71.ナイトシェード「の」毒薬(エヴァンス視点)
―――ナイトシェード。
軍に所属する人間なら、知らぬ者はいないというほど「有名」で「残酷」かつ「強力」な禁忌薬の一つであるナイトシェードの毒薬。
入隊後の初期教育訓練の座学においても、必ず必要な知識と共に叩き込まれる。
「ナイトシェード」と単に称されることの多い呼び名だが、正式には「ナイトシェード伯爵のレシピによる数種類の毒薬」を示す。
先ほどメイノワールが使用の許可を求めた自白剤の一種は、「ナイトシェード伯爵のレシピ」をベースに造られ、比較的人体と精神に重篤な作用を及ぼさないよう配慮され製造された薬のことである。副作用や依存性についてはさておいて、伯爵のレシピと比べるとかなり改良が加えられた比較的「安全」な薬液だ。
古今東西のあらゆる薬物に精通した伯爵のレシピは、戦争という特殊な状況下で合法的にもしくは「実験的」に使用され、戦況に大いに貢献した、―――と言われている。
一部の人間は勘違いをしているようだが、ナイトシェードは特定の毒物を示す名称や単語ではなく、ナイトシェード伯爵が考案したレシピから作られた数十種類の毒薬を示す。
とはいえ、伯爵は十八年前にこの世を去っており、それ以降に新しく発表されたレシピは存在しない。
死後、レシピは散逸、または極秘事項として封印処置が為されている。
また、伯爵がこの世を去ってから「ナイトシェードの伯爵号」は空位とされ、存在しない爵位になっていることも戦争を知る、一部の人間の間では有名だった。
先の戦争の末期、おそらく軍部が秘密裏に保持していたと思われるレシピを元に、僅かに登場した「ナイトシェードの毒薬」は自軍も他軍も恐怖に陥れた。あまりにも強力なその毒薬を目の当たりにして、「ナイトシェード」は依頼、恐怖の代名詞となった。
終戦後は軍と政府があらゆる手を使い、再び隠匿され、現在はその名残を莫大な予算をかけて回収していると伝え聞いている。
ナイトシェードの毒薬は悪夢というには優しすぎる表現で、絶望というには生ぬるい。
様々な用途によって使い分けられるその存在は「悪魔の所業」と言えるかもしれなかった。
「少なくとも、私の知識を総動員してもナイトシェードとは全くの別物だ。よく似せて、造られているけれど、完全なる粗悪品。まがいものだよ」
ナイトシェード、と誰が呟いたのかわからない。
繰り返した言葉が溶けるように会議室に広がり、エヴァンスは藍色の相貌を悔し気に歪める。
自分と婚約者が心から愛してやまない、最も大切な友人が陥れられる原因になった毒物の総称を仇のように繰り返す。
「伯爵のレシピではないと断言ができるのか?」
刃のように鋭く問えば、いつものらりくらりと口先だけで生きているような兄が、嫣然とほほ笑む。
「バカにしないでもらいたいね。私が白と言えば、完全に白だ。あんなまがい物、許しがたくて、製造にかかわった人間を残らず縊り殺してやりたいよ」
憧れの中に強い憎悪を滲ませて、それすら表現するようにリチャードがうっとりと言葉を零す。
それは、田舎の極小領地で薬草園を運営するに過ぎない貴族の令嬢には手に余る代物だと言外に示し、ナイトシェードという単語や彼の存在すら知らないファロンヴェイルの子爵令嬢が、完璧に無関係であると伝えているかのようでもあった。
「ともあれ、あんなもの。ナイトシェードでも何でもない。誰が勝手に勘違いしたのかは知らないが、本物だったらエヴァンス。――君は今、生きていないだろうね」
誇張でもなんでもなく、真実そうだと言わんばかりにリチャードは薄っすら笑って瞳を閉じた。
「まがい物の毒物が仕込まれた油入りのクラッカーで自爆した哀れなヴァーレントゥーガ、というが結末なのだとしたら、陳腐で安っぽい。薄気味悪い終わり方だな」
だが残念なことに、このまま幕を閉じるには、気にかかる点が多すぎる。
クラッカーに仕組まれた毒物はさておいて、現場でいくつも聞いた複数の炸裂音。
意外なほど早く鎮火したその理由。
何かに気づいた様子のバルトレイがアルバートと視線を合わせ一枚の大きな紙をテーブルの中央に差し出した。
「こちらはラスフォード男爵邸の見取り図です。それからこちらは、建築許可証や登記証と一緒に役所に提出されていた邸内部の図面となります。図面によると電力ケーブルの位置から配管の細かな設定などが明記されているので、おそらくは設計書だと思われます。建物に並行し、地下水をくみ上げるためのポンプを設置した小屋があります。こちらから館内に冷却設備の用途としての配管と、水道管を振り分けて管理しているようでした」
設計図だと示された方の図面は、全体の間取りとはまた別に、迷路のような細い線が複雑に書き込まれていた。
「冷却設備の配管?」
なかなか耳にしない言葉の響きにエヴァンスが眉根を顰めると、アルバートが手袋を嵌めた手で図面を示しながら答えた。
「ラスフォード邸は非常に新しい、最新鋭の設備を組み込んだ建築物だった。床下に水道管とは別の湯管が張り巡らされ、壁や天井の一部には建物全体の冷却を担う水が通る管が通されている。―――建物の構造は極めて堅牢。鉄柱にコンクリートを流し込んで作られた要塞のような邸だ。天井梁の少ない設計方法だが、鉄柱とコンクリートのおかげで天井部に巨大なシャンデリアを吊るしても十分に耐えられるほどの強度計算が為されている」
渋い顔をしながら淡々と説明を続けるアルバートの相貌がわずかばかり曇る。
「確認させたところ、追加の爆発物が仕掛けられていたのは、この玄関入り口の上部、回廊の四隅、会場奥の中央部とその左右。普通であれば建物の枠組み、基礎にあたる構造上の要所に小型だがそれなりの威力がある爆発物が仕掛けられていた」
普通であれば、と強調したのは、木造を想定した工法を示唆したためだろう。
「会場にいた全員を道連れにする気だったのは、言うまでもないな」
珍しく困惑気味に表情を曇らせるアルバートに、エヴァンスは妙な違和感を覚え思考を巡らせる。
(会場のあちらこちらに仕掛けられた爆弾の規模や量を考えると、邸ごと吹っ飛ぶか、会場全体が猛火に焼かれる可能性があった。けれど実際には、瓦礫の山はできたが、火災はぼや程度。毒物を含む煙で重軽傷者はそれなりに出たが、現在のところ死亡者は男爵令息ただ一人)
道連れにするほどの仕掛けをしておいて、命を落とすのは自分ひとりだけだったなどと、とんだ道化だ。
そもそも男爵は、自分が死ぬことを想定していたのだろうか?
クラッカーの中に毒を伴う爆発物が仕掛けられていたのを知って、恐れも知らず爆発をさせるだろうか。
ハッとして顔を上げたエヴァンスに、アルバートは真紅の相貌を静かに向けた。
「そういうことだ。ヴァーレントゥーガはクラッカーの中身を知らなかった。毒物が混入されていることも、会場に爆発物が仕掛けられていることも。そして、犯人も知り得ないことがあった。それは―――」
何かを一つずつ確かめるように慎重に言葉を選びながら語るアルバートが、思考を邪魔されたとばかりに眉間に深いしわを寄せた。
丁度のタイミングでドアから下士官が声をかけた。アルバートが入室を許可すると、会議室の空気に不釣り合いなにこやかな表情のセリウスに続いてやや戸惑った様子のステファンが現れた。




