77.善悪の彼岸2
「……決め手は、その香りの中に強い刺激臭が紛れていたこと。夜会の煙でも確かに嗅いだ、強く、刺さるようなねっとりとした強い香りが、あなたから香りました」
「しまったなぁ。結構しっかり洗い落としたし、衣類も変えたんだけど」
本当に心から失敗したというような表情を作り、オースティンは自分の両腕をくんくんと嗅いでいる。
(あの刺激臭が数日ずっと体に残り続けるとは思えないから)
おそらくは、ここへ来る前、何らかの必要性があり、強いにおいを発生させる毒物を使用したということを窺わせた。けれど、どこで、何故彼から今あの香りがしているのか問うより、アルヴィスにはどうしても気になることがあった。
「その香りを発生させる毒物が、ナイトシェードと呼ばれる毒物ですか?」
柔和だった表情が一瞬わずかに豹変する。
鋭い光の中に、嘲りと侮辱が浮かんでいるのを目にして、アルヴィスは生唾を呑みこんだ。
すぐに表情は戻り、オースティンは片手を緩やかに持ち上げて噴水の中に、その指先を浸しながら言う。
「正解でもあり、不正解でもある」
「不正解?」
オースティンは光に当たって煌めく水面を見つめながら、手のひらを返して水をすくい上げてぼたぼたと音を立てて零し、そのままの格好で静かに呟いた。
「これが、ナイトシェードだよ」
取り繕うのをやめたのか、オースティンは友人にでも話して聞かせるような口ぶりで答えた。
「水が?」
「ちがう。―――ナイトシェードは総称であり概念。この世に数多ある、ナイトシェード伯爵が考案したレシピによって作られた禁忌薬のことをナイトシェードの毒薬という」
「ナイト、シェード伯爵?」
記憶の中に閉じ込めているどの引き出しにも引っかからないその響き。
毒物の名前にしても、植物の名前にしても、記憶している全ての存在する貴族の爵位の名称や如何なる領地にも「ナイトシェード」という言葉はない。
当惑するアルヴィスの様子を静かに見つめて、オースティンはしばし瞳を閉じる。
「知らないのは当然だ。ナイトシェードは元々、隠された爵位でね。表立って語られることもなければ、存在を公にされることもない。領地も領民も持たず、ただ国のためにその忠誠を尽くす、非業の存在……。誰にも見られることも、顧みられることもなく、ただ在ることだけが彼らの存在意義だ」
オースティンは水にぬれた手袋を芝生の上に放り投げ、反対側の手袋も取り外して、力なく足元に投げ落とした。
「夜会で使用した、……爆発物に仕込んだのはそのまがい物。君は知らないだろうけれど、そもそもあの夜会での一番の目的は達成されたんだ。煙は副産物としてはいい結果だったけど、本命は別でね。それ以外はほとんど思い通りの結果にならなかったと言ってもいい」
「一番の、目的?本命?」
何でもないことのように乾いた笑いを零すオースティンの表情にぞくりとしたものを感じて、アルヴィスはたじろいだ。
毒物を爆発によって散布し、会場を混乱に陥れ、多くの人々を負傷させたことを言っているのかと思えば、オースティンは喉の奥から静かに笑みをこぼし、前髪を片手でかきあげた。
手のひらに残った水が、彼の顔を濡らし、水滴が玉のように零れていく。
(あれだけたくさんの人を傷つけておいて、副産物?爆発も、煙も、まるでそんなに重要なことではないと言っているみたい―――)
「ヴァーレントゥーガの殺害が僕の一番の目的でね。まがい物とはいえ、満足のいくいい仕事をしてくれたとおもっているんだよ。あの毒薬は、予想外の産物だった。火力を調節したクラッカーの中に毒物が含まれた油を仕組んでおいたんだけどね、爆発すると同時に熱せられた油が不完全燃焼を起こして煙を生じさせた。人体やあらゆるものに飛び散って炎が上がり、そこから毒成分を含んだ煙が散布された、というわけなんだ。惜しむらくは、まがい物だったから、精製が十分でなく不純物が多かったみたいでね。当初の予測とは大きく外れた結果になってしまったんだ」
セリウスの友人の一人として簡単に挨拶を交わした青年の面影が微かに脳裏をかすめた。
眉根を寄せたままのアルヴィスに、気分が高揚したようにオースティンはさらに続ける。
「ファロンヴェイルの泥かぶりの子爵令嬢」




