1話 運命の落とし穴
木漏れ日が差し込み川のせせらぎが静かに響く。
巨躯を誇る、グリムという名前のトロルがその湖畔に佇んでいた。
彼の左手の人差し指には多数の装飾品で輝く、傷一つないピカピカの指輪が装着されている。
この世のどんな物質より固く柔軟で、決して傷がつかないと言われているトロル一族の宝。
グリムはこの指輪を戦闘中も外そうとはしなかった。
グリムは、先代から譲り受けたこの指輪を、まるで生命体のように大切に思っていた。
それは単なる王の証ではなく、孤独な夜を照らしてくれる灯火であり、困難な道のりを共に歩む伴侶のような存在だ。
鞘が装着され斧が収められている傷だらけの鎧は、数え切れない戦いの証であり、同時にトロル王としての重責を象徴している。
彼はその鎧を修復することも交換することもできた。
これまでそうしなかったのは過去の戦いの記憶を刻み込み、王としての覚悟を常に戒めるためだ。
さらに鎧の内側には黒い服を着ており、鎧とコントラスト差があり映えるようになっていた。
筋骨隆々とした手足にも無数の傷があり、鎧とともに彼の誇れる勲章である。
悠然と流れる水の流れを眺めながら、彼は己の強さに絶対の自信を持つ。
だが、その平穏は突如として破られた。
「そこのトロル王」
背後からトロル語で声がした。
「ワシはお前に用があるのじゃ」
グリムは振り返り身構える。
紫色のローブと尖った帽子をかぶり右手に杖を持ち、白い髭を生やした老人がいた。
ひっそりと現れ、まるでこの場に何百年もいたかのように、その場に根付いている。
――馬鹿な。私に全く気づかれずにこの距離に……
彼は、無意味な争いは好まない。
相手を警戒しながらそっとその場から消え去ろうとしたが、老人の言葉に足を止められた。
「お前と戦いたい」
王は老人の言葉に眉をひそめた。
「なぜ、私とお前が戦わねばならぬのだ?」
王は老人の意図を測りかねていた。
老人は深い皺の刻まれた顔に、どこか得体の知れない笑みを浮かべる。
その笑いは、まるで子供のいたずらのような無邪気さと、古狐の狡猾さを併せ持っていた。
「断れば、この森を焼く」
その言葉は、軽い口調で吐き出されたが、老人の眼差しは冷たい。
彼は右手の杖より小さな炎を出現させる。
最初は小さな火花だったが、みるみるうちに老人の体ほどもある炎へと変貌を遂げた。
老人の杖から噴き出した炎は、まるで生物のように蠢き、周囲の空気を焦がし続ける。
その炎は単なる熱源ではなく、彼の邪悪な魂を映し出す鏡のようだった。
炎は森の木々に迫り、今にも木に燃え移りそうだ。
その光景に彼は愕然とした。
「やめろおおおおお!」
トロル王は斧を右手に構え老人に飛び掛かった。
だが老人は視界から姿を消し、彼は突如現れた、幅、高さともに馬5頭分はあろうかという穴に落ちてしまった。
「うああああああ……」
穴の底に激突する寸前、地面が光るのを彼は見た。
彼の目が覚めると、そこは深い穴の中だった。
空はどんよりと曇っている。
見渡すと、穴の大きさや高さは広がっていて馬20頭分はあろうかという大きさになっていた。
鎧と斧はまるで大地を貫く巨人の武器のように巨大化し、地面に深く突き刺さっていた。
着ていた服もまた途方もない大きさに変形し、遠くへ吹き飛ばされている。
彼は、見慣れない緑の革の服と茶色の皮靴だけを身にまとっていた。
ズボンではなく腰巻きとなっている。
粗雑に作られた梯子が穴の上より掛けられていた。
左の人差し指にはめていた指輪が、頭がすっぽり入りそうな大きさに巨大化していて腕からこぼれ落ちている。
彼は困惑しつつも慌てて指輪を拾い上げ、必死に梯子を登り始めた。
なぜ梯子が掛かってるのか、そういう疑問すら持てないグリム。
ようやく地上に辿り着いた彼は懸命に走りトロル達の住む住居に急いだ。
「皆のもの!敵だ、敵が来た!応戦せよ!敵は強大な炎を操る魔法使いだ!他にもいるかも知れない!放置すれば森が焼かれる!我々の命も危ない!」
彼は民に警告をしながら必死に走る。
――……おかしい……喋るたびに甲高い不快な声が出る……
村のトロルがのんきな顔をしてこちらを見ていた。
民に近づくと、なんとグリムの5倍はあろうかという体躯であった。
――これは……私が魔法で縮小させられている!?
だがそんな事今はどうでもいい。
森の危機なのだ!!
「民たちよ武器を取れ!!我が名はグリム・スヴェン・フォレス!魔法で縮小させられた!敵は強大なり!」
彼は怒鳴り散らしたが、トロルの民は怪訝な表情でグリムを見ると、聞いたこともない言語で互いに会話をし始めた。
――なんだ……彼らは……何を話してるんだ!?なんだあの言語は!?
そのうちの一人がグリムに近づき……彼の持っている王家の指輪を奪い取ろうとした。
とっさに下がる。
――これはどういうことだ……彼らは魔法によって操られているのか!?
「わからないのか!私だ!グリム・スヴェン・フォレスだ!この王家の指輪の持ち主だ!」
自分の名前を高々と宣言し指輪を掲げた。しかし彼らはまた訳のわからない言語で会話し始め、指輪を奪い取ろうとした。
王は草をかき分け逃げ出した。
「なぜだ……なぜこんなことに……」
自問自答しながらも、足は止めない。
かつて子供の頃に自分が築き上げた隠れ家を目指して必死に走った。
息が切れそうになる。後ろから聞こえる足音は、まるで心臓を叩きつける鼓動のように、彼の鼓動と重なる。
「ぐっ……」
茂みに足を引っ掛け、転倒してしまう。
痛みと状況で挫けそうになるが、それでも立ち上がり、正気を失った民と距離を取る。
ようやく隠れ家にたどり着いた。
息を切らし膝をつく。
「フーッ……フーッ……」
心臓が爆発しそうだった。
体力が相当落ちている。
子供の頃に作った隠れ家は、昔と変わらぬ静けさだった。
ここに来ると、まるで時間が止まっているように感じる。
家といっても3本の木に布が括り付けられて屋根となっていて、地面に布が敷かれているだけの簡易的なもの。
だが腰を下ろすことが出来たグリムは、ようやく思考の余裕が出てきた。
――なぜあの老人は私に戦いを挑んだのだ。
なぜとどめを刺さなかった。
まさかトロル族を奴隷に……?
それとも切り刻んで食料にするのが目的か……?
しかし我らの鋼の肉体は食用には適さないはず……
侵略が目的か……?
どの線にしろ私が気を失っている間にとっくに攻め入られているはず……
そもそも、なぜ民の言語が変わっているのだ。
民は全員操られているのか!?
老人の目的はなんだ……
隠れ家にある鏡に映った自分の姿を見て、彼は言葉を失う。
鏡の中には白い髪に大きな瞳、そしてぴょんぴょん動くふさふさの猫耳が生えた人間の少女の姿があった。
「これは一体……」
鏡に映った自分の姿に、グリムは唖然とする。
巨大な体躯、緑色の鋼のような皮膚、血管の一本一本まで浮き出る鍛え抜かれた筋肉。
それらは何処かへ消え、代わりに現れたのは、まるで異世界の生物のような醜い小柄な姿だった。
トロルとしての誇り、力、そして何より、自分のアイデンティティ。
それら全てが、この鏡の中に映る異形の姿と共に、彼から引き剥がされていくような気がした。
――どういうことだ……これは幻術か?魔法か?
それとも私はまだ、地面に激突して気を失ったあの場所で夢の中にいるのか?
耳を触ると生暖かいものを感じ、おもわず手を引っ込めた。
引っ込めた手にフサフサとした物があたる。
それを引っ張ってみると、
「いたっ……」
思わず声が出る。
よく後ろを確認すると白い尻尾が生えていた。
――これが幻術ならば私の肉体は素のままのはず……
手で鍛錬用の石を持とうとしたが……持ち上げることすらできなかった。
――だとすると魔法か……効果時間は……?




