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天柱のエレーナ・レーデン  作者: ぐらんぐらん
-1000 My detestable and dear memories
145/212

六 茫漠タル距離

 どう帰ったかは覚えていない。


 手放される浮遊感。つながりが切れる音。

 見えも聞こえもしないものを感じて、自分が自分でないようで、半身が消えたような感覚のまま……気付けばエレーナは自分の家の前に居た。


「嘘、だよね」


 シェリアがそんなこと言うはずがない。

 あれはきっと、間違いか、嘘。

 大丈夫、まだ手はつながっている。だから、大丈夫。


「エレーナ!? ずっといたの!?」


 外に気配を感じて出てきたのか、扉を開けたリリィは大層驚いた。


「どうしたの? とにかく入って」

「うん…………」

「ご飯、出来てるから。食べる?」

「食べる…………」


 エレーナにとって母の料理はどれも美味しい。

 イライラ期だったここ数日でもそれは変わらなかった。


 なのに、今日は味がしない。

 するはずなのに、しない。


『もう来なくていいから』


「っ……!」


 別れ際の冷たい言葉。

 あの時、何かが切れたような感覚がしたときに味覚を落としてしまったのだろうか。


 食べ終わる前にレオンが帰ってきて、親子3人での食卓となっても味覚が戻らない。


「エレーナ、どうしたんだい?」

「帰って来てからこんなで……ずっと玄関の前に立っていたのよ」

「えっ……大丈夫? 何かあった?」


 両親の心配そうな眼差し。

 眩しいほどのそれから目を逸らし、エレーナはぽつりと零す。


「……シェリアと、喧嘩した…………」


 ひとまずの理由が分かり、2人の緊張が弛緩する。

 子供同士の喧嘩なら深い問題でもない。時間と反省と態度で治っていくものだ。


「そっか……仲直りできそうかい?」

「…………わかんない。むり」

「なら、しばらく屋敷には行かずにいよう。落ち着いて、お互いまた話せそうなら会えばいいよ」


 レオンが温かく頭を撫でる。

 リリィも「大丈夫よ」と励ます。


 しかしエレーナの喪失感が消えはしない。喪失感を覚えていることすら言葉で説明できるほどエレーナは大きくない。

 両親に言われた通りにすれば仲直りできるのか、それすらも分からない。


 なにか致命的なかけ違いを抱えたまま、幸せな家庭の一夜は過ぎていく。



 エレーナが寝床に入っても頭の中では言葉が反響している。


『なら、もういい』

『あんたはいらない』

『もう来なくていいから』


 怒られた時よりも、叩かれた時よりも、心臓が痛くなって止まりそう。

 涙が出てくるのは、直感的に悟ったからだった。


 見放された、と。



 □□□□□



 それから2週間、シェリアからの音沙汰はなかった。

 アイリアが訪ねてくることもなく、エレーナは起きてから寝るまでを家の中で過ごす。


 心に空いた穴と向き合っていると、時間があっという間だった。


 こういう時、領主お抱えというニフュー家はありがたくも厳しい。

 レオンひとりが働いていればリリィとエレーナを養うほどの給金を貰えるから、家でじっとしていても飢えることはないのだ。

 逆に言えば、働いて動いて気を紛らわせるということができない。本人にやる気がなければ少女は時間をいたずらに消費するだけだ。


「エレーナ、お外出ないの?」

「出ない……」


 リリィも無理に動かそうとせず、見守るだけ。

 窓から陽が差し込む長椅子、彼女はエレーナの横に座る。

 頭を撫でながらぽつりと話をしたのは、心配だから。母親らしくしてみたいから。


「お母さんね、昔はたくさんの子供たちをお世話するところにいたの」

「そうなの?」

「うん。みんな可愛くて、元気で、お利口で……もちろん、今はエレーナが一番だけどね」


 どこか遠いところを見る母は何を思い浮かべているのだろうか。



 思えばエレーナは両親のことを何も知らない。

 知っているのはこの国の生まれじゃなくて、どこか遠いところからやって来て移民として戸籍を得たということくらい。


 2人はどう生まれて、自分と同じ年頃では何をしてて、どうやって出会って、今ここにいるのか。

 訊いたことがなかった。知ろうとも思わず、そこにいることがすべてだったから。


「その中にね、今のエレーナと同じような子がいたの。お部屋の中で、本を沢山読んでた子」


 その子も同じように塞ぎこんでいたのかと尋ねると、リリィは首を振った。


 いま家の中にある本と言えば、昔シェリアにもらった勉強のための教本。

 その子は前のエレーナのように勉強していたのか。それも違った。


「あの子が読んでいたのは……何だったかしら。物語とか、世界の難しい仕組みとか、私もよく覚えてないけど……みんながお外で遊んでても、誰かに手を引かれても、ずっとお部屋にいたの」


 本といえば高級品だ。家にある教本もフライフル家が貸し出しを許可してくれた、本来なら平民が触れることすら叶わないもの。

 それを何冊も、色んな種類の本を。母親が昔いた場所というのはよっぽど上流階級の集うところだったのではないかと思える。


「他にはどんな子がいたの?」

「元気な子、やんちゃな子、泣き虫な子、いつも楽しそうな子……色んな子たちがひとつの場所に集まって、そこは虹のように輝いて、キラキラした場所だったわ」


 エレーナは少し羨ましくなった。

 色んな子がいて、みんなが仲良くしてて、キラキラしている……自分も行ってみたい。


「どうしてお母さんは今もそこにいないの?」

「うーん、いたかったけど……出ていくしかなくなっちゃって。だからちょっと気にしてたりするのよ」

「また会いたい?」

「……そうね……いつか……でも、きっと会えないから、むしろ安心してる」

「?」

「会ったらエレーナのお母さんじゃいられなくなるかも」

「えっ……やだ……」

「ふふっ、だからそこには戻らないし、戻れない。みんなに会うこともなく、私はあなたの傍にいるわ」


 小さな肩が抱かれ、引き寄せられる。

 存在を確かめるようなそれは、エレーナの鼻孔に甘い匂いを届ける。


「……ケーキ?」

「正解。あとで食べましょうね」

「やったぁ……!」



 しばらく静かでゆっくりとした時間が続き、無言のまま窓からの光の角度が変わる。


 この沈黙が、エレーナは幸福に感じた。

 お話をすればもっと幸福になる。母との会話は楽しい。


「お母さんは、どうやってお父さんと結婚したの?」

「うーん、形式はね――」

「あっそうじゃなくて……どうやって出会ったのかなって。この国じゃないんだよね?」

「そうね。この国じゃないところで、私がお父さんを見つけたの」

「見つけた?」

「うん。ひとりで暮らしてるあの人を見つけて……気になって、気付いたらずっと見てて……好きだなぁって思って、私から話しかけたの」

「へぇー……!」


 母はさらに語る。

 レオンと結ばれるためにそれまでの暮らしを捨てて、2人で旅をして、ここにたどり着いたと。


「じゃあ、さっき言ってた戻れないっていうのは……」

「……私が捨てたから。まぁ、子供たちも大人になってたし、いいかなって」

「いいの……?」

「よくない、けど……よくないことをしてでも、私はお父さんと一緒になりたかった。エレーナにもそういう人ができるかもしれないわね」


 少女の頭には真っ先にアイリアが浮かぶ。しかし、振り払う。


「できても、一緒になれなかったら……」

「一緒になるために、何でもする……全部を捨ててでも。この国でこういうことを言うのはいけないんだけど、私は思うの……正しいことより、しなきゃいけないことより、愛することを……私は優先したい。そこにどんな苦難や結末が待っていてもね」


 それがエレーナには福音に聞こえた。

 『掟の国』というがんじがらめの環境で、貴族であるアイリアを何よりも求めて、一緒になってもいい。そう言われてるようで。


 まぁ、やり方など分からないのだが。


「……さっき言ってた子……本を読んでた子は、お外に出た?」

「出たわ。みんな大人になって、出て行かなくちゃならなくなったから」

「大人に……」

「その子はとっても立派な……正しい大人になったわ」

「私も、なるのかな……」

「大人にはなれるわよ。でもどんな大人になれるかは……あなたが決めていいことだし、あなたが決めなくちゃいけないこと。それを見つけられるまで、私もお父さんも一緒に探してあげるからね」

「うんっ……!」


 母との会話は、少女に多少の元気をもたらした。


 明日、シェリアのところへ行こう。


 まだわだかまりはあるし、喧嘩もするかもしれない。

 でもこのままつながりが切れたままなのは、何よりも嫌だから。また手をつなぎに行こう。



 □□□□□



 と、前向きな意気込みをしたわけだが、エレーナは屋敷の中に入れてもらえなかった。


「お嬢様より、平民の娘は通すなとの仰せです」


 門番にそう言われて塞がれれば、大人が怖いエレーナは強く出れない。

 彼らとは面識がある。彼らもエレーナのことは知っているし、シェリアと仲が良かったことも知っている。何年も見てきたのだ。


 しかしそれはそれ、これはこれ。当のシェリアが命令という形で言った以上、どんな相手も通すわけにはいかない。


「あの……でも……」

「……エレーナちゃん、言いにくいんだけど…………もうここには来ちゃいけないんだよ」

「っ……」


 まだ若い門番の片割れが同情の声色で諭す。

 彼とて通してあげたい気持ちはある。ここでエレーナに泣いてほしいから通さないわけではない。


「でも……私……シェリアに……」

「何をしているのですか?」

「あ、ジーツ殿」


 屋敷の方から歩いてきたのは、シェリアお付きの執事であるジーツ。初老ながら顔に多くの皺をたくわえた老け顔の古株だ。


「エレーナちゃんが、お嬢様に会いたいと訪ねてきていて……」

「お嬢様はこの前通すなと仰ってましたし……追い返そうと」

「ふむ…………通してよいですよ。私が案内します」

「っ、いいんですか!?」


 エレーナは光明を見た。

 ジーツが良いと言ったのなら、それはシェリアの許可も同じ。

 会うことが許される。つながりが切れていないと思える。


「よろしいので?」

「他の者には行き届いていませんが、許可は出ています。さぁこちらへ。お嬢様は裏庭の倉庫にいます」


 ジーツの許可のもと門が開かれ、エレーナはお礼を言いながら中に入る。

 その背中を見送った若い門番は「珍しいな」と呟いた。


「お達しが俺たちに届かないこともあるんだな。それにお嬢様は今日は部屋で勉強だったと思ったけど記憶違いだっけ?」

「さぁな。まぁジーツ殿がついてるなら間違いないだろ」



 □□□□□


 フライフル家の屋敷は広い。

 一般的な貴族屋敷の形をとっているが辺境伯家として防衛にも重きを置き、庭は沢山あるし邸から邸までの道も限られている。


 裏庭とは人があまり立ち寄らない場所であり、その倉庫は普段使われないものが埃を被っている。

 ジーツに連れられてやってきたそこには、当然のごとく誰もいない。


「シェリア……?」


 返事はない。中は薄暗く、小さな窓から差し込む光でかろうじて見えるという程度だ。

 懐かしい場所だった。昔かくれんぼをしたときに、広い屋敷のこんな薄暗い片隅をまさか見つけられないだろうと思って隠れて、いとも簡単に捕まった場所だ。


 シェリアもそれを覚えていてここを選んだのだろうか。会うためにここに連れてきたのだろうか。

 少しだけ胸が軽くなり、隠れていそうな場所を探す。倉庫は広くない。少し探れば人くらい簡単に見つかる。


 しかしどこを探してもシェリアはいなくて、倉庫の扉が閉まる音が響いた。


「え……? ジーツ、さん?」

「…………」


 暗がりの彼の表情は分からない。しかしその目はじっとエレーナを見つめ、ゆっくりと近づいてくる。


「あの……」

「お嬢様は来ません」

「えっ?」


 皺だらけの手が伸び、エレーナの服が掴まれる。

 どうしたのかと問う前に、平民の服は大人の力によって簡単に引き裂かれた。


「ひっ!? えっ、なに!?」


 手は止まらない。

 初老執事は無言でエレーナが人に見せない場所まで露わにさせようと動く。


「やめて! どうして! やだ!」

「うるさい!」


 バシンと頬を叩かれた。

 ここ最近こんなことばかりだ。慣れることはない。痛みと恐怖がやってくる。


「ぁ…………っ!」


 声が引っ込んだエレーナを、無言のジーツが組み敷く。

 何度も顔を合わせて、何度も言葉を交わした仲。そんな彼からは想像もできない、無言の暴力。

 エレーナは訳も分からず見上げ、彼の目の中に見たこともないものを見る。


 それは欲望。それは情欲。


 ジーツは少女趣味だった。それもどうしようもないほどの。

 鬱憤を溜めやすい性格と職業。そんな彼の発散が愛らしい少女たち。

 自分の主はもちろんのこと、未来には絶世と称えられるだろうエレーナを見逃すはずがない。

 無論誰にも明かしていないが、これは彼の欲を満たす絶好の機会だった。


 シェリアが待っているというのは真っ赤な嘘。エレーナを人気のない場所に連れ込める好機に突発的に飛びついた。

 普段は立場を利用してシェリアの使用済み下着を拝借する程度だったが、こんな餌をちらつかされては我慢のしようもない。


 そして今、エレーナは自分の下で震える兎と化している。

 口元が醜く歪むのを抑えられない。


「や、やだ……!」

「悲鳴を上げればまた殴るぞ」

「っ、や……」


 脅せば黙る気弱な少女。実にそそられる。

 この後彼女が誰かに泣きついても、どうとでもできる。なにせ自分は辺境伯令嬢の執事で、相手はただの平民なのだから。


「ッッ、きゃああああぁぁぁぁぁぁ!!」

「黙れ!」

「がっ……! ぎっ、あああああああぁぁぁぁぁっ!!」


 まさか叫ばれるとは思わなかったが、ここは誰も来ないような裏庭。

 小さな口に突っ込む荒縄もその辺に落ちている。が、それよりも優先すべきものがある。


 ジーツは完璧に自分の欲を解放できることを確信し、残ったエレーナの布に手をかける。

 すでに上半身のものは裂け、あとは肝心の下半身。

 彼女が屋敷に入り浸るようになって4年……4年もの間夢見た穢れのない秘所まであと少し――無垢な少女を染める欲望の背に音が響く。


「は…………?」


 扉が開く音に一瞬遅れて、少女の出す低い声が倉庫内に響く。

 ジーツもエレーナも動きを止め、声の主を視界に捉える。


 オレンジ色の髪が揺れていた。


「なっ……!? お、嬢……様……」

「っ……!!」


 シェリアの目が見開かれ、誰にでも分かるような怒りの表情が浮かび上がる。

 同時に彼女の右手が動き、指先が魔法陣を作り上げる。

 天才と称される少女の魔法陣構築速度は速く、誰も反応ができない。


 すぐさま【風刃】が倉庫内を薙ぎ、咄嗟に目を閉じたエレーナの耳にざくりという嫌な音が届いた。


「え…………?」


 見上げれば、先ほどまで自分の上にいたジーツの首がなくなっていた。

 束の間シェリアに手を引かれ、重くなった彼の下から出される。


「ぁ…………ひ、人……あ、ころ……」

「なんでここにいんの? あんた」

「えっ……しぇり、あ、ころし……」


 人を殺す。この時代では珍しくもない。

 兵士は当たり前のように敵を殺すし、アイリアだってエレーナを助けるために賊を殺した。


 けど、ここは戦場でも山の中でもない。平和な領都の、領主の屋敷内だ。目の前で首が飛ぶなんてこと、あっていいはずがない。

 自分の執事を殺して冷静でいられるシェリアに、エレーナは恐怖する。


 そのシェリアは執事だった者の首なし死体を一瞥し、次にエレーナを見る。


「あんた…………ッ」


 上から下まで、確認するように見られる。シェリアの視線には困惑が乗っていて、次第にそれが歪んでいく。


「……気持ち悪い」


 汚物でも見るように、シェリアは心底軽蔑する表情を見せた。

 既に上半身に布はなく、下も腿まで露出している。エレーナは恥じらい、手で胸を隠した。


「っ、じ、ジーツさんが、急に……! 私、怖くて……」


 シェリアもなんとなく事情は察している。

 勉強中に門番が「どうしても気になって」と知らせに来て、何か嫌な予感がした。

 普段からジーツが時折自分に向ける謎の視線を知っていたシェリアがこのようなことになっていると結びつけるのに時間はかからなかった。


 使用人を殺したこと自体は大した問題ではない。どうせ叩けば埃が出てくるような男だ。

 むしろその本性を知って、シェリアはそんな男を見抜けず自分に付けた父を糾弾する思いだった。



「助けに、来て、くれたんだよね……?」

「……もう来るなって、言ったわよね」

「っ、で、でも……あの……」

「私のものじゃなくなったくせに、どうしても言うこと聞けないのね」


 エレーナは体全体を貫くような衝撃を感じ、視界が飛んだ。

 壁に叩きつけられていると知ったのは数秒費やしてのことだ。

 認識した途端、痛みがやってくる。


「ぁ、かはっ……!?」


 シェリアの手には【風砲】の魔法陣。威力は抑えたようだが、この行動の意味が分からない。


「私、まだ魔法は勉強中なの。殺さないように痛めつけるような威力の調整も難しいし、基準も分からない」

「しぇり……ぁ……なん、で」

「でもちょうどよかった。どうせあんたなんているだけで周りに迷惑かけるんだから、有効活用してあげるわ」


 とても13歳のものとは思えない、嗜虐的な笑み。

 それでいてとびきりの玩具を手に入れたような高揚の目。


 そしてエレーナはようやく気付く。

 シェリアの一人称は「あたし」だったのに、いつの間にか「私」に変わっている。淑女と当主を目指すために口調を矯正された彼女の成長の一部。


 今はその「私」がひどく硬質で、冷たくて、手を伸ばしても届かない錯覚。


 目の前にいるシェリアは、本当に自分が知っている彼女なのか。

 手を差し伸べてくれた彼女なのか。つないでくれた彼女なのか。

 どうしようもなく本人なのに、どうしようもなく別人に見える。


「そんなに一緒にいたいなら、いてもいいわよ。浅ましいエレーナ・ニフュー。私の練習の的にしてあげる」

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