35.ヴァネッサの世界
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ヴァネッサ・マーガレット・モリス・チェスター・フェリュイーヌがアルヴィスという名前の子爵令嬢に出会ったのは、王都のマナースクールだった。
年頃の貴族の令嬢が地方から集められ、十五歳から十七歳までの三年間、立ち振る舞いや教養、社交における階級ごとの決め事、同列の貴族令嬢との付き合い方などを学ぶ場所でのことだった。
フェリュイーヌ男爵家は名門の家柄ではないが、ほどほどに財力もあり社交界での顔も広かった。
父は軍務関係の出納を預かる役人としての仕事を王都でしていた。「金庫番」と呼ばれ、周囲からは厚く信頼されている存在だと誇らしげに話すことがよくあった。伯爵階級以上の高位貴族や軍の偉い人の招待を受けて会食に行ったり、自宅に招いてもてなすこともたびたびあった。
ヴァネッサはそんな父の自慢の一人娘で、目に入れても痛くないほど可愛がられていた。欲しいものは何でも口に出すだけで手に入れられ、ちょっと欲しいと駄々をこねればすぐに用意され、大切に慈しまれて育った。
同じ階級の男爵令嬢でさえ、自分と同じように愛されてはいないようだった。我慢を知らないとか、我儘で不遜だとか、自分と家を羨んで陰口を叩く者たちもいたが、彼女たちは自分とは違い恵まれていないだけ。
羨望の間の嫉妬を感じるといつでも心が満たされてい行くのを感じた。
母はヴァネッサにとって憧れの存在であり、常に見本となるべき女性だった。
父から贈られる高価な宝石を身にまとい、夜会や社交の場に次々と出席するその姿は、まるで崇拝すべき女神のようだった。
母の華やかさは、ヴァネッサが目指すべき理想そのものであり、父とともに母はヴァネッサを愛し、望むものは何でも与えてくれた。ヴァネッサがほんの少しでも嫌がることは一切させず、すべては彼女の願い通りに満たされていた。
幼い頃から両親に「女は愛される花であれ」と言い聞かされ、女は着飾り、笑い、男に愛されることが全てだと教えられてきた。
生まれてきたことを楽しみ、好きなものを食べて美しい宝飾品や最新のドレスで自らを飾り、十六歳から参加を許される社交界で、花の艶やかさを餌に、よい家柄の青年と結婚することこそが女の生きる道だと学んだ。
王都生まれのヴァネッサにとって、そんな環境は自分が最も輝ける舞台のはずだった。
―――そんな中、現れたのがアルヴィスである。
ヴァネッサから見れば、アルヴィスは「地味」そのもの。
自分に比べれば財力も持ち物も、容姿も何もかもが劣っているはずの彼女が何故か、一部の教師の間において贔屓され、あろうことか隣国の第四公女の友人という座にちゃっかり収まっていた。本来なら社交での影響力も美貌も優雅な会話術もある自分こそが、その座にふさわしいはずだった。けれど、公女が隣に立つのはどう見ても「平凡」な彼女。それを目にするたび、ヴァネッサの胸には常に怒りが押し寄せていた。
さらに追い打ちをかけたのは、翌年卒業する最高学年の為の卒業の祝賀夜会での出来事だった。
マナースクールでは毎年、卒業生の為に王都中の同じ年頃の貴族の子女を集めて一日限りの盛大な夜会を開く。普段は女性ばかりのマナースクールにおいてその日は特別で、はじめて公式に大人の仲間入りを許される日でもあり、婚約者が定まっていない令嬢たちにとっては「未来の旦那様」を選ぶための大切なイベントでもあった。
一年次の入学の際は礼儀作法の習得などの理由から参加が許されないが、二年次ともなれば、親の承諾さえあれば参加を許可される。良い縁談を早くにまとめたいと思っている親ならば猶の事。進んで参加を促すこともあり、ヴァネッサはもちろん出席を決めた。
ただし夜会に参加するにはパートナーが必要で、手ごろな親族から選んでも良いが年が釣り合わなかったり、兄弟や父兄との組み合わせは許されなかった。
多くは親の伝手を辿り、夜会へ行くためのパートナーを探すのが普通で、参加が決まればすぐに男性から女性へとパートナーの承諾を求める手紙を送る習わしだ。
もちろんヴァネッサにも山のように手紙が届いたが、その中に狙いを定めていた若い伯爵の名前はなかった。
早々に別の婚約者が見つかったのか、何か理由があってヴァネッサに手紙を寄越せなかったのかはわからないが、人づてに彼がアルヴィスに申し込みをした、という噂が夜会のほぼ直前に届いた。
そんな馬鹿な。あんな取るに足らない女を彼が選んだの。
まさか、信じられないという思いと、何かの悪い冗談だという思いが交錯し、夜会の当日を迎えた。
彼がアルヴィスを伴って会場に訪れたことも驚いたが、自分が舞台の中心にいてしかるべきの社交界で、自分ではない誰かに注目が集まる――それは、耐え難い苦痛であり侮辱だった。




