65.奇人変人(エヴァンス視点)
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「閣下。そちらは本部への連絡棟へ向かう通路です。第三会議室はこちらですよ」
少し低く野太い。
どっしりとした声にエヴァンスは目を軽く見張る。
簡素な磨りガラスがはめ込まれた扉から隙間を開けて、のっそりと現れたのは彼がよく知る人物だった。
「バルトレイ―――少尉。久しぶりだな」
肩の階級章をチェックしながら、少し間を開けてにこやかに手を上げれば、バルトレイこと、スティーブンは気恥ずかしそうに頬をかいた。
ずんぐりとした何かの動物を連想させるような体躯の男は、短く切りそろえた黒々とした髪を撫でつけながらかつての上官へ経緯の眼差しを向けながら、片手を差し出した。
「お会いできて光栄です、エヴァンス殿。お待ちしておりました。さあ、こちらです。ところで、……おひとりですか?」
きょろきょろとエヴァンスの背後を伺うように視線を移動させながら、困惑したような表情でスティーブンが声をかける。その顔には「案内も付けず、たった一人でここに無事辿り着けたのか」という驚愕の意味も含まれていた。エヴァンスはもちろんその意味をくみ取って、曖昧に濁しながらメイノワールに遭遇したことを告げると、「なるほど」と感慨深く頷かれてしまった。
軽い談笑を交えながら会議室に入ると、エヴァンスとバルトレイ以外の将校は到着していないようだった。
部屋に招き入れたバルトレイの他には資料を用意したり、椅子を整えたり、細々としたやり取りを行っている彼の部下の姿があるきりだ。
窓から差し込む薄明かりが、静かな室内に淡い光を落とし、ほんの少し湿った空気が感じられる。
「それにしても驚きました。あれほど嫌っていた本部へあなたがお越しになるとは」
時が経ったと感じますな、と頷きながらバルトレイはエヴァンスに椅子をすすめた。
促された椅子にありがたく座りながら、エヴァンスは困ったように藍色の瞳を眇める。まるで再びここに来ることになろうとは、彼自身思いもしなかったとでもいうように。
「俺としては、あなたが復帰した方が驚きですが」
苦笑するエヴァンスに、今度はバルトレイが苦々しい表情で応える。
多くは語らないが、それだけの理由がそれぞれにあったのだ。
しばしの沈黙の後、エヴァンスが思い出したように口を開いた。
「アルバートの無茶に付き合わされたと聞いた」
本題はそれだとばかりに悪戯っぽく微笑めば、傍らでゆったりと立ったままのバルトレイがものすごく悲しそうな顔をして天井を見上げた。心なしかその瞳は潤んでいて、頬が紅潮している気がする。
「そんなにひどい内容だったのか―――」
流石鬼畜悪魔大佐と囁かれているだけはある、とエヴァンスが妙に納得して頷いていると、背後の扉の向こうから賑やかな声が届き始めた。
「あー。もうめんどくさーい。早く帰りたぁーい。帰って眠りたーい。むしろ何もしたくなーい」
「うるさいですヨ。もうちょっと静かに歩いてもらえませんか?大佐が困ってらっしゃるじゃないですか」
ぐずる子供を冷淡にしかりつけるような声はメイノワールだ。
いま一人の不満げで伸びやかな声にピクリと反応し、エヴァンスは顔を引きつらせ、バルトレイを見上げた。彼は今にも口笛を吹きそうな顔をして視線を逸らし、「んんっ」と咳払いして会議室の後方にそそくさと逃げるように歩いていく。
扉が開かれ、エヴァンスが顔を引きつらせて立ち上がると、押し合うようにしながらまず二人の人物が入ってきた。
「僕が、最初に、入るって言っただろうガ」
「年長者は敬いたまえよ、少年よ」
長い銀髪をゆるやかに三つ編みにした藍色の瞳の青年の頬を、メイノワールが躊躇なく両手で押しつぶしている。そのいつものありふれた様子を、懐かしさなど微塵も感じない様子でげんなりとして見やったエヴァンスが長い溜息を吐いて目を覆う。
「なんで、あなたがここにいるんだ…リチャード兄さん」
がっくりと肩を落とし、低い声で問うと、子供のような喧嘩を始めた二人のうちの一人が、顔を上げ、すぐさまそのエヴァンスとよく似た藍色の瞳に喜色を浮かべる。
「ヴァンス!君が来ると知っていたら、こんなむさくるしいところではなく、もっと清潔なところを用意したのに!」
メイノワールを片手で思いきり押しやり、彼の存在を無視した状態で、「兄」リチャードが嬉しそうに笑顔を浮かべながら、つかつかと眼前に歩み寄ってくる。そのキラキラとした笑顔は、どこか不気味さを感じさせるが、彼としては愛してやまない末の弟と再会できたことが嬉しすぎて、感情を抑えきれないだけなのである。
エヴァンスの兄、リチャード・マーカス・フィリップ・アステリア・アストラヴェルは、奇人変人を輩出することで有名な侯爵家の、その中で最も変わり者と言われる次男坊である。長兄がようやく結婚し家督を継いだのをいいことに、責任のある立場から逃げ切った彼は一生独身を信条に掲げ、最先端の研究を心置きなく楽しむことができるから、という理由だけで軍人となり、その有能で類稀な頭脳を遺憾なく発揮している。
普段は研究室にこもって一切出てこない彼が引っ張り出されるのは珍しいようで、スティーブンの部下たちが顔を見合わせてざわついていた。
「なぁ、ヴァンス。こんな所より、俺の研究室に来ないか。最近、最新鋭の顕微鏡を手に入れたんだ。これがもう、すごいんだよ。細胞一つ一つがまるで生きているみたいに観察できて、色々な菌や微生物を見てるんだけど、ほんとに楽しくてさ!昨日も新しい種類の細菌を発見して、何時間もその動きに見入ってしまったんだ。あんな細かい動きが見えるなんて、もう信じられないくらいワクワクするんだよ!ヴァンスにもぜひ、実際にその顕微鏡を使ってみてほしい。君なら、きっと面白さが分かってくれると思うんだ」
興奮し切った様子で弟に詰め寄る銀髪の兄に、エヴァンスは身内ながらやや引き気味に顔をひきつらせた。
「兄さん、相変わらず、お元気そうで」
「君が本邸に顔を見せないから、母上も父上もレイラもとても心配しているよ」
ぎゅっと弟の手を握り締める美麗な兄の愁いを帯びた瞳から視線を逸らしつつ、エヴァンスは助けを求めるようにすでに退避済のバルトレイに救難信号を送る、が、目が合うなり彼は顔を強張らせて背中を向けた。
触らぬ神に何とやらといった様相で。
「アストラヴェル、ッ大尉。中佐が困っておいでですヨ。手をお放しいただけますよね?」
復活したメイノワールが悪魔のような形相でリチャードを睨みつけるが、当の兄はどこ吹く風である。唇を尖らせ、乙女のようにとぼけた。
「おとうとは~、もう軍人じゃありません~。退役してぇ~、もうすでに中佐じゃありません~」
挑発するように語尾を伸ばすリチャードの長い髪の束を、メイノワールは無言で引っ張った。
ぎゃ、と貴族の子息には相応しくない悲鳴を上げて、リチャードはメイノワールにつかみかかった。
三十越えの男と二十代後半の男の取っ組み合いなんて見ていられないと、どう声をかけるべきか悩んだ時だった。
「何をしている?」
冴え冴えとした声が空間を一瞬で静まり返させた。
エヴァンスが目線を上げると、扉の横に無表情で腕を組む赤い瞳の男が立っている。鋭く冷たい視線が、氷のように彼らを一瞥した瞬間、会議室の空気がさらに引き締まった。
(うわ…。珍しく、かなり怒ってるようだな)
ごく親しい人間でなければ、その氷の表情の下に隠された、静かに広がる焔のような怒りを感知するのは難しいだろう。メイノワールとリチャードのやり取りはほぼ日常茶飯事で、龍と虎というか、犬とサルというか、水と油というか、とにかく顔を突き合せれば喧嘩ばかり始める二人の姿は軍の中では知られた姿であった。
今更アルバートがその姿を見咎めて、怒りの原因にするとは考えにくい。
そのことから、彼の怒りの源が別のところにあるのは想像に難くなかった。
アルバートは、リチャードとメイノワールの間を通り過ぎ、一番手近な椅子を引いて腰を掛けると、バルトレイが差し出した資料を受け取った。
「―――始める」
冷徹に下された一言に、空気がピリつく。
誰もが表情を切り替え、手近な椅子に腰を下ろした。




