35話 だが私には
グリムは目が覚めた。
彼は仰向けに寝ている。
視界がぼんやりとクリアになるにつれ、手の中に温かい感触と輝きを感じるようになってきた。
彼の手にはトロル族の王家の指輪が握りしめられている。
指輪を目の前に持ってくると、トロルの森でのアンミストとの会話が頭に浮かんできた。
グリムちゃん、これ……
王家の指輪だ。アンミスト、君には私の代役を務めてもらうんだ。それがあったほうが格好つくだろう?
でもボク、こんな高そうな指輪を付けて森になんて入れないよ……傷つけちゃったら……
大丈夫だ。トロル族に代々受け継がれてきた王家の指輪は世界一硬くて柔軟なんだ。戦闘中ですら私はその指輪を外しはしなかった。むしろ当たった物体のほうが砕けるほどだ。安心して付けてくれ。もし傷がついたら、君じゃなくて耐えれなかった不甲斐ない指輪が悪い。
そっか……グリムちゃんは、ボクと会う前から指輪とずっと一緒に戦ってきたんだね。なんか、そういうの……ちょっと……
――ムカつく。
なぜ君があんなやつに殺されなければならないのだ。
なあアンミスト。
君はまだ死んでいない。まだ間に合う。
なぜなら、私には『ずっと一緒に戦ってきた』指輪がある。
そうだ。トロルの体ではなくなってしまったしナイフも砕けた。
だが……
だが私にはこのトロル族に代々伝わる王家の指輪がある!
グリムは最後の力を振り絞り、王家の指輪の下部であるアームを握りしめ立ち上がった。
エリックの両足をいたぶり尽くし、そろそろ両腕に移ろうとしていたヴォルグラスはそれを中断した。
老人は立ち上がったグリムの方を向き、嘲り笑った。
「ククク……ハーッハハハ!!!気でも触れたかトロル王!
そのボロ雑巾のような体で!そんな指輪をもって!何をしようというのだ!!!
これは傑作だ!!!グリムくん。
君は失敗作だと思っていたがとんでもなかった。
君はワシの最高傑作だ!!!
アーハハハハ!!!」
「ヴォルグラス……貴様に、トロル族に代々伝わる王家の指輪の力を見せてやろう」
「ハハハ!!王家の誇りがどうとかプライドがどうとかいう話か!!
くだらぬ!!問答でワシをどうにかしようというのか!!!
もうよい!ワシは十分楽しんだ!!
ワシには次のこども達が待っているのだ!!君の部下がな!!
君はもう良い死ね!!」
老人は言い終わると氷柱を手のひらから生成し、グリムに放った……とおもったら腹部に痛みを感じた。
腹部を見ると、グリムが握りしめた王家の指輪が腹に食い込んでいる。
「……なに?」
――こいつ、いつ移動した?
そ、それより最強であるトロル王の斧を3発喰らわないと剥がれない魔法の鎧が、たったの一撃で剥がされている!?
「ト、トロル王貴様……何をやった!!」
「王家の指輪は世界一……」
グリムは一度後ろにステップし、改めて突撃する。
そこに渾身の力を込めた拳を振りかぶり――
「硬いんだ!!」
ヴォルグラスは腹に二度目の衝撃を喰らい、まるで雷鳴が轟くような勢いで壁に叩きつけられた。
耐え難い痛みで顔をゆがめ、意識を失いかける。
あまりの衝撃で王家の指輪にヒビが入る。
「こ……こんな馬鹿な……魔法も使えない、力も弱い小娘にワシがダメージを……」
老人は驚愕していた。
トロル王としてのタフな精神とグリムの怒りは猫耳少女の身体能力を限界以上に高めていた。
そして、今のステップは軽い体で有効打を与える精一杯の方法だった。
「アンミスト……君の訓練が私を強くした……」
――くっ……あの指輪とワシの魔法の鎧は、何か相性が悪いようだ……
加えてあの体から放たれるにしてはありえない威力の打撃。
まさか、こんな奥の手を持っていたとは……だが……
「……さっきは油断していた……グリムくん、学ばせてもらったよ。
……もう貴様は近付けさせん!!」
ヴォルグラスは十数もの氷柱を形成しグリムに向かって射出する。
だが老人は次の瞬間、目を疑った。
トロル王は彼の放った氷柱を、まるで避けられるはずのない雨粒を避けるように華麗に回避していた。
その動きはまるで人間業とは思えないほどの速さ――
彼の脳裏には、これまでの戦いの記憶がよみがえる。
しかし、そのどれとも比べ物にならない圧倒的な速さだった。
彼は自分の魔法が通用しないことに、恐怖を感じた。
「な、ならこれはどうじゃ!!」
ヴォルグラスは力を振り絞った。両手を広げると、彼の周囲には数多の氷柱が出現した。
魔力は星から供給できるが、これだけの数の氷柱の生成、操作を間を置かず行うとなると、自身の精神や心身に相当な負担がかかる。
しかし四の五の言っていられる状況ではないと、老人はそう判断した。
頭痛を我慢しながら、ヴォルグラスは氷柱を生成する。
それは尖った牙のようなもの、鋭利な刃のようなもの、あるいはねじれた氷の竜巻のようなもの。
その数は数十を超え、大小様々な氷柱がグリムに立ちはだかる。
中には青白い光を放ち、まるで魂を奪うような冷たさを湛えた氷柱もあり、
その光景はまさに地獄絵図のようだった。
「この攻撃を避けることなど、不可能じゃ!!避けられるものなら避けてみよ!!」
ヴォルグラスは、攻撃を避けて回り込みながら向かってくるグリムに対し、それを一斉に発射する。
ところがグリムは王家の指輪を使い、自分に当たる氷柱を叩き落としていた。
それでも避けきれない氷柱は幾つかあった。
グリムは猫のようにしなやかに体を捻り、まるで空中を舞う蝶のように氷柱の間をすり抜けていく。
彼の動きは一瞬にして方向を変え、予測不能であった。
氷柱が肌をかすめる度に傷ができるが、彼はそれを表情に出さない。
「……ク、ククク……。やはり全部は避けきれまい。ではトロル王、ワシの全力を受けてみよ。
今の貴様がいくら素早く、少しばかりの攻撃を防げたところでこれは無理じゃろう?」
ヴォルグラスは更に自身の生命力を振り絞る。
意識は朦朧としてきて、体のあちこちの血管が切れるのを感じた。
氷柱の密度をデタラメに高め、まるで氷の嵐のように、猛進してくるグリムへと叩きつけた。その数はもはや百を超えている。
だがグリムは急旋回し、氷柱が出来るだけたくさん落ちている場所めがけ、氷の破片を蹴散らしながら急静止。
そして落ちている氷柱を塊に何個も投げる。
投げた氷柱が高密度の塊に激突するたびに、氷同士がぶつかり弾け崩壊していった。
勢いをなくし散らばった氷柱が彼を避け床や壁に突き刺さる。
グリムは疲れ果てた顔をしており、それをみれば相当の体力を消耗していることが予想出来たはずだった。しかし――
老人の目にその様子は映らなかった。
長年絶対的な力と信じてきた魔法が、まるで自分を見捨てたかのように効果を発揮しない。
その事実に、老人は打ちのめされていた。
「そんな……ワシの全力がこんなあっさり……信じられない……し、しかし……」
老人は心身を顧みず自身の死力を振り絞り、血反吐を吐きながら両手を地面に突き立てた。
床一面にマキビシのように氷柱を出現させ、グリムとヴォルグラスの間を埋め尽くす。
「がはっ………ど、どうだ!!近づけまい」
だがグリムは力強く地面を蹴り、空中に飛び上がる。
「か、かかった!今度こそ終わりじゃ!
貴様がいくら素早くでも空中で回避するなんて芸当は出来まい!!
少しばかり指輪で防いだところでしれておる!!
死ねトロル王!!」
ヴォルグラスの声が、まるで勝利を確信した賛歌のように響く。
次の瞬間、地面に生成された氷の刃が次々とグリムめがけて射出される。
しかしグリムは正面の氷柱を数個破壊したあと、全身の力を込めて氷柱を蹴り、自身の移動方向を変える。
鋭い音が響き渡り、氷柱は粉々に砕け散った。
氷の破片が光を反射し、まるで雪が舞うように空間を満たしている。
氷柱を何度も蹴り方向を変え、空中で華麗に回転しながら氷柱の雨を避けた。
その姿は狩りの最中の野生の猫のように軽やかで、一瞬にして氷柱の隙間をすり抜けていった。
まるで氷の迷宮をダンスするように。
「ぜ、全部避け……化け物か……!?」
グリムは地面に着地すると、風を切り裂くような鋭い音を立てて、ヴォルグラスへと突進した。
まるで空間を一瞬で切り裂く光の矢のようだった。
「だがそれが命取りじゃ…!喰らえ!!」
ヴォルグラスは自身の身体を右に移動させると同時に、自身の体に隠していた氷柱がグリムを直撃コースで襲う。
突如、横から飛んできた剣がそれに当たり軌道が変わった。
「何っ・・・!?」
飛んできた方向を老人が睨むとエリックが得意げな顔をしながら腕をこちらに向け、直後に床へと突っ伏す。
氷の刃がグリムの体をかすめ、血飛沫が舞う。
今のグリムに追いつける者など――――
グリムの蒼白な顔と荒い息は、その身体がとっくに限界を迎えている事を示していた。
だがグリムは、一向にそのスピードを落とす気配を見せない。
まるで怒りの竜巻が、すべてを飲み込んでいくかのようだ。
――――誰もいなかった。
ヴォルグラスはもはや冷静さを失っていた。
グリムから必死に逃げ、応戦する。
しかし限界数を遥かに超える氷柱の生成・操作で彼の心身はボロボロだ。
加えて、身体や精神を犠牲にした全力の魔法でもトロル王に致命傷を与えるどころか、ここまで追い詰められたことにより、彼のプライドも崩れさった。
彼の魔法はかつてないほどに乱れ、氷柱は四方八方に飛び散り、まるで彼の心の破片のように見えた。
「……ありえぬ!!このワシがこんな……こんな……ただの小娘ごときに!!」
高速で攻撃を避け、しかし確実に近づいてくるグリム。
老人はそれを目で捉える事すら出来ず、絶望に打ちひしがれていた。
「く、来るな!!」
遂に追いつかれたヴォルグラスは攻撃を諦めた。
防御のみに渾身の力を降り注ぎ、何重にも自身の周りに魔法の鎧を張る。
しかしグリムがステップを使い距離を取ったあと突撃し、指輪で殴るたびにガラスのように鎧が破壊されていく。
必死に鎧を生成するが間に合わず――
「やめろおおぉぉ!!!」
ついに生身の体に打撃を受け、壁に床にふっとばされ追撃を受け続ける。
打撃の威力を物語るように、王家の指輪はヒビと傷が入っていく。
ふっとばされ続け、やがて壁の角に追い詰められたヴォルクルスは、全身を無数に破壊された。
ヴォルクルスが最後の一撃で、頭蓋骨に致命的な損傷を受ける。
同時に王家の指輪は粉々に砕け散った。
彼の体は重力に抗うことができず、血反吐を吐きゆっくりと床へと滑り落ちていく。
最強の自負があった魔法使いの目は、今は虚無を見つめていた。
奇しくも今のグリムは、身体交換をする直前のトロル王と全く同じ位置に傷を負っていた。




