55.ウェルトバリカの花の色は
貴族の中でも一目置かれる財力と影響力を持つラスフォード家のタウンハウスで起きた事件。
誰が狙われたのかは不明だが、あの会場にいた多くの人々が巻き込まれることになった。
ただし、夜会の主催者であるラスフォード夫妻と娘は無事だった。
婚約者のヴィクターは現在軍病院で治療中とエヴァンスが夕食の席で教えてくれた。幸いにして軽傷だったようだが、のどや鼻、目などに痛みと炎症があるため、一週間ほど入院し経過を観察するのだという。
(…爆発。煙。目、口腔や喉。粘膜系や呼吸器系の痛みを訴えていた人々。火傷とは異なる、赤くかぶれたような肌の状態)
素手で触ってはいけない毒草を手で触った時や折れた葉や茎から染み出た乳液が肌に触れた時、あるいは毒性のある樹木の樹液や毒虫に刺された時の状態を思い出す。
(夜会での皮膚の症状は、痒みというより痛みの方が強くて、赤く盛り上がっているようになっていたわ。患部を洗浄し、冷却して少し症状が落ち着く人たちもいた。……発疹というより、何かに触れた、あるいは浴びた箇所に強い炎症反応が現れていた)
例えば、海を挟んで西にある島国の工芸品の加工に利用されている《《とある》》植物に素手で触れると、強いかゆみや発疹、皮膚炎を起こすことがある。
別の植物では、植物に触った手で目をこすったり鼻をこすってしまうと、中毒を起こして軽度の痺れや嘔吐、下痢などの症状に見舞われることもある。
(煙に含まれていた強い毒性を持った成分に直接触れた、あるいは、煙の発生源の近くにいた人の症状がより重かったと仮定した場合。風向きや発生時の位置によって重軽傷者が決定する、と考えられるかもしれない。それに、強い刺激臭がしていた、と言っていた人もいたし、私も火薬の香りに混ざって何か妙な香りがしたと思っていた)
爆発物の中に毒物が紛れていたか、爆発することによって副産物として毒性のある物質が発生したか、どちらかの可能性が高いような気がした。
あくまでも推測ではあるが、庭園での当時の状況を思い出すと、それはあながち的外れではないような気がしてきた。
会場は招待客の人数に対してやや狭く感じられたが、一般的な夜会と比べると小規模で、落ち着いた雰囲気があった。
この時期としては肌寒い夜のはずだったが、会場はすべての扉と窓が開放され、まるで夏の夜会のような開放感が漂っていた。寒さを感じさせないその空間に、一体どういう仕掛けなのかと不思議に思っていた。
秘密の鍵は、セリウスと挨拶回りをしていた際に出会ったレヴィーナ子爵が握っていた。
紡績工場の経営者でもある彼はラスフォード邸の設計に携わった一人で、会場には他国で開発された高度な空調設備が施されていると教えてくれた。床下に湯管を這わせた熱暖房器具を仕込んでおり、そのおかげで冬場でも春のような快適さが保たれているのだという。夏には、モーターで汲み上げた地下水を、屋敷中に張り巡らせた同様の仕掛けの管に通し、王都の酷暑を和らげているのだという。
この仕掛けは新しいもの好きのラスフォード男爵が大層気に入っていたとも。
実際、会場内は大勢の人々の体温も加わって程よく温かく、寒さを感じさせないどころか少し暑さを覚えるほどだった。一方で、回廊は適温が保たれており、ほてった体を落ち着かせるには最適な空間となっていた。さらに、庭園に出れば涼しい夜風が心地よく、短時間であれば快適に過ごせるほどだった。
もっとも、長く外に留まり続ければ体が冷えてしまうだろうが。
(窓が開け放たれていたから爆発が起きても煙が滞留しなかった。現場の状況を見ていないから断定はできないけれど、煙が逃げたから、重症者が多くなかったのだと仮定すると……。扉や窓が閉め切られていたら、今頃どんなことになっていたか)
考えたくもない、と身震いするとリタが心配そうに鏡越しに視線を交わらせる。
「私には難しいことはわかりませんし、貴族の方々が何を考えておいでなのかはよくわかりません。けれど、何故警察ではなく軍が、お嬢様を無理やり連れて行ったのか、どうしても不思議でならないのです」
それにヴァネッサのことも彼女の中では強く心に残っているようだった。
ヴァネッサの話はどこをどう考えても荒唐無稽だ。
彼女の理屈はおそらくとても単純明快で、「ただアルヴィスが陥れられ困っているところを見たかった」だけなのだろう。
けれど、彼女の背後にいる誰かは違う。
ただ怪しいというだけで犯人に仕立て上げるのなら「アルヴィス」でなくてもよかった。
侯爵家を敵に回すことを厭わないのであれば、医薬品の知識が豊富な元軍人の「エヴァンス」でもよかったし、同じく軍人だったセリウスでもよかったはずだ。
現役の軍人であるヴィクターでもよかっただろうし、屋敷の設計を手伝ったレヴィーナ子爵なら「爆弾を仕掛けやすい位置」を知っているだろうから設備の点検などの名目で爆弾を秘密裏に運び込んで設置することも可能だろう。
あるいはほぼ被害がなかった主催者の「ラスフォード男爵一家」の誰かでもよかったかもしれない。
犯人が望みさえすれば、それなりの「理由を付けて」あの会場にいた誰もをが犯人仕立上げることが可能だ。
それなのに「誰か」が「わざわざ」「アルヴィス」を犯人に仕立て上げようとした。
その犯人の筋書きなのかはわからないが、アルヴィスは幸か不幸か「釈放」されている。
最初から「釈放」を筋書きに入れていたような気持ち悪さを感じ、怒りを抑え込むように長く息を吐きだす。
(なんて悪辣な)
姿の見えない何者かに、いいように掌の上で転がされているようなところも、なお腹立たしい。
「それにあのリーザスという軍人。とても粗野で卑怯な方です」
証拠もないのにお嬢様を連れて行ったのですから、とぶつぶつ文句を零すリタに、アルヴィスは困ったような笑顔を浮かべる。
(強硬的で横柄な手段を取って強引に捜査をすすめる「軍人」としての個性が目立ちすぎるのよね)
「警察だったらもう少し違った対応をしていたかもしれません」
(それはどうかしらね。誰の息がかかっているか、どのような目的があるのかで、どの人物がどのような方法を取るのかはその時々によって変わるもの)
軍管轄の事件になっていたから、軍人が連行した、と答えるべきなのかもしれないが、通常の捕縛権と捜査権を持つ警察の存在をまるきり無視した強引なやり方は、彼女にとって不審以外のなにものでもなかったのだろう。
一生忘れてやるものですか、と奥歯をぎりぎり噛んでいるリタの横顔を見つめながらアルヴィスは思考を整理しながら天井を見上げる。
(事件の規模や起きた場所のことを考えれば、警察の手には余ると考えたのかもしれないけれど……、まず普通は警察が捜査を主導するのが一般的よね。でも確かに。リタの言う通り、いきなり軍の管轄になるなんて変な話だわ)
そう。
まるですぐ傍にいて、何が起きるのかをあらかじめ予測していたような。
奇妙な違和感に気づいて瞼を閉じる。
事件が起きてから本当にほどなくしてすぐ、彼らの姿を見た。
邸から流れ落ちる水、負傷者を運び込んで出立する軍用車、的確に指示を飛ばす軍人。目の前を幾度も通り過ぎる軍服の人々。
ヴィクターやイヴリンが軍人だったことから、招かれた人々の中に軍関係の人は多かった印象だ。ただ、会場にいた人々は「被害者」でもある。現場は混乱していて、多くの負傷者がいた。彼ら自身も負傷していた可能性がある。
すぐに動ける軍人が相当数あの場にいた、ということは考えられないだろうか。
何かが繋がったような気がして、アルヴィスは赤い目の男をぼんやりと思い出していた。
止血用の応急処置として有効だとウェルトバリカという薬草を教えてくれた―――。
(アルバート)
―――親切な軍人さん。
あの強い眼差しが自分に注がれている様子を想像して、心臓がどくりと大きく音を立てて跳ねる。
端正な顔立ちなのにどこかいつも不機嫌そうで、近寄りがたくて、でも間近で眺めたくなるほど心を惹きつける紅玉のように美しい瞳。
そういえばウェルトバリカは春に赤い花が咲くのだと、エヴァンスが言わなかったか。
「―――ま、アルヴィス様」
「へぁっ!?」
体を強く揺さぶられて、アルヴィスはらしくなく妙に裏返った声を上げた。
「お嬢様。大丈夫ですか?どこかご気分でも」
「え、なに?」
「呼びかけにもお答えにならないので、もしや具合が悪いのでしょうか?先生をお呼びしましょうか?」
先生、というのがエヴァンスを示すのだと気づいて数拍―――。
アルヴィスは顔を真っ赤にして横に振った。
先刻のルネカの樹液のことを思い出したからだ。
「大丈夫!問題ないわ、リタ!ほら見て、こんなに元気なのよ!」
健康そうな状態をどうにかしてアピールしようとして、腰に手を当てて柄にもなく胸を張ってみたのだが、それがかえって「いつものお嬢様らしくない」と余計に心配を煽ってしまう結果になってしまった。




