73.深淵を覗く時
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アルバートはエヴァンスとリチャードのやり取りを耳にはさみながら、一人静かに考えていた。
夜会の事件を除いて、元々追っていた事件の被害者の遺体の状況を改めて整理する。
レバノール商会の若い男。
その男と取引先の職人。
貧民街の男。
そして、男爵夫人。
見つかった時の遺体の外見的特徴と、解剖可能だった遺体の物言わぬ供述。
リチャードは遺体の検案書を持ってきた際、毒物の可能性を示唆しながらも奇妙さを口にしていた。
それぞれ、別々の方法で毒物を摂取、あるいは「注入」された可能性があるのではないか、と。
エヴァンスが解剖を担当したのはその取引先のガラス細工師の職人だった。
死後数日経過した遺体の状況は、この時期の平均気温を考慮すれば、夏よりはやや腐敗の進行は遅くなるはずだったが、折り悪く、発見時の数日中は、この季節にしては珍しく気温が高く温かかったという。
アルバートもその報告を受け、人手が足りず急遽立ち合いを依頼したエヴァンスも当時、同じ報告を受けていた。
ただ、後日の現場の再検証の際に、その前提が覆ることとなる。
ガラス職人が見つかった彼の工房の一室は数日前から炉が完全に落とされていて、中は外よりもむしろ冷えていた。日陰に位置している工房の敷地は日当たりが悪い為、年中を通して涼しい環境だったという。
通常の屋内で生活をしていれば温かく過ごしやすかっただろうが、工房は冷えていた。
にもかかわらず、遺体は内臓からの腐敗の進行がかなり進み、持ち上げた時にどろりと上半身と下半身が裂けた。
三日ほど前から工房に連絡がつかないことを心配した仲間の職人が駆け付けたところ、明らかに死亡している状態の工房の主が見つかったのだという。
かなり気難しく偏屈な性格で友人も少なく、三年前伴侶を失ってからは一人息子とも疎遠になり、相当な金を賭博につぎ込んでいたという。支払いが遅れがちになり、工房の経営も悪化の一途を辿っていたと報告されている。
その果てに死亡したため、発見が遅くなったらしいのだが、それにしても妙だ。
(心身ともに健常で、借金を苦に自殺するような人間とも思えない。飲酒の習慣はなく、死亡したと思われる日の前日の夜には賭博場で姿を見られていた)
その時の様子に不審な様子はなく、むしろ彼は大穴の果てに近年珍しい程、相当「勝って」いて、上機嫌で賭場場を後にしたと知られている。
(エヴァンスは何と言っていたか…)
検視に立ち会ったエヴァンスが、状態の悪い皮膚を見下ろしながら一つのことに気づいた。
ガラス工房の職人らしい武骨な手の状態を観察しながら、視線を辿り、その二の腕の横に親指ほどの痕を見つけた。打撲痕のようにやや黒ずんで青っぽくなっているような、内出血の痕だ。
指摘に気づいて確認しようと目を凝らして調べてみれば、鼻をつく刺激臭に軍医が嘔吐したのを横目に、エヴァンスは物怖じすることなく、手袋を嵌めた指先で該当箇所を示してこう述べた。
注射痕に似ている、―――と。
現場の状況を書きとった報告書にもう一度目を通せば、工房は締め切られており、匂いが充満していた。あちこちに嘔吐物があり、内容物の正体すらわからない、おそらくは胃液だけだと思われる液体の痕も見つかった。
通常はそれなりに片付いているはずの工房の中は暴れまわった後のように散乱しており、外から鍵がかけられていた。
もし中の人物が死亡した状態で夜が明け、工房が閉められているのなら、物音のしない工房の中に人がいるとは誰も考えないだろう。
彼が賭博で大金を得たことは、誰もが知っていたことでもあったのだから、景気づけに工房を休んでどこかに出かけたのだろうと思われたとしても妙な話ではない。
(コーデリウス夫人の毒物の摂取方法が経口だと推測した場合、注射痕を踏まえれば、毒物を注入された可能性も考慮できる。摂取させられた毒物への反応で、夫人と同じような症状が現れたと仮定するのならば、他の死者と共通する特徴が浮かび上がることになる)
アルバートは、一人目の不審死を遂げた男の報告書と、路地裏で見つかった男の資料に視線を走らせた。
レバノール商会の若い男は、家族の証言によるといつもより少し遅く仕事を終えて家に帰ると、突然の腹痛から下痢、嘔吐を繰り返しながら、もがき苦しむようにして死んだという。妙な感染症の類ではないかと、病院を受診したが受診の前に男は死亡した。家族は奇病の可能性も考慮され、医師の勧めで一週間ほど隔離生活を送ったが発症せず、現在も健康に暮らしている。
死後、僅かばかり経過していたというが、気にかかるのは路地裏で発見された平民の男だ。爪に皮膚の一部が付着するまで喉を掻きむしって絶命した状態で発見されたという。あまりの形相に「悪魔にとりつかれたのでは」と噂されたという。
(レバノール商会の男と、夫人の毒物の摂取方法が同一だとした場合、路地裏の男と職人の男の摂取方法は同じ…?リチャードが言うように、同一の毒物を別々の手法で用いて使用している可能性があるとしたら、何のために―――)
ふと、エヴァンスとリチャードの会話がアルバートの耳に届いた。
夜会で起きた爆発の原因が、ヴァーレントゥーガ男爵が放った一発のクラッカーであるとの話題だ。
(今朝方死亡したヴァーレントゥーガの死因は、全身火傷を起因とする肺水腫による呼吸不全だが、同時に熱傷とは別で呼吸器に爛れや細胞の融解のような症状が見られた。意識不明の黒焦げ状態で運ばれ、身元の判別が最後まで難しかった容疑者の男は、治療中に何度も嘔吐を繰り返し、輸液が追い付かないほどの極度の脱水状態も併発している)
意識がない状態での嘔吐によって、チューブを通している部位の洗浄や新たな挿入が幾度も必要だったという内容も記述してある。
おそらくはクラッカーの中に含まれていた毒が原因と考えられるが、直接の死因に大きくかかわっているのはむしろ火傷の方だ。
(爆発が生じた時、煙の規模は音の割に規模が小さかった。煙に含まれている毒によって、近くにいた人間は目や喉、器官系、皮膚などの痛みを訴えていたが死に至るほどの大きな症状を発症したものはごく限られていた。負傷者の状況を見ても、軽症者が大半を占める。火災も全体としては燃え広がるよりも前に鎮火していたという印象で、鎮火の為に水を引かせたが、建物からは既に水が流出していた部分もあった。水道管が破裂しただけかと思ったが、あの図面を見れば違うということがわかる)
アルバートは顔を上げ、部屋の奥で様子を見守っていたバルトレイに意識を向けた。
彼は思慮深く頷き、傍らに立つ部下に何か指示を送る。
広がっていた思考を、ひとつずつ整理しながら、断絶していた点と点を繋ぎ合わせるように、慎重に意識を傾ける。
ヴァーレントゥーガは祝いのつもりで「クラッカー」を放った。
そのせいで自分が死ぬとは思っていないし、火だるまになるとも予想していない。
ましてや毒物を含んだ爆発物が仕掛けられているとは思いもしなかった。
けれど、紐を引けば突然爆発し、毒物を含む油と煙、そして起爆に由来する猛火が彼を襲って全身を包んだ。
熱せられた油に含まれた毒物が、加熱されて煙を発生させ、会場に散布された。
幸いなことに窓はほとんどすべて開いていた。
風に乗って煙は外に流れ、外気の流入によってすぐさま薄まり始める。
しかし彼は身元が分からなくなるまで焔と毒に焼かれた。
同時に誰かが部屋にあらかじめ仕掛けていた爆弾を破裂させた。
本来ならば会場を倒壊させるつもりだったが、爆発の火力よりも、邸の設備の機能や堅牢さが思わぬ形で障害となり、張り巡らされた水管のせいで正しく目的が発生できなかった、と仮定するのならば。
「ヴァーレントゥーガはクラッカーの中身を知らなかった。毒物が混入されていることも、会場に爆発物が仕掛けられていることも。そして、犯人も知り得ないことがあった。それは、―――」
思考の整理がもう少しで完了しそうな時に限って、急な来訪がある。
下士官が入室の許可を求め、頷くとセリウスとステファンが入室してきた。




