五八 暗澹、展望、撤退、帝都決戦
フリク公爵領での戦いはドラクスの予想通りとなった。なってしまった。
防衛側が軍と傭兵合わせて12万。最後の一兵になろうと徹底抗戦の構え……は取らず、これまで通り負けが見えたら撤退というのは変わっていない。
ただ今までより撤退を遅めてなるべく敵戦力を削ごうとした。あわよくば『魔王の騎士』も複数討伐……と願っていたが高望みだった。
エイトの【切断】に期待しすぎていたのは否めない。
相手も生物である以上、真っ二つになれば死ぬのが常識だ。だがその常識が通じなかった。
黒い刃の群れ……敵の会話から『魔王の騎士』であることと名が「ヨーネ」であることは知れたが、縦横無尽に飛び交う剣の雨を相手にすれば防戦一方になってしまう。
ブヨブヨとした物体……これも『魔王の騎士』であることが判明。名を「マク」と言ったか。
両者に共通しているのは、殺せないことだ。
ヨーネは刃を破壊しても、その破片がまた飛んでくる。
マクはそもそも攻撃が通じない。
事前に手を回し周辺国に援軍を出させたまではいい。要塞が落ちる前に各国合わせて8万もの軍が駆けつけることができたのも重畳だ。
数では完全に勝っていた。防衛側という地の利もあった。
それでも勝てなかった。
兵が全滅したわけではない。要塞がなくなってしまったからだ。
『魔王の騎士』マク。
動きはそのものは速くないものの、壁も建物も……人さえも触れれば溶かしてしまう凶悪な相手に、せいぜい氷漬けにするか地面に穴を掘って落とすかといった足止めしかできなかった。
それも1体ではない。あの不定形の化け物は分裂し四方八方に散って要塞内を文字通り食い荒らし、食った分だけそれぞれ大きくなる。
守るべき要塞が文字通り無くなって、更地になったただの川岸では防御も何もない。
もう数日……欲を言えば一週間は耐えたかった撤退はマクのせいで早まった。
ただ、早々に見切りをつけたおかげで将兵の損耗は全体合わせて4万で済んでいる。
といっても途方に暮れるような数だ。しかも死亡者のみ。負傷者も合わせれば半数以上にのぼる。
楽観的に見れば多くの兵を退かせることができた。
『常に考え得る"最悪"のさらに斜め上を想定する』とはよく言ったものだとドラクスは父を思い出す。同じように武ではなく頭で帝国の拡張に貢献してきた父を。
その教えのおかげで今日失われる命は減らせた。
まさかこちら側が知らない新たな『魔王の騎士』が2体も出てきて、殺し方も分からず、要塞そのものを一方的に消し去ることができるとは想定していた最悪よりも酷いものだったのだが。
士気への影響はとんでもないことになっている。これまでどの国相手にも勝ち続けだった帝国史において、初ともいえる敗戦ムード。
フリク要塞が落ちたのだ。誰もが思うだろう、『もう勝てない』と。
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撤退の折、フリク公爵は言った。
「お主らは逃げられよ。我が身は父祖より受け継いだこの地に埋まる」
時間稼ぎとも言えない、自殺宣言のようなものだった。
公爵だけではない。彼の妻や息子たち、他家との婚約が決まっていた令嬢までもが公爵と運命を共にすると言い出したのだ。
さらには公爵派閥──寄子とも言える周辺の小領主たちまで。
一家郎党全員がここで死ぬなどとんでもない。歴史ある公爵家の血はどうするのだ。
ドラクスが尋ねるが、フリク家の意思は変わらなかった。
「このようなことを口走るのは大帝陛下の臣として汚名となるだろうが、敢えて言おう。もはや何をしても無駄なのだ……せめて死に場所と死に方くらいは選ばせてくれ」
共に国に仕える身としてはとても納得できない言い分。けれどもドラクスは頷いてしまった。
「羨ましいよ。誇りと共に死ねるとは」
「一抜け失礼と言っておこう。これは社交辞令だが……残るかね?」
「まさか。まだやることが山積みなのだ」
帝都への帰還は速やかに果たされた。
凱旋を期待された将兵らの顔を見て帝都に住まう民は察し、これからは小規模な混乱が同時多発して大きなうねりになっていくだろう。
ドラクスは「この際、責を負い死罪でも」と淡い期待をしながら登城した。
実際、現場を知らぬ法衣貴族は若くして要職についたドラクスを対しここぞとばかりにつついた。
しかし大帝は雑音を退け、こう言い放つ。
「ドラクスに責はない」と。
大帝直々の言葉、そして誰がどうやっても勝ち目の無い魔族との戦いを実際に知る者たちの主張により、若き軍師はまだ考えることを止めさせてもらえない。
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「ドラクスよ、我が剣の柄よ、ご苦労だった」
「勿体なきお言葉です、陛下」
今代エカスドレル大帝、彼はこの時代には珍しい70代の老人であった。
「この度の敗戦、撤退、あらゆる責は我が身に」
「罰を求めるか?」
「いいえ……求めたとて、陛下が次に仰ることは分かりますれば」
「ははは、そうだな。死ぬことは許さん。多くを生かすことで罰とせよ」
本来なら大帝の思考を察しようとすること自体が無礼にあたるが、本人が笑って流した。
使用人しかいない大帝の私室での非公式な茶会……そこに堅苦しい空気はない。
「お主の父……ヨークスを息子のように思ってきた。お主を孫のように思ってきた。此度の大敗をもってしてもそれは変わらぬ。自分でも驚いておるさ……歳をとると丸くなるというのは本当だった」
若い頃は敵味方に関わらず苛烈な態度をとってきた男の、掠れた声。
「お主とこうして話せるのがあと何回だろうと思うと、寂しさすら感じるわい」
「……同じ思いです」
「してドラクスよ、お主から見てこの戦いは……エカスドレルはどうなると思う?」
ドラクスの口元が引き締められる。緊張によるものだ。
いくら無礼講であっても、常勝を保ち続けてきた大帝国の臣下として言ってはならぬことを口にするのだから。
「帝都は落ち、国は滅びましょう。周辺諸共」
「…………何年だ」
「帝都は早ければ数ヶ月、国は1年……持たせて2年」
長く続いた大帝国の余命宣告。大帝たる老人は目を閉じる。
「ならば1年と考えるべきだな」
「それは……」
「お主も知っておろう。度重なる前線の後退を受け、現実を見られぬ愚物が消えゆく椅子にしがみつこうとしておる」
20人いた大帝の子、その中の皇子たち。
その中でも領地を与えられた者たちの中には「今の負け続けの帝国は駄目だ、自分が大帝となって国をどうにかする」と嘯いて反乱か独立を企てている勢力がいくつもある。
領地持ちだけではない。宮中での動きも怪しい。
一丸とならねばならぬ。諸外国ですら帝国を頼ってきた。
それなのに肝心の屋台骨たちが率先して分解しようとしているのだ。
大帝は彼らを息子だと思わなくなり、愚息とすら呼ばなくなった。
彼自身もまた、本来ならばとっくに後継者を決め、椅子ではなくベッドで死を待つ老人となるべきだったのをズルズルと引きずってしまったと、己を愚か者呼ばわりしている。
「国を大きくすることだけを考えていた。自分たちは常に脅かす側であり、脅かされることはないと。肥大化したところに顔面を鈍器で殴られることがあればどうなるか……考えもせなんだ」
「陛下の嘆きは、この身の罪でもあります」
「そうだ……この国を担う者すべての罪だ。だが最も重いのは……」
トップである自分の罪こそ──大帝は咳混じりに呟く。
「ドラクスよ」
「はっ」
「懺悔に付き合ってくれたことに礼を言う。これからの話を聞かせてくれぬか」
宰相ら重鎮たちと考えたのは、臣民の北への逃亡。
国を捨てることができる者への支援だ。
「ある筋から北への渡りには目星をつけております。ただ……天柱教の懐に期待するしかない、情けない話ではありますが」
「よい。情けなくとも、命あればこそ……そう思える者だけが生き長らえるがよい。この地と国と誇りを愛するのならば、ここで眠ることもまた尊ぶべきものだ」
ドラクスは幼少期の頃に聞かされた大帝の武勇伝を思い出し、本当に丸くなったのだなと悟る。
「お主ならどうする?」
「この身よりも民を優先いたします」
「その民の側に立っているとしたら? 後ろを気にすることなく逃げてよいと言われたら、どうする?」
「…………命のみを欲せるような純粋さを忘れてしまいました」
果たして難民になったとして、未来は明るいのか。それを考えてしまう。
この国は他国を呑み込み、敗戦国の民を二等三等国民にしてきた。
逃げたとして、今度は自分たちが他国の三等……下手をすれば奴隷の地位に甘んじることになる。
一等である生粋の帝国民であればあるほど、命があるだけマシと考えられるような頭から離れていた。
「たとえすべての責務を取り上げられようと、この身は国から出ることはありませぬ」
「……そうか。ノギスと同じことを言うのだな」
「宰相殿と?」
「『この地を愛している。この国以外に暮らす自分など想像できん』……そう言い放ちおった。あやつめ、泣くのは孫の結婚式で最後だと言っておったくせにな」
同じようなことを考えている者は山ほどいて、他国もそうなのだろう。
魔族という災害に対し、もはや逃げることもしなくなる……嘆かわしいが、その嘆かわしさを肯定してしまうのだ。人間は。
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エカスドレル大帝国は建国史上初の触れ──避難勧告を出した。
令ではない。従う必要はない。国がサポートするから逃げたい者は北へ逃げろというものだ。
一等国民はほとんどが従わなかった。
今の暮らしが幸福で、捨てることなど考えられない。もうすぐ魔族がやってきて皆殺しにする? そうか、じゃあそれまでは幸福なままでいよう。わざわざ苦労して他国に逃げて、わざわざ今の暮らしが夢のようになる扱いにまで身を落とすなんて御免だ。
二等三等国民もまた、一等ではないものの動く者は少なかった。
非差別階級だが一応の市民権はあるのだ。それが他国に行ったらどうなるか、ただでさえ裕福とは言えない現状だが、それよりも酷い有様になるのではないか。
よほどひどい扱いを受けている者でなければ逃げようとはしなかった。
他国からやって来た難民は……彼らに作った街は既に魔族が滅ぼしただろう。難民問題は物理的に消滅した。
国に忠を尽くす兵は別だ。逃げたくても逃げられない。
といっても彼らも民と同じ。逃げてどん底に落ちるより国のために命を捨てるということに美学を見出し、それに酔って絶望を忘れようとした。
多分死ぬだろう。国は負けるだろう。ならいっそ恥じぬように、フリク公爵のように誇りと共に。
どうせなら魔族を殺してから。
傭兵はほとんどが逃げ出した。これまでの報酬を受け取り懐を潤わせ、死ぬ思いをしただけはあったなと賭けに勝った顔で北へ。
報酬によって国庫は干からび、2年と国を保てないほどになったがどの道だろう。
ただ、それは平民や中央貴族の話。諸侯や皇子たちは違う。
この状況において、帝都に進軍しようという動きがある。大帝が言った通り「今なら自分が王位簒奪いけるんじゃないか」と現実の見えていない行動をする皇子がいた。『今こそ自分が国を率い魔族どもを成敗する』という謳い文句と共に。
どさくさに紛れて後継者争いの相手を殺そうという皇子もいた。
エカスドレルに取り込まれる前の祖国を復活させようという辺境領主もいた。
あらゆるものが錯綜して、しかし何一つ結実しない。あらゆるものを奪う敵が迫っているのだから。
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帝都のとある酒場……前に訪れた時、エイトの横には女がいた。そして今もいる。
ドラクスにとって、頼みはその女だ。まさかそうなるとは誰も予想していなかったが。
「私が北に……?」
「そうだ。国としてあなたに頼みたい」
シスレス・インフィーフィヴ……亡国の王女であり、今はエイト・レイカーに頼まれて仕事をしている。
その仕事というのが、早い話が人脈作り。
人類大陸は広く様々な文化があるが、王族として育ったシスレスはよほどの異文化国でない限りどこに出しても恥ずかしくない淑女である。それを利用し、北にいくつかの伝手を作っていたのだ。
「あなたなら、避難民を北に案内することもできるだろう」
「まぁ、できるけど……」
最初は「シスレスが北に逃げた時のため」というエイトの考えだった。
北方である程度の人脈を作り、住む場所や地位などを得られるようにとのことだ。そのために財産の一部を預けた。彼にとって金は孤児院に寄付する以外に使い道のないものだったから。
「俺は初耳なんだが」
「なんでお前が知らないんだ。聖都ではそこそこ顔が売れているそうだぞ」
「そ、そうなのか……」
ただシスレスの能力がこっち方面に高かったのはエイトですら予想外。
彼女は少なくない金をみるみるうちに減らし、その分だけ北で顔を売った。
顔を売って何がしたかったかというと、大陸北部にある諸国への『魔族の危険』を訴えることだ。
「亡国の元王女を名乗る人間がいきなりやってきて何を言っても、誰も聞かないからね。あなたのお金が役に立ったわ」
今では『インフィーフィヴ協会』という団体の設立を目指しているらしい。
聖都を足掛かりに魔族という人類の天敵についての情報を大陸北部に流す組織だ。
構成員は主に大陸南部の生き残り、つまりは難民。
「私もやっと戦える……剣ではなく、言葉で」
エイトは感心した。
出会った時は絶望に暮れる小娘だったのが、いつしか立派になったものだ。
少し背中を押し靴を履かせるだけでどんどん歩き、こうしてドラクスが頼るほどの力を手に入れた。
帝国から逃げる難民……彼らだけで行くよりも、既に顔が知られているシスレスを通しての方が受け入れられやすく、話もスムーズになるだろう。
その上、魔族の情報も持って行ってくれる。帝国が慌ただしくそれどころじゃない時に動いてくれるのだ。
「以前、あなたとここで話したことがあった。覚えているか?」
「ええ……もちろん」
「あの時、あなたは自棄になった小娘に見えた。だが……まんまと見返されたな」
まだ組織を名乗れる規模ではないが、ドラクスは帝国の名で『インフィーフィヴ協会』にお墨付きを与えることにした。
それと彼自身の懐からも資金を提供。
後に大陸北部の国家群を繋ぐのに一役買う組織の誕生である。
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それから3ヶ月、逃げる気のある者を帝国中から集め、シスレスに率いられた難民団が帝都を出発。エイトは残って戦おうとしたが、ドラクスの説得により『朝日の槍』など難民の護衛依頼を受けた傭兵団らに混じる。
その同時期のことである。魔族の軍が帝都に向け進軍しているとの報が入った。
入れ替わりのようなタイミングだが、間に合った。逃がすことができたと安堵すべきだろう。
既に防備は整えてある。戦いは帝都近郊の平野部で行われる。
戦える者なら身分も等級も問わず募い、兵の頭数は確保。これまで撤退戦を繰り返してきた将兵は言わずもがな、残った『堅盾』も揃い踏み。
簒奪のために帝都にやってきた皇子は「今それどころじゃない」と説き伏せることができた。結果的に援軍が増えたのだ。
周辺国から来た援軍もそのまま指揮下に入る。
号令は老体に鞭を打った大帝自らが行った。
「この戦いは帝都だけではない……我らが背負うのは後ろにある街と家族たちだけではないのだ! この国、そして大陸南部……ひいては人類のための戦いである!! 我らが死のうと、北には既に未来への種を撒いた。後のことは気にせず死ねるだろう! この地を、この大陸を愛する者よ、希望をつなぐため、未来のために死ぬのだ!!」
戦闘が始まり、両軍が激しくぶつかり合う。
もはや撤退という手段は無い。死に物狂いで守り、魔族を殺すしかない。
そんな戦いに立たされた帝国臣民はかつてないほど奮戦する。
誰も彼もが必死。この戦いがすべてであり、他のことを気にする余裕などない。
数日後、難民団が道中で魔族の別動隊に急襲されることも、目の前の敵を殺すことに集中する彼らには気にすることができない。




