3話 雨は上がらず
雨は容赦なく降り注ぎ、森は薄暗い陰に包まれていた。
その中で一際小さな影が震えていた。
誰かに体を揺さぶられている。
「おい、大丈夫か?生きてるか?」
男の声が轟く雨音の中から聞こえてきた。
目を開けると黒髪の人間の男がグリムの顔を覗いていた。
剣を脇に挟み、茶色いマントを羽織っている。
紺色の服を着ており、それなりにくたびれた黒い靴を履いている。
歳は20代といったところか。
奥に彼が持ってきたらしい、大きな緑の袋が置かれていた。
おそらく身なりからして冒険者だろう。
「どうしたんだお嬢ちゃん。こんなところで。迷子か?親は?」
グリムは男の優しそうな言葉に、かえっていら立ちを覚えた。
まるで傷口をえぐられるようで、彼は体中に力なく猫のように丸まってしまった。
「放っておいてくれ……」
「流石にそんなわけにはいかないだろ。体も冷たい。風邪を引くぞ」
「いいからどっかに行ってくれ」
男に事情を話す気力もなければ、振り払う気力すらなかった。
指輪はグリムから離れ無造作に転がっていた。
「その指輪を売れ。王家の指輪だ。
人間の世界でいくらになるかは知らんが少しは金になるだろう。それを持って消えてくれ」
男が消えてくれればどうでも良かった。
必要最低限の情報だけ伝え、男が消えるのを待った。
エリックは少女の返答に違和感があった。
――人間なら10歳前後と言ったところだが、どうも見た目ほど幼くは無いかもしれない。
まあ、猫耳族の年齢は普通の人間ほど分かりやすくないからな。
しかし……あれが指輪だと?腕輪にしか見えないが……。
そして、そこに転がっていた腕輪は確かに高価そうに見えたが、なぜそんなものをこんな子どもが所持しているのか。
なぜそんなものを赤の他人がいるのに無警戒で床に転がしているのか。
なぜそれを見ず知らずの俺にくれるというのか。
そして、この魔力反応は一体……
考えれば考えるほど分からない事が増えていく。
彼は指を顎に当て思考する。
――正直、王家の指輪とやらを持って出ていきたい。
だがさすがに人道に反している。
それにギルドからの依頼もある。
……この猫耳の少女は金に困っているわけではないらしい。
それならその王家の指輪とやらをさっさと売ればいい。
親とはぐれたわけでもない。
それなら俺に助けを乞い『地図を見せてほしい、
住む村の場所を教えてほしい』等と頼むはずだ。
食料がないわけでも水が足りないわけでもない。
連日の大雨で水は溢れるほどだし、そもそもそこらの木には果物がたっぷりで食料も豊富だ。
この種族なら木にも楽々登れるだろう。
だがこの少女はまるで……
「……ただの迷子ってわけじゃなさそうだな。事情を話してはくれないか」
期待はしていなかったが、やはり少女は黙ったままだった。
エリックは自力での謎解きを試みた。
――あんなものを所持しているならばこの少女の地位は計り知れない。
だがこの少女の格好は茶色の布を纏っているだけでとてもみすぼらしく、そうは見えない。
大体、猫の耳を持つ種族の地位には限界がある。例外がないわけではないが…
では盗んだのか?
だが、おそらく多大なリスクを背負ってまで盗みに成功した物をなぜ俺に渡そうとする?
エリックにはどちらも不正解に感じた。
ふと周りを観察すると、少女の近くに袋があった。
おそらくこの少女の所有物だろう。
「ちょっとそこの袋を見てもいいか?」
「……どうでもいい。指輪でも袋でもいいから、持って消えてくれ」
腕輪と同じ反応だ。
この少女はよほど一人になりたいらしい。
袋の中身を見た。
――衣類、ナイフ、水筒、火打ち石、タオル、このあたりの地図……ここまでは冒険者の俺と同じような感じだな。防寒具や着替えがないのが気がかりだが。
ん?何だこれは……トロルの肖像画……?
エリックは折りたたまれたトロルの肖像画の紙を広げ、観察した。
肖像画は、荒削りで力強いタッチで描かれていた。
トロルの深緑色の肌には無数の傷跡が刻まれており、その一つ一つが長年の戦いを物語っていた。
特に印象的だったのは彼の左手の指に嵌められた指輪で、それはまるでトロルの魂を宿しているかのようだった。
――おそらくかなり地位の高いトロルだろう。
そこに転がっている腕輪とよく似たものが嵌められているな……
なるほど、指輪はトロル用のサイズだったのか。
トロルはあの少女にとって大切な人だったのだ。
そしておそらくこのトロルが死んだのだ。
生きているならばここまで指輪をぞんざいに扱うわけがない。
これで決まりだ!
エリックは聞いてみた。
「なあ、お嬢ちゃん。
このトロルとお嬢ちゃんは・・・」
次の彼女の叫び声は森中に響き渡った。
暗い森の中で、彼女は怒りと悲しみに打ちひしがれていた。
「そのトロル王は私だ!
魔法使いによって私は姿を変えられ肉体も地位も民も国も何もかも失った!!
民との意思疎通もできない!!
お前が何をしようがどうにもならない!!
わかったらさっさとその指輪を持って出てゆけ!!」
そういうと彼女の心のダムが決壊し、感情の洪水が彼女の頬を伝った。