敷の使用人たちや領民たち、古くから両親や祖母を知る人々からたくさん助けてもらってきた。
それに、「価値観」や「物事の考え方」が違うからと言って、他人を排除し、社会を恨み、自分の孤独を恨みで慰めるのは―――違う。
真っすぐに育ったとは言い難いから、卑屈さも、悔しさも、悲しみもたくさん知っている。
だが。
「何を選び取るのかは、いつだって自分で決められるわ」
陽光を受けて、鮮やかに煌めくのはアルヴィスの灰緑の瞳。
「嘆いても、無力だと叫んでも、現実は何も変わらない」
滑らかに明るく、熱を帯びて輝く瞳でまっすぐにオースティンの緑の瞳を捉える。
「あなたの言い分は、人や社会が変わらないからと自分を憐れんで、卑下して、貶めているだけのように聞こえるわ。……他人が変わらなくても、社会が変わらなくても、私たちはその枠組みの中で生きて行かなければならない。だって、そもそも、人を変えることはできないから。他人は自分の思い通りにはできない。なぜなら、他人にもその人それぞれの事情や考えや価値観があるから。私たちは、変えられないものの中で生きている。その枠組みの中で、どう自分を生かし、どう、生きていくのか。……変えることができるのは、自分の行動と、心だけ。―――いつだって、自分自身で選択することができるのよ」
眼差しに躊躇いはない。
微かにオースティンが怯んで息を呑み、僅かに後退した。
「あなたのしていることは、あなたが嫌悪している人たちがしていることと同じよ」
ゆらり、と影のようにオースティンが動いた気がした。
「っ」
伸ばされた手が視界を覆い、引き倒されて背中をしたたかに打つ。頬に刺さる芝生の感触と、踏みつけたばかりの緑の香りが鼻腔をくすぐる。衝撃と痛みに思わず止めた息を吐きだせば、頭上に覆いかぶさるような格好でオースティンが跨っていた。
見たことがない程の凄絶な怒りの形相でこちらを見下ろし、苦渋に染め上げた痛々しい瞳でこちらを見下ろしている。
「―――黙れ」
「ぁっ」
オースティンの片手が喉にかかる。強く圧迫され、骨がめりめりと音を立てるのが頭蓋に響く。
彼がポケットから何かを取り出した。
人差し指ほどの大きさの小瓶だ。
視界の端で捕らえれば、中には透明な水のような液体のように見えた。
両手でオースティンの手を押し返そうとすれば、喉の圧迫が取れ、思い切り息を吸い込む間もなく両手を頭の上にひとくくりにして押さえつけられてしまう。四肢が身動きできないように力づくで拘束され、足の間にオースティンの片足が割入れられる。
強い力がのしかかり、それが彼の体重によるものだと気づくまでに数拍。
「試作品だから、使うのは迷っていたんだけど」
鼻の先がかすめるほどの距離で、オースティンが囁いた。
アルヴィスの顔の横で、見せつけるように小瓶の蓋に指をかける。
お嬢様、とリタが叫びながらこちらに走ってくる声と気配がする。
こちらに来てはダメ、と言いたいのに、喉が張り付いて声が出ない。
「ナイトシェードの毒薬、その身を以て試してみるかい?」
狂気を顔に張り付けて、緑色の自分とよく似たオースティンの相貌が、三日月形に歪んだ。




