56.ねじ曲がった欲望1 (ヴァネッサ視点)
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ヴァネッサが馬車を降りると、冷たい風が彼女の頬をかすめた。
肌に触れる冷気に思わず顔をしかめるが、それはほんの一瞬で、すぐに苛立ちにその感覚を飲み込まれてしまう。
視界に入るのは重厚な石造りの建物。
細かい装飾も美しく整えられた庭園もなく、ただ直線的で無機質なその建物は、彼女の目には冷徹で居心地が悪いものとして映った。
自分に相応しい煌びやかなで優雅な館とはまるで異なる。
まるで機械的に組み立てられたような、飾り気のない空間がそこに広がっている。
周囲を取り囲む車両も軍用車ばかりで、兵士たちは無駄な感情を排除したかのように、ひたすらに黙々と行動している。その一挙手一投足がどこか冷徹で、感情を欠いたように見え、ヴァネッサはその冷たさにますます不快感を覚えた。
「こんなところに来なければならないなんて…」
心の中で呟き、通り過ぎていく不機嫌な表情の兵士たちを見下ろすように睨みつける。彼らの視線がさらに苛立ちを募らせた。
(男爵令嬢であるこの私が、こんな野蛮な場所に足を向けねばならないなんて…!)
侍女が慌ただしく彼女の後ろを追ってくる足音がするが、ヴァネッサはその存在をすぐに無視した。
(こんなことなら、もう少し念入りに言い付けておけばよかったわ!)
当初、ファロンヴェイル子爵令嬢の宿には連れて行けないと何度も自分の要求を突っぱねたリーザスのことを思い出す。
(平民上がりの軍人如きが、この私に口答えするなんて)
労働階級の薄汚い下民が、貴族の自分の役に立てるなんて願ったり叶ったりもいいところだろうに、よりにもよってあの男は自分の要望を退けたばかりか、自分をまるで小間使いのように使ったのだ。
あんな屈辱を味わう羽目になるなんて。
「まったく、あんな男に…」
ヴァネッサは低く呟きながら、舌を鳴らす。
母が推測した内容と、父が軍の役人から手に入れた情報を持って、ヴァネッサは侍女に命じて秘密裏にリーザスと会う約束を取り付けた。
数日かかると思っていたが、予想に反して、その日の昼前に指定された路地裏で馬車で待っていると、リーザスが部下を伴って現れた。彼は緑色の目を持つ部下を見張りとして馬車の外に立たせ、無遠慮に馬車に乗り込んできた。
ヴァネッサはやや驚いたものの、自分の両親から得た情報をもう一度丁寧に話して聞かせた。アルヴィスの領地であるファロンヴェイルが毒草園を経営していることや、その毒の知識をマナースクール時代これ見よがしにひけらかし、一部の貴族の歓心を買おうとしていたことなど。
リーザスは内容に強い関心を示しながら、何度も謝礼の言葉とヴァネッサがいかに素晴らしく聡明で特別な存在なのかを褒めたたえた。ただの粗野な軍人だと思っていたが、意外にも「おべっか」は上手に使えるらしい。
特に彼が食いついたのは「ナイトシェード」という言葉だったが、そんなことよりも、いかにあの女が厄介で危険なのかを話して聞かせた。
そうすると、リーザスは少し考えこんだ後、ある取引を持ち掛けてきた。
ヴァネッサの父が握っている彼の借用に関する内容が記された手帳のことだ。
一瞬躊躇したものの、ヴァネッサは決断した。
本当の犯人を見つける方が世の中の為だし、巡り巡って父の仕事にも貢献することになる。父の仕事があってこそ、ヴァネッサと母は贅沢に暮らすことができるのだし、ヴァネッサが本当の犯人を捕まえる手助けをしたのだとわかれば、父が何かの褒賞を得て、さらに暮らしは豊かになるかもしれない。
爵位が低いくせにと陰口を叩いていた、伯爵令嬢たちのことを見返せる足掛かりになるのだと思えば、自分の為にもなるだろう。
何よりも「あの憎々しく、心から嫌悪してやまないアルヴィス」を永遠に社交界から排除できるのだと思うと胸が高鳴った。
幸運なことに屋敷に帰ると父は不在だった。
ヴァネッサは渋る使用人を説き伏せて手帳を探させた。使用人が持ってきた手帳は五冊に及び、ぱらぱらとめくると確かに借金の借用に関するもののようだった。
再びリーザスに面会の予約を取り付けると、その日の夕方、また同じ場所で落ち合った。
彼は「約束通り」と告げ、アルヴィスを捕縛するための準備が整ったことを伝えた。そして証拠だといわんばかりに、一枚の薄い書状を差し出した。その内容は難解で、ヴァネッサはよく理解できなかったが、どうやら「アルヴィスを容疑者として連行する」という旨が記されているようだった。
よほど切羽詰まっているのか、リーザスはどうしてもあの手帳を手に入れたいらしい。
事前にこうなることを見越して準備されていたと言っても過言ではない迅速な対応に、さしものヴァネッサも一瞬の違和感を覚えた。しかし、それよりも重要なことの前に、いつしか疑問は吹き飛んでいた。
―――ただ言いなりになって、手帳を渡してしまうのもつまらないわね。
自分の目的は達成されたのだと思ったが、どうせなら彼女が絶望する姿を見たい。
あの性格だから泣きわめいて許しを懇願する様は見られないだろうが、あの澄まし切った顔が歪むのだと思うと長く溜め込んできた溜飲が下がる気がした。
遠くから、―――いや。
あの女の姿がはっきりと見える位置で、この目で直接見たい。
その欲望は当然叶えられるのだと思い、リーザスに一冊だけまず手帳を渡し、その瞬間を見せてくれるのなら残りの四冊を渡すと伝えた。
それはできない、と彼は今まで以上に強い口調で渋っていたが、見張り役として一緒に行動していた部下に何かを耳打ちされると、渋々四冊の手帳と交換に「馬車に待機していること」を条件に、宿屋までの同行は許可されたというわけだった。
大人しく従うふりをして、頃合いを見計らって足を運べばいい。
居場所さえわかれば、後は何とでもなる。
それなのに―――。
(あんなに、苦労したのに、なんてこと)
新作のドレスの裾が汚れないように注意を払いつつ正面玄関のアプローチを足早に通りながら、ヴァネッサは歯噛みした。




