魔法陣のほとりで
「じいじ、それは何の絵?」
「これはな、魔法陣という絵じゃ。助けて欲しい時に、これを開いて願えば助けてくれる。欲しいか?」
ある雪の積もる冬の日に、森に囲まれた小さな村の広場で、お祖父さんがくれた魔法陣の絵に男の子は喜んで駆け回り見せて回った。それを見て聞いた友達は、僕も私も欲しいとじいじに描いて貰ったようで。その次の日にまた広場に集まった子供達は、片隅で屈んで何やら隠し事を話していた。
「なあ、この魔法陣があれば、森の廃屋へ行けるんじゃないか?」
この森に囲まれた村の外には、山へ通じる道と深い森へ通じる道があり、深い森の更に奥へ進むと悪魔が居ると伝えられている廃屋があった。勿論子供は近づく事を禁じられていて、大人も滅多に近づくことは無い。
「大丈夫、おれ1回隠れて着いて行った事あるから、場所は覚えてるよ。シン、行くだろ?」
「えー、恐いよ。だって悪魔が居るんだよ?」
「お前見たことあんのかよ」
「無い、けど」
「じゃあ恐いも何も無いじゃん。見に行くだけ行ってみようぜ」
「ダメよ!お父さんも行っちゃダメって言ってたし。シンも行かないよね?」
「何だよお前ら、大丈夫だって!シンのじいちゃんがくれた魔法陣もあるだろ」
「じゃあ、廃屋が見える所まで行こう。僕も見たことないから見てみたいし」
「シンまでそんな事言って、怒られるよ」
「メグ達は来なくていいじゃないか。俺達だけで行ってくるから」
「私達も行くわよ!あなた達だけ行かせたら、廃屋の中まで入るじゃない。廃屋が見える所までね」
「じゃあ暗いうちに行くのは流石に危ないから、朝から行こう」
「何でだよ、夜行こうぜ」
「流石に危ないよ、廃屋に着く前に獣に襲われるって。それに夜抜け出すのは難しいし」
「仕方ないな、じゃあ明日の朝にここに集合な!」
まだ朝が訪れて間もない時間に、広場の片隅に集まったのは手ぶらに近いシンと大きな鞄を背負うレイ、そして少し小綺麗なメグの三人だけだった。そして二人を見たレイは、溜め息をついて話し始めた。
「何で三人だけなんだよ。まあユウは寝坊だろうけど」
「寝坊だね」
「リンは、昨日の帰りに止めとくって言っていたわ。それが普通よ」
「はあ、まあ良いや。とりあえず行こうぜと言いたいとこだけど、お前何で何も持ってないんだよ」
「持ってるよ、ほら水筒とおにぎりと、あと魔法陣。レイはそんな大きな鞄持ってどうしたの」
「どうしたのじゃねーよ、探検に行くんだぞ、ほら」
「おやつばっかじゃん」
「うるせえよ!絶対やらねーからな」
「メグはその格好で良いの?その上着気に入ってなかったっけ、汚れるよ多分」
「良いの、少しくらい好きな格好しないと楽しくなさそうだし」
「はあ、まあいいや。誰かに見つかる前に行こうぜ」
人の目を気にしながら、こそこそと三人は森へ向かった。村から出て少し歩くと、廃屋へ続く道へ入って行った。それ迄通って来た道とは違って人の往来が無い為か、多く積もっている雪は真白でより雪のままだった。雪の反射する木漏れ陽をくぐり抜けて進んで行くかと思いきや、膝上まで埋まる雪に三人は楽しくなり雪遊びを始めた。雪を投げ合い転げて駆け回り、大小様々に形作り壊して疲れ果て、服や身体は雪塗れになっていた。こうして出発早々に脚を止める事になり、喧嘩しながらもようやく火を焚く事が出来ると、落ち着いて休憩を取り始めた。昼食は朝食になり服が乾いて出発する頃には、既に少し身軽になった三人はレイのおやつをつまみながら先へ進み始めた。
廃屋へ向かって進むに連れて森の深みは増していき、木立の間隔が少しづつ狭くなりつつ、木漏れ陽は無くなっていった。朝よりも陽は登っている筈なのに三人の辺りは薄暗く、時折鳥のけたたましい声が聞こえたり、枝の葉に積もる雪が落ちる音がするものの、深く積もる雪に様々な音が染み入り、静けさに雪を踏みしめる音が大きく聞こえていた。雪の間に見える深い緑と幹の色々を横見に進んで行くと、いくつもの楔と紐で線を張られている場所へ出た。水の流れる音が聞こえる薄暗い中の奥へ目をやると、湖のような小さな池にいくつかの橋が掛けられていて、その先に蔓や葉の被さる古ぼけた建物が見えた。
「ここだ、やっと着いた」
「あれが悪魔の居る家、確かに居そうだね」
「ちょっと静かにしてよ!本当に居たらどうするのよ」
「メグの声が一番うるさいよ」
それぞれに線の外から辺りを見て回るも、霧のたち込む薄暗さに不穏を感じるものの、慣れてくると静けさに水の音が聞こえてくる事に気持ちは落ち着いていった。
「なあ、もう少し近付いて見ようぜ」
「何言ってるのダメよ!」
「レイ、僕も止めた方が良いと思う。住処の棲み分けは大事だから、それぞれに守らなければってじいじも言ってたよ」
「大丈夫だって、ほらっ。何ともないだろ?」
二人の制止を身軽に境界線事飛び越えて、レイはその場で飛び跳ねておどけていた。二人は不安に辺りを見渡したものの、不気味に静かなまま本当に何事も起こらないでいた。奥へ進もうとするレイを追ってシンも境界線を越えたが、メグはその場に留まることしか出来ないでいた。
「ちょっと待ってよ!一人にしないでよう」
「レイ待って」
「メグそこで待ってろって、ちょっと近付くだけだから!」
レイが橋を渡り終えようかとしていた時に、それを追うシンの視界にも廃屋が迫っていた。霧越しに見えた時よりも鮮明に、遠くから見ているよりも大きさを感じていると、窓を見た途端に彼はレイを呼び止めた。
「レイ戻って!何かが居るよ窓のとこ!」
シンの叫び声に驚いてレンがいくつかの窓を見ると、その一つから大きな目玉が彼等を覗き込んでいた。それに気がついたレイは、慌てて引き返して走り始めた。離れた所での騒ぎにメグが動揺して居ると、二人の頭上にある霧の向こうに、何か大きな影が現れていた。振り返ったレイに見えたのは、開かれた窓から飛び出して自分を追おうとする大きな腕の影と、その奥から覗く大きな目玉だった。シンが待っている場所まで間に合わないと考えて、レイは魔法陣が描かれた布を悪魔へ向けて掲げた。大きな目玉はそれをひととき見たが、大きな腕でレンを殴り飛ばした。大きな鞄とお菓子のお陰で痛みは少なかったものの、シンを飛び越えて吹き飛んでいた。
「レイ早く逃げて!」
「馬鹿お前も早く逃げろ!」
「逃げ切れないよ!助けを呼んできて!」
「レイ走れるの!?私が呼んでくるよ」
「魔法陣が効かないから急いでくれ!」
彼女の手を借りてようやく境界線を出たレイに、自分の魔法陣も渡してメグは村へ急いで向かった。そんな二人の様子に、シンは彼等とは別の方へ逃げ始めていた。唸り声と共に大きな腕がシンを追いかけ、逃げる彼は橋から橋へ駆けて飛び越え潜り抜け。ほとりの水は痛い程に冷たいものの、幸いにも澄んで見えていた。膝程の深さに足を取られ、腰上の深さに潜って隠れてする彼を見て立ち上がろうとしたレイは、殴り飛ばされた衝撃で身体中が傷だらけで血まみれになっていた。それを見て気が付いた途端に痛みが思い出されて、立ち上がろうとする足が怯んでいた。それでも一人で逃げ回っているシンを見て、レイはよろめきながら立ち上がり悪魔に向けて魔法陣を見せて叫んだ。しかし悪魔の目は捉えはするものの、別段気にすることも無くまたシンを追い始めた。
その頃メグは、精一杯に来た道を戻って走っていた。自分達が踏み鳴らした雪道をまた慣らしながら進み、来た時よりも随分と早く村へ近付いていることを感じながら、転げてお気に入りの上着が雪に塗れても、ただ村を目指して走っていた。そして寄り道もせずに行きしなよりも道が出来ていたおかげもあって、まだ陽が昇る前に村へ戻ることが出来た。村の入口に居た人は、彼女の様子に慌てて村人へ声を掛けに行った。
「どうしたんじゃメグちゃん、そんな……」
「お願い早く助けに行って!廃屋でシンとレイが悪魔に襲われているの!シンのおじいちゃんが描いてくれた、魔法陣の絵も効かなくて……」
「何じゃと!?」
村人が集まる中メグの話を聞いたおじいさんは、血相を変えて直ぐにその輪から外れて行った。そして準備を済ませてまた戻って来るとメグを強く抱き締めて離れた後、一人で森へ向かった。
「あれはただの落書きじゃ、気休めのお守りにと描いたもの。わしは先に行くがどうにもならん、直ぐに後を追ってくれ」
悪魔と対峙している二人の居るほとりは、先程よりも静かだった。レイが魔法陣を見せて悪魔の気を引いた隙を見て、シンは橋の下へ身を隠していた。悪魔の手が手探りに彼を探す中、物音を立てないよう口を覆い息を殺して潜むシンだったが、足元の冷たい水と悪魔への恐怖に震えが止まらないでいた。手が離れていく隙を見ては、少しづつ場所を移動してを繰り返すも、頭上をもやりと通り過ぎて行く悪魔の手に、息は反射して止まっていた。
メグが村へ向かってしばらく、もう随分と逃げ回り隠れて過ごした事で、シンの手足は寒さで感覚が無くなっていた。レイは痛む身体を出来うる限りに動かし叫んで、境界線の外から悪魔の気を引こうとしていた。しかし悪魔はレイを見ることはあっても手を伸ばす事はせずに、まだ隠れているであろうシンを手探りに探していた。彼がどこに隠れて居るのか、もうレイも分からなくなっていた時、シンが足を滑らせて水へ落ちてしまった。その音や水面の揺れに、彼だけでなく悪魔の手にも気付かれてしまった。
凍てつく手足をどうにかと動かしてその場から離れたシンだったが、それを追って悪魔の手が伸びて来ていた。草を手繰りよじ登って橋を渡ろうと走って逃げる彼の足は、もう思うようには動かなくなっていた。ただでさえ橋は古ぼけていて、直ぐにでも壊れそうな程に軋んでいるのに、このシンの身体では歩いて渡る事すら困難な状態だった。境界線まではまだ離れていてレイの居る場所も遠く見える。そして足は思うように動かないのに、悪魔の手が迫って来たことでもう自分ではどうにも出来ないと、じいじを思い浮かべてシンは魔法陣の絵を翳した。大きな目玉は、視界の隅でそれを見てまたひととき手を止めたが、何事も無くシンへ手を伸ばし鷲掴んだ。
「止めてくれ!!その子から、シンから手を離してくれ!わしの魂をやる、だからどうか……!」
その声の先にはおじいさんが息を荒らげて叫んでいた。境界線を越えて悪魔に歩み寄る彼と言葉を、大きな目玉は捉えた。そしてシンを離したかと思えば、腕をしならせながらおじいさんを掴み、瞬く間に廃屋へと戻って行き、大きな音を立てて窓や扉が閉じられた。その光景に何も出来ずに見ている事しか出来なかったのは、腰を抜かして座り込むシンや、ただそれに佇むレイだけではなく、おじいさんに続いて少し遅れて来た、数人の村人達もだった。
扉が閉じられた音が響いて暫く、何事も無かったかのように霧の立ち込めるほとりに、水の流れる音が聞こえるようになると、レイは我に返りシンの名前を呼んだ。その声に大人達が彼等に駆け寄り、二人は担がれて村へ帰った。そして泣いて迎えるメグや友人と共に手当てを受けた後、温かい小屋の中で暖炉の火を囲んで経緯から顛末までを話していくと、おじいさんの友人が三人をなだめて言った。
「寂しい事だがあいつはもう、戻っては来ない。それは昔、私達が幼かった頃に同じような事があったと、その時の大人達に聞かされているからだ。あの魔法陣は確かにおじいさんが描いた落書きだが、ちゃんと元になるものがある。御守りになるかは分からないが、形見として持っているのも悪くないだろう。恐いものがあるということは、とても大切にしなければいけないことなんだ。君達は今回の事で分かったと思うが、私達はそんなに賢い生き物じゃないからね」
それから数日後、今度は大人達と一緒に三人は廃屋へ向かった。ただただ足取りは重く、それは恐らく足に絡む雪の重さだけではなく、道中に見える先日の作って壊した雪の名残りに、楽しさが溶けた後に見える事実が思い出されて裾に掛かるから。そして廃屋の近くまで来た所で、大人達が足を止めて静かにするように言った。その先を見ると、霧の向こうで大きく黒い影が、もやりと廃屋から出て来ていて、のそりのそりと散らばったお菓子を拾いながら、廃屋の周りを動いていた。そして悪魔が廃屋へ戻って行った隙に皆で近付いて、シンのおじいさんへの花を手向けた。帰り際に振り返り辺りをよく見てみると、その悪魔が行き来した後には、黒い影の跡が残っていた。落書きをする悪魔のほとりで、降り積もる雪と白い吐息で曇らせて、霧の奥へ大切な思い出として蓋をしていった。
おわり