15話 筋肉
朝日が、エリックの顔を温かく照らしていた。
彼は眠そうに目を擦る。木漏れ日が地面に斑模様を作り出し、さわやかな風が吹いていた。
その風にまじり二人の会話が聞こえてくる。
「……もう意味ないことはやめなよグリムちゃん」
「なっなにがだ!」
「疲れるだけだよ、そんなの。猫耳で、しかも女の子のからだは、ちからなんてつかないの」
どうやら何かのトレーニングをしている猫耳少女グリ厶に、アンミストが話しかけているようだ。
「なんだと……!?」
「ほとんど意味ないんだって。さいのうってザンコクだねー。それにグリムちゃん、元の体に戻ったらそんなの意味ないし」
「……これは私にとって肉体だけでなく精神をも鍛えるために必要な、毎日行う必要のある大切な儀式でもあるのだ。他人の言う事をホイホイ聞いてすぐやめられるか。ましてや貴様の助言など。そう言われたらなおさら鍛えたくなってきたぞ。見ておれ!!」
「……はぁー……意味ないのに」
「足が砕けようと手が砕けようと決して可能性を諦めないのがトロルという種族なのだ。お前が鍛錬しないと言うならもう仕方ないが、せめて私の邪魔はするな!あっちに行っておれ小僧!!」
エリックは呆れたように眉をひそめ、グリムに突っ込みをいれたくなった。
――おいおい王様。アンタ、初めて会った時すでに諦めてなかったか?見栄っ張りだな……
とある日……ちょうど太陽が真上を通り過ぎる中、3人は大きな川の対岸を眺めていた。
ここを過ぎれば噂の魔法書収集家の住む町は目と鼻の先だ。
エリックはざっと見て自分やアンミストなら渡れそうだが、今のグリムには無理そうだと判断した。
「……川が深く流れも急だ。迂回して渡れそうなところを探すしか無いか」
グリムのプライドを傷つけないように慎重に言葉を選んで発言をした。
ところが彼はフフンと得意げな顔をして
「ふん。何を考えているかだいたい想像がつくぞエリック。
だが私は子供の頃から泳ぎが得意だったのだ。見ていろ」
と、無い胸を張って宣言した。
突如服を脱ぎだし一糸まとわぬ姿になるグリム。
「キャー」と赤面し、顔を手で覆いながらアンミストは地面に崩れ落ちる。
「お、王様!!突然何やってるんだ!!」
「何って……服が濡れたら乾かすのが面倒だろう?
小僧。私の体ならその服を濡らさずに渡ることなど造作もないはず。持っててくれ」
脱ぎ散らかした服を崩れ落ちているアンミストの側に放り投げる。
そういうことじゃなくて……と、エリックは言いかけた。
――トロルの価値観は人間とは違うんだな……
不審そうな視線を感じ、グリムはこう取り繕う。
「ああ、もちろん公の場に立つ私は礼節をわきまえている。
だがトロル族は人間ほど無駄な慣習に縛られることはない。
もちろん譲れない例外もあるし、個人によっても差はある。
しかし、どちらかと言うと利得のほうを優先している。
我々は人間ほど豊かな生活は送れないからな。必然的に効率的となるのだ。
むしろ私から見ればお前たち人間のほうが奇異に見えるぞ?
特に高位で余裕のある人間ほど意味のない行動が多い」
そう言うと、グリムは勢いよく走り川へと飛び込んだ。
「グリムちゃんやめて!!まって!!」
ようやく回復したアンミストが必死に止めるも――
「ぎゃあああああああぁぁぁ!!」
グリムの悲鳴が聞こえてきたと思ったら、よたよたこちらに戻ってきた。
彼は膝をガックリつく。
「おかしい……なんだ、この体の底から湧き上がる恐怖は……」
彼は震える手を見つめていた。
「グリムちゃん、きいて……猫耳の子は水が苦手なの……いまのグリムちゃんには……」
そう返答するアンミストに彼は苛立ち答える。
「い、いや……私は子供の頃から泳ぎが得意だった。
それにこの体は普通に歩けるし走れる。
……この程度の川が渡れないわけがない!!」
そう言いながら再び彼は川岸まで駆けていった。
「グリムちゃん待って!!本当にやめて!!」
静止の叫びも虚しく、先程と同じ結末となった。
震える体で彼はこう述べる。
「あ、足が地面から離れた瞬間に得も言われぬ恐怖が……」
それを尻目にアンミストが答える。
「だからさっきから何回も止めたのに……猫耳の子の"ほんのう"、なんだって」
「……いいか小僧。このような精神的恐怖を私は何度も乗り越えてきた。
体が変わった程度でこの程度の川すら渡りきれないのは王の恥だ!!
本能だかなんだか知らないが、私は……」
エリックがたまらず口を挟む。
「王様。もうよせ」
グリムは肩をブルブル震わせる。
「諦めろというのか、この私に……
つい先日も決して可能性を諦めないのがトロルだと、小僧に宣言したばかりだというのに。
これでは王として面目が……」
「国はアンタ一人で持ってるわけじゃない。
国民全員にそれぞれ得意不得意なことがあって、支え合って生きているんだ。
王が万能でなければならない道理はない。
ここを渡るしか方法がないなら、王様が恐怖を克服するまで数時間、あるいは数日粘るのも手かもしれない。
アンタならそのうち克服できるだろう。
だが利得を重視するなら分かるはずだ。
おそらく迂回したほうが早い。
最善の道を選んでくれ」
納得できない顔でエリックをジト目で見ながら、プライドと時間を天秤にかけしばらく悩んでいるグリム。
と、いきなりアンミストがグリムを脱ぎ捨てられた服でくるんで担ぎ上げる。
「な、何をする小僧!!離せ!!」
「これでまたボクに”かり"が出来ちゃったねグリムちゃん♪
さあ、渡りましょうエリックさん」
グリムはこの後の展開を想像して赤面し、黙りこくってしまった。
「エリック。何故お前は冒険者をしているのだ」
魔法書収集家が住んでいる町を前に開けた街道を歩いていたら、そうグリムに聞かれた。
「何故って……まあ一番は食うためだな」
何気なく答えた。
「それなら他にも選択肢があったはずだろう。
冒険者なんて危険な道を、飯のためだけに選んだのか?」
「危険だって? 確かにそうだろう。
まあ危険だからこそ、他の仕事では得られないものがあるんじゃないかな。
例えば……自分自身の新たな一面。
見たこともない景色、出会ったこともない人々とか」
――たとえば眼の前のアンタとかな。
「なるほどな」
「それだけじゃない。冒険にはロマンがある。
強大な魔法使いと戦い、人々を救う。
いわば英雄になれるかもしれない。いい響きだろ?」
「現実はもっと残酷だ。英雄になれるのは一握りだけだ」
――おいおい、いまのアンタがそれを言うのか。
エリックは苦笑した。
「まあ英雄なんて大層なものじゃなくても、眼の前の一人を救うことくらいは出来てもいいだろ?」
自分のことを言われていることに気づいたのか、グリムは頬を赤らめ喋らなくなった。
「あーグリムちゃん、黙っちゃった」
会話を聞いていたアンミストが茶々を入れ、エリックはたしなめた。
「おいおい、雰囲気をぶち壊すなよ……」




