66.レヴィーナ子爵
ラスフォード邸の入口にアルヴィスたちが到着すると、敷地の正面をぐるりと取り囲むその堅牢な鉄製の柵が静かな威圧感を放っていた。
硬く閉じられた門の前では軍人たちが警戒の目を光らせており、その姿勢からはまだ事件が完全に収束していないことを示唆しているかのようだった。
馬車から降りて門の方にリタと進んでいると、ステファンが乗る馬車が横を通り過ぎた。
実はステファンには非常に重要なお遣いを頼んでいるのである。ラスフォード邸での用事が長丁場になることを予測して、検討した結果である。
彼はこの後軍本部に向かう予定だ。
というのも、帰りの馬車の中で気づくなんて、よほど抜けているとは自覚しているのだが、「植物図鑑」をどうやらアルバートの執務室のどこかへ置き忘れてしまったようなのである。自分でももちろん探したし、帰り支度をするリタにも探してもらった他、アリエンスやエヴァンス、ステファンにも尋ねたが結局見つからなかった。
忌々しくもアルバートから借り受けたままのコートに忍んでいないかと思ったのだが、もちろんない。
(それに、ばい菌扱いされたあのコート。アリエンスに無理を言って、急ごしらえで「清潔」にしてもらったのだから早く返しておかないと)
何を言われるか分かったものではない、というのが本音である。
結局最後の最後まで、直接の説明もなければ謝罪もない。一方的に「終わり」だと告げられたようなもので、未解消の苛立ちがずっと心の奥で燻ぶっているような状態だ。
いつか絶対に、心臓が飛び出るほど驚かせてやるのだ。
アルヴィスは密かに硬く決心した。
「お嬢様、お加減はいかがですか?先ほどよりも顔色が戻りましたね」
アルヴィスの心中を知ってか知らずか、後方を歩いていたリタが唐突に控えめな声をかける。
馬車を降りて風に当たったからか、頬が冷えて心地よい。
もしくはエヴァンスの薬湯がようやく効いて来たのかどちらかだろう。
アルヴィスは軽く頷いて、門の方に視線を走らせた。遠目からではよくわからなかったが、門の前に軍人とは違う存在が目に入った。
初老の男性で、蝶ネクタイにカジュアルなブラウンのジャガード生地を織り込んだジャケットのセットアップを着こんでいる。紳士なのに手袋を嵌めていない姿が、どこか気安さを感じさせ、アルヴィスはふと小首をかしげる。
―――彼は確か。
「レヴィーナ子爵?」
アルヴィスが思いついたように声をかけると、その人物は呼びかけに反応してゆっくりと振り向いた。
けれどその顔にははっきりとした当惑が浮かんでいる。こちらのことをまるで覚えていないといった風である。
「ヘイウッド伯爵と夜会で一緒にご挨拶させていただきました。ファロンヴェイルのアルヴィスと申します。こちらは侍女のリタです」
すかさず重ねて続けて微笑めば、その言葉に反応するように子爵の顔がぱっと明るくなり、瞬時に笑顔を浮かべた。
「ああ、そうだったか。失礼。この年になると、記憶がよく飛んでしまってね」
レヴィーナ子爵は再び気恥ずかしそうに肩を竦め、「改めて」と前置きしながら貴族らしい礼儀正しい挨拶を交わす。
「それにしても、こちらで子爵にお会いするとは思っても見ませんでした。本日はどうされたのですか?」
視線をさりげなく軍人たちに向け、自然な素振りで尋ねれば、レヴィーナ子爵はその問いに頷きながら言葉を探し、門の方を親指で指しながら困ったように眉を下げた。
「実は中に入りたいと言っているんだが、なかなか入れてくれないんだよ」
「まぁ。中に?」
わざとらしさを感じさせない、ごくごく自然な反応をするお嬢様のできすぎた振舞いを見て、リタはやや視線を空中に彷徨わせた。
子爵は軽く頷くと、腕を組んで心底困ったという表情をして続ける。
「私がこの邸の設計に携わったことを話しただろう?爆発の後の消火活動がいち早く進んだのは空調管の冷却水のおかげなんだ。天井や壁の一部に張り巡らせていた壁の中の管が衝撃を受けてあちこちの破裂したのは予想外だったが、どの部分が、どういう具合に損傷を受けたのか後学のために調査したくてね。私の工場でも使用しているシステムだから、従業員たちのために念入りに調べておかないと」
「お優しいんですね」
詳しいことはよくわからないけれど、従業員のことを慮る経営者としての子爵の人柄は素晴らしいと、アルヴィスはおっとりと微笑んだ。
その様子に気を良くしたレヴィーナ子爵は、「社員は会社の宝だからね」と深く頷いて、もう一度交渉をすべく門を守る軍人に話しかけるのだが、「許可のない方の立ち入りは禁止されております」と素気無く断られてしまう。
レヴィーナ子爵は両肩を軽くすくめ、あきらめたように微笑みながら「ほらね」とアルヴィスに視線を向けた。そのままこちらに編み寄ってくると、立ち話の続きとばかりに口を開く。
「それにしても、お嬢さんがどうしてここへ?君のような可憐な令嬢には不似合いな場所だとしか思えないのだが」
子爵の至極まっとうな感想に、アルヴィスは同意を示すように頷き、あらかじめ用意しておいた言葉を口に出した。
「実は、縁あって伯爵家から借り受けた宝飾品を失くしてしまったのです」
「伯爵家、というとヘイウッド伯爵の?」
それは残念だったろうね、と子爵は軽く息をつき同情を示しつつ、しばらく考え込むように目を細めた後、急に眼を見開いて手をポンと打った。
「なるほど!そうか、そういうことだね!なるほど!!」
その顔には嬉しそうな表情が浮かび、まるで何かに気づいたかのように続けた。
「大切な婚約者からの贈り物だから、どうしても見つけたい。そういうことだね?」
「へ?」
アルヴィスは子爵の言葉を聞いた瞬間、思わず目を見開いた。




