2話 豪雨
グリムは、森の奥深くにある隠れ家で、まるで永遠のように思える時間を過ごしていた。
呪いの魔法が解ける気配は全くなく、彼は日ごとに衰弱していった。
トロル族を率いていた王は、今や無力な一人の少女に過ぎなかった。
猫の耳と尻尾が生え小柄な体躯は、かつての巨体を思わせもしない。
――そんなバカな……
姿を変えるほどの強力な魔法などすぐに魔力が尽きるはず。
常にどこかから供給するとしても、睡眠も無しに昼夜問わず掛け続けられるはずがない。
仮に数人がかりで交代して魔力を供給するとしても多大な労力がかかる。
なんの意味もない。
……目的はなんだ……
私を無力化して危害を加える気ならとっくにやっているはず……
それとも私を無力化している間に軍団を集めて民たちを……!?
隠れ家から少し離れた場所にある、かつての自分の領地を見下ろす丘に立った。
かつての彼はここから民々を見守り、この森を統治していた。
しかし今の彼にとっては、その風景すらもどこか他人事のように感じられるようだ。
民の様子を窺うと、彼らはいつものように畑を耕していた。
鋭敏になった聴覚で遠くの彼らの声を聞き取るも、変わらず言葉は出来ないが口調から差し迫った危機を感じさせるものはなかった。
だが、彼らの表情はどこか硬く、楽しそうには見えなかった。
それとは別にあたりを探索している者も数人いた。
グリムの部下だ。
かろうじてトロル王の名前を呼んでいることが聞き取れた。
その心配そうな表情や口調、そして真剣に探す様子から、操られているわけではなさそうな事が推測出来た。
グリムは隠れ家に走る。
荒い息は走ったせい、というだけではないだろう。
日が暮れ森は薄暗くなった。
彼は再び隠れ家に戻り、火を焚いた。
彼は、
このまま何も起こらない事を危惧していた。
息がますます荒くなる。
――苦しい……
それから更に5日が過ぎた。
隠れ家でグリムが死んだ目をしていると、彼の目に影が見えた。
そこに立っていたのは、彼の部下たちだった。
行方不明の王を探しに来たのだ。
「私はグリム・スヴェン・フォレスだ……魔法使いの老人に姿を変えられた」
と部下に語りかけたが、部下たちはいつものように理解できない言語で会話したあと、彼の横においてある指輪を奪い取ろうとした。
グリムは持ち物が入った袋と指輪を持って逃げ出した。
必死に駆け足で森を駆け抜けるグリム。背中に背負った、自分よりも大きな袋が大きく揺れ、中の物が擦れ合う音が響く。
――数十日後。
轟く雷鳴とともに、激しい雨が降り始めた。
嘲笑うように雨粒が顔面に叩きつけられる。
まるで、神々からの嘲弄のように感じた。
大樹の穴に逃げ込んだグリムは、凍える雨に打たれ体中が震え上がっていた。
王としての歴史、鍛え抜かれた強靭な肉体、そして一族の誇り。
全てが、一瞬にして奪われた。
指輪を握りしめながら、グリムは震える手で自分の顔を覆う。
――かつてこの指輪は一族の魂を宿し、私を導いてくれた。
だが今は、冷たい金属の塊にすぎない……
指輪に触れる度に、かつての力と栄光が虚無へと変わっていくように感じた。
――なぜだ。あんな老人など知らない。
私がなぜこのような目に遭わないといけないのだ。
トロル族を滅ぼすでもなく、私を殺すでもなく、ただ苦しめるだけ……
グリムは涙が出てきた。
王家の指輪をギュッと体で抱きかかえ、横になる。
雨は何日も続く。
しばらくは木に生っている果物で飢えをしのいだが、もうその必要すらも感じなくなってきた。
グリムは生きる気力を失っていた。
雨音が木に叩きつけられる音が、轟く鼓動のようにグリムの耳に響く。
意識は薄れ、現実と幻覚が入り混じり始める。
「なぜ……なぜ私が……」
呟きは、雨音に掻き消されそうになる。
それでも、グリムは必死に考えようとする。
王家の指輪。
それはトロル族の誇りであり、力そのものだった。
だが、今となってはただの飾り物。
いや、それすらも叶わぬただの重荷に感じられた。
かつて先代から受け継いだ指輪は輝かんばかりの光に満ち溢れ温かかった。
それは一族の重責と、王としての誇りを象徴していた。
だが今は、冷たく、重く、そして虚しい。
「こんな……こんなはずじゃ……」
グリムは、自分の人生を走馬灯のように何度も何度も見返した。
強大な力を持つトロル族の王として、一族を何度も守ってきた。
だが今、彼は何もかも失ってしまった。
指輪を握りしめながら、グリムは震える手で自分の顔を覆う。
かつては力強かったその手は、今はただ虚無を掴んでいるだけのように見えた。
「もう……いい……」
グリムは指輪から手を離し、ゆっくりと目を閉じ意識を遠ざけていった。