50.シロップ
バン、と勢いよく扉が開けられた。
「アルヴィス様!!」
突如部屋に飛び込んできたのはリタだった。
焦げ茶色の髪が乱れるのもそのままに駆け寄ってくる。
直後、セリウスの方から何やら「チッ」と舌打ちのような音が聞こえてきたが、きっと何かの気のせいだろう。セリウスは少しだけ拗ねたように唇を尖らせていた。
「お嬢様!!」
駆け寄るリタの向こうで、侯爵邸の執事はとても嬉しそうに丸眼鏡の奥の瞳を細め、相好を崩し恭しく礼を取る。軽く会釈をしてそれに応じると、アルヴィスはセリウスの体を押しのけるようにして寝台の横に陣取ったリタの肩にそっと触れる。
貴族の青年はあんぐりと口を開けて固まっていたのだが、アルヴィスはその表情に気づかなかった。
「ご無事で、本当に――」
家族同然の大切な存在である侍女は目に涙を浮かべながら自分の手をぎゅっと握り込む。
お礼を言おうと口を開いたアルヴィスだったが、その手が次第に痛みを伴うほどに力強くなっていくのを感じる。
「リ、リタ? 痛いのだけれど…」
恐る恐る訴えると、リタは底冷えするような微笑を浮かべていた。
「淑女は、勝手に、行動しません!!」
雷が落ちた。
その声は部屋中に響き渡り、扉の外を歩いていた使用人たちが思わず立ち止まったほどだった。
普段なら、このような使用人の振る舞いにアリエンスが即座に咳払いで窘めるはずだが、今回は眉を上げて観察を続けている。
彼女はファロンヴェイルの使用人だし、自分がもし同じような立場だったとしたらもっと主に灸をすえるだろう、とキラリと決意も新たに眼鏡を光らせる。
「やれやれ、また賑やかだな」
「エヴァンス」
「あなたまで来たんですか……」
この邸の主の登場を喜ぶべきだろうに、セリウスは不満げな視線を送りながらもごもごと小声で呟く。
「あ?何か言ったか、セリウス?」
エヴァンスの鋭い声に、セリウスは身を縮めてぶんぶんと首を振った。
「別に……なんでも、ない、です。」
そう答えながらセリウスは視線を彷徨わせ、壁の一点を凝視するふりをしていた。
「こいつはいったいどうしたんだ?」
こいつ、と指さしながらゆったりと歩み寄ってくるエヴァンスに、アルヴィスはよくわからないと首を傾げるしかない。
どうも彼の様子が妙なのだ。
顔は赤いし、声は上ずっているし、体温も心なしか高い気がするし。
どこか体調でも悪いのだろうか、と尋ねるとリタが満面の笑みを浮かべて「お嬢様はご自分のことだけでよいのですよ」と微笑んでいた。
エヴァンスは軽い溜息を吐いた後、セリウスをまるきり無視してアルヴィスの手首に手を伸ばして脈をとる。その後、目の下の柔らかい皮膚を指先で軽く引っ張って確認し、口を開けて声を出すように指示した。
部屋の壁を背にして控えていたはずのアリエンスがいつの間にかトレーを持ってエヴァンスの斜め後ろに移動していた。差し出されたトレーの上に手を伸ばし、エヴァンスはアルヴィスに向き直る。
診療所でしている時と同じように、舌圧子と呼ばれる金属の平たい棒をアルヴィスの舌の上を軽く押さえつけるようにして、注意深く喉の奥を観察する。
使い終わると水が張られたガラスコップの中に入れて、一つ頷く。
「今のところ特に気になる腫れや赤みはないようだし、脈も正常。貧血気味でもなさそうだ。倒れたというより気絶するような早さで眠った、というところだな。睡眠不足と過労が原因だろう」
執事がスッと差し出した布を受け取って手をぬぐい、トレーの上に乗せて下げるように申し渡す。アリエンスが扉の外に出ていき、控えていた使用人に渡すと、キビキビとした動きで戻ってきた。
一連の流れるような動作を見ていたリタが、目を丸くしている。
エヴァンスが「仕事」をしている姿は確かに彼女にとっては初めてだろう。
「念のため栄養剤と、熱が出た時用に解熱鎮痛薬を処方しておく。飲み方はわかるな?」
どのみちお前のところの薬だからな、と笑ってエヴァンスがメモに何か書きつけていく。その様子を首を伸ばしながら、感心するように見守っていたリタが、何かに気づいたようにポンと手を打ってエヴァンスを見た。
「――先生。お嬢様はお薬が苦手なので、シロップを処方していただけますか?」
「リタ!」
「は?シロップ??」
リタは至極真剣なまなざしで頷いた。
その言葉にエヴァンスは目をぱちくりとさせて侍女を見、一瞬固まった後、羞恥で顔を真っ赤にさせているアルヴィスに視線を移動させて、―――爆笑した。




