45.暗がりの中で
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部屋は質素で機能的な造りだった。
壁は無機質な灰色で覆われ、装飾らしいものは一切見当たらない。まるで、ここに人が滞在することを想定していないような冷たい雰囲気が漂っている。
古びた木材が敷き詰められた床はところどころに目立つ傷があり、薄い埃の層が四隅に固まっているのがわかる。長らく放置されていたわけではないが、見える所だけ急ごしらえで掃除したような印象だ。湿り気を帯びた誇りの香りが部屋の中を漂っている。
部屋の唯一の出入り口である扉は固く閉ざされ、外から微かに話し声が聞こえる。どうやら扉番が交代する時間らしい。
アルヴィスは部屋をぐるりと見渡した後、淡く灯った天井の簡素な電灯に視線を向け、次に窓へ目をやる。
大きくはあるが、鉄のフレームが格子状に張られ、外への脱出を防ぐような作りになっている。カーテンはなく、窓は手前に折りたたむようにしてしか開けられない拵えだ。
時刻はすでに夜に差し掛かり、通常であれば夕食を終え湯あみを済ませ、寝台に潜り込んでいる頃合いだ。
この部屋には暖炉も、湯管が通るオイルヒーターや石炭ストーブといった暖房器具も一切見当たらない。
底冷えするほどではないが、軽く腕をさする程度には肌寒い。
「着るものを持ってくるべきだったかしら」
咄嗟に本を持って行ってもいいか、と尋ねたものの、この寒さがますます濃くなれば夜半のあたりは随分冷え込みそうだ。風邪をひかなければいいなぁとのんびり思っていると、鼻がむずがゆくなってくしゃみを一つする。
長丁場は覚悟していたが、暖房器具ぐらい差し入れて欲しいものである。
暇つぶしが本一冊であることを考慮して、それくらいの便宜をはかっても良いのではないかとは思ったものの、「彼ら」もそこまで頭が回っていないのだろうと嘆息する。
「リタは気づいてくれたかしら…」
吐息を零せば、その息の温かみがふわりと顔を撫でた。
あの場ではあれが限界だった。
リタまで一緒に付いて来られてはまるきり動けなくなってしまう。
だから、ちょっとしたお使いを言づけたのだが、彼女は自分のことになると周りが見えなくなってしまうことがあるから、直接ここへ乗り込まないかと気が気ではないというのも事実である。
多勢に無勢の状況で、証拠がないとは主張しつつも、その「証拠」や「真実」さえも捻じ曲げてしまえるのが「権力」だ。単身で挑んだところで自分が助かる道はない、そう思った。
リタにはステファンがいる。
一人で解決しようとせず、必ず彼の力を借りるはずだし、ステファンは非常に有能だ。
きっと少ない情報から手掛かりを見つけて、彼に繋げてくれるはず――。
アルヴィスは膝の上の本の表紙を指で辿った。
彼女が宿屋から持ってきた唯一の持ち物である「植物図鑑」である。
表紙の革張りは擦り切れて色褪せ、角は丸くなっている。
アルヴィスは本を持ち上げると顔を寄せて小さく息を吸い込んだ。
古びた書物の中に、青臭い植物の汁が染み出たような爽やかな香りが微かに感じられる。
図鑑の中には、精緻に描かれた植物のスケッチと共に手書きの文字が並んでいる。
この図鑑は代々のファロンヴェイルの当主に伝わる手書きの薬草図鑑の中の一冊で、領地にあるあらゆる植物の植生が事細かに記述されている。
世界に一つしかないファロンヴェイルの家宝とも言うべき書物で、この本は父が書いていたものだ。ただし、植物画以外、である。
「ファロンヴェイルの植物図鑑…」
文字には書き手の癖が現れていてどこか温かみを感じさせた。
この図鑑はアルヴィスにとって、ただの植物の記録ではなく、家族の記憶そのものだった。
父はアルヴィスと同様、絵がとても下手で思い通りに植物画を描くことができなかったという。それを補ったのが母だ。美しく丁寧に、まるで写真で写し取ったかのように細部まで細やかに描かれている繊細な植物画。
それが母の唯一のぬくもりだ。
(それにしても、妙なことばかり)
アルヴィスはふと、リーザスとのやり取りを思い出していた。




